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第36話 小川の水

「シシー…シシー…」


 力のない声を響かせ辺りを見回すトレイル。

 少しだけ見えたシシーの後ろ姿を追い、森に入ったトレイルの歩みは背中の激痛のせいで遅く、声もあまり出せていなかった。

 目印にしていた切り株もシシーが逃げて行った方向には少なく、少し進むだけで切り株はその姿を消した。

 戻りのことも心配しなければならないのだが、トレイルの頭の中では別の心配ごとで一杯だった。

 シシーはどこにいるのだろう?

 シシーは一人で大丈夫だろうか?

 もしもの事態が頭を過るたびに歩幅を伸ばし、声を荒げる。結果として背中に今以上の痛みが襲い、縮こまってしまう。

 そんなことを何度か繰り返していくうちに小川が現れた。

 人の手が加えられていない小川は驚くほど透き通っており、水中を泳ぐ小魚の群れがよく見える。小川の底は足首ほどの深さしかなく、幅も怪我人でなければ軽々と飛び越えられるほどしかない。

 トレイルはそんな小川になんの迷いもなく踏み込んだ。

 片足がヒンヤリと冷たい水の中に入ると、当然ながら靴の中に透き通った水が浸入し、なんとも言えない不快感が襲ってくる。

 それすらも気に留めずもう片方の足を水の中にひたすと、奇妙な感覚を覚えた。

 先に伸ばした方の足から浸水の不快感が消えた。確認しようと足元を覗こうとすると、もう片方の足からも水に浸かっている感覚がなくなった。

 だがヒンヤリとした冷たさだけはしっかりと残っている。まるで『水の性質を失った水』のように。


「トレイル…?」


 聞き覚えのある声…シシーの声が耳に入り、真下を向いていた頭は勢いよく上がると、首が一回りしてしまいそうなほど辺りを見回した。


「シシー!ここに居たのか」


 シシーは小川のすぐそばで丸くなるように座っていた。

 嬉しさと安心のあまり、小川を突っ切りながらシシーの傍に駆け寄るトレイル。ジャブジャブと水を蹴る音が響き、トレイルの履いていたズボンがびしょ濡れになっていく。

 そんなことなどお構いなしのトレイルを見ていると、シシーの落ち込んでいた気持ちも、自然と安らいでいく。


「探したぞ。川を覗き込んで考え事でもしてたのか?」


 それでも、一度抱えてしまった不安感情は歯止めが利かないほどに増殖し、今ではトレイルの言葉が全て偽りで作られているようのに感じてしまう。


「ただ…眺めてただけ…」


 信じていたい。

 いくらそう考えたとしても、心に生まれた恐怖がそれを許さない。

 信じることは悲しいこと。信じることは裏切られること。優しかった村の皆も、愛してくれていた親も、簡単に裏切った。

 目の前にいる男を見つめないように俯き、小川に目を向けるシシー。

 男の足が見える。その足の周りの水が白い。それだけで頭がおかしくなりそうだった。だが男は声に出すような笑いをこぼすと腰を降ろした。


「眺めるだけじゃ面白くないだろ?いっそのこと腰まで浸かってみないか、シシー」


 透き通る水中にためらいもせずに胡坐あぐらくトレイル。

 小川を見つめるように下を向いていたシシーの眼前に、突如として現れたトレイルと目が合い、二人はしばらく眉ひとつ動かせなくなった。

 見つめ合っている間、まったく笑顔を絶やさなかったトレイルに負け、先にシシーが目を逸らした。勝ち負けを競っているわけでもないのに、目を逸らしてしまったことはとても悔しく…そしてとても楽しくもあった。


「あたしはあんたみたいな変人じゃないの。服を着たまま水の中に入ったりなんかしないし、友達を助けられる方法を知っておきながら、それを黙ってるような人間なんかじゃないの!あっち行ってよ、あたしなんか『呪われた可哀そうな女』としか見てないんでしょ?信頼なんかしてないんでしょ!?」


 怒るような悲しむような複雑な気持ちをぶつけていくうちに、シシーの瞳からポタポタと涙がこぼれた。

 それに気が付いていないシシーは強引にトレイルの胸倉を掴むと、勢いあまって突き飛ばしてしまった。

 トレイルは小川の底にしっかりとした土台を作っていたにも関わらず、決して強くない力に負けてしまい、小川の底に背中を強く打ちつけた。


「シシー…俺はお前を信頼してる」


 小川に全身を浸からせたトレイルは空を見、そしてシシーを見た。

 激しい痛みで歪んでしまった表情から、微かに零れた笑顔が口にした言葉はあまりにも率直で、あまりにも捻りがなく、あまりにもトレイルらしかった。


「嘘よ…嘘に決まってる…」


「嘘じゃない」


「…嘘よ、あたしは『黒火』とか言う魔法であんたに危害を加えたのよ、それにあんたは『白水』とか言う魔法のことを教えてくれなかったじゃない…あんたが白水について教えてくれたら…そしたらあたしは…」


「そうだな…だけど白水について語るには黒火についても語らないといけない。俺は少し怖かったんだ、お前から黒火を喰らった。と打ち明けるのが…」


 川に浸りながら大の字を描いていたトレイルは背中に降りしぼるような力を込め起き上がり、再度小川の中で胡坐あぐらく態勢となった。


「そもそも…黒火ってなんなの?あたしいつ黒火なんて魔法をあんたに向けて唱えたの?」


「それを説明する前に、まずは白水について知るべきだ」


「…わかったわ」


 あまり納得のいく返事ではなかったが、ここで言い争うのも時間の無駄と思い、口には出さなかった。


「白水。お前も思い当たる節があるかもしれないが、恐らくそれだ。白火と同じ系統の『聖なる白い水』で、もともと水の魔法には癒しの効果もついているが、白水はそれの究極系と言っても過言じゃない。どれほど重度の傷であっても、一晩白水に浸しておけば次の日には完治していると言われるほどの水だ」


「それが本当ならなおさら…」


「今のお前に出来るのか?清い心で魔法を唱えることが」


「それは…」


 シシーの言葉がよどんだ。

 両親に裏切られ、心がすさんでいたあの状態では清い心を保つことは困難であっただろう。トレイルはそれを汲み取り、あの場ではわざと白水のことを言わなかったのだろうか?

 そんな風に考えていたシシーの心に、小さな光が照らされた。


「それにな、聖なる白い魔法があるように、それ相反する『邪悪な黒い魔法』もあるんだ」


「それって黒火のこと…?」


「ご明察。邪悪な黒い魔法ってのは魔法使いにとっての天敵でな、深い憎悪や怒り、恐怖を抱えたまま魔法を唱えることによって生まれる黒色の魔法なんだ。黒火を当てられた者は俺みたいに激痛をともなう火傷跡を負い、その上普通の方法じゃ治せない。多分、お前が丸太に縛られてた時、あの時白火を創ろうとして結果、黒火が生まれ、普通の炎を伝って俺の背中を焼いたんだろうな」


 他人事のようにヘラヘラと笑うトレイル。

 シシーにとってはどんなに償っても許されることのない大罪を、トレイルは笑い飛ばすことで気にしていないと伝えようとした。


「今のあたしじゃ白の魔法であんたを救うどころか、黒の魔法であんたを苦しめることしかできない…それを知ってあんたは黙ってたの?」


「まあな」


 小川の中で無邪気に笑うトレイルはシシーが今まで目にしていた彼以上に愉快そうだった。

 まるで背中のマグマなど存在しないかのように。


「トレイル…あたしはあんたを救いたい。解呪してもらう代わりにとかじゃなくて、単純に大切な人としてよ。だけど今のあたしじゃそれすらもできないわ、あたしはどうしたらいいの…?」


 その質問にトレイルは困ったように微笑んだ。必死に頭をこねくり回していると、小川の水が目に止まった。


「そうだな…シシー、口を開けてくれ」


「口を?」


「そう。口を」


 言われるがままに出来る限り大きく口を開くと、トレイルは両手で小川の水をすくい、シシーの口の中に少しずつ注いでいった。


「んぐっ?」


 不可思議な点が二つあった。

 一つはトレイルが掬った水の色が薄い白色だったこと。正確にはトレイルが胡坐を掻いている場所の周りの水だけが白かった。

 もう一つはその水の喉越し。いかにもなにかしらの味が付いていそうな白色の水には味はおろか、口の中に入ってきた感触や、喉を通り越すような喉越しすらなかった。あるとすれば、それはヒンヤリとした空気だけ。

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