フィールド・サバイバル(2)
周囲に土臭さが漂い、グォという音がカワサキの耳に届いた。地震と思っていた地鳴りは土砂崩れの前兆であったのであろう。
カワサキとしては儚い望みであるが、雨宿りとしている此処一帯が土砂崩れを起こさないことを祈った。もしも、土砂崩れが発生したとしたら仮に地鳴り等の前兆で気付いたとしても確実に安全圏へ脱出できる可能性はゼロに近い。
日暮れが近付いているのか、豪雨で薄暗い空は一層暗さを増し始めている。カワサキは、ショルダーバッグから空気を入れて膨らませて使用するエアマットを取り出して、吸入バルブのキャップを外して口を付けて息を吹き込みエアマットを膨らまし始めた。畳一枚分の大きさにエアマットが膨らみ、身体を休ませ寛ぐことができる状態とはなったが、油断して寝ている間に、新たな土砂崩れが発生する可能性があるかもしれないので今夜は徹夜になることを覚悟した。
カワサキは、焚き火にあたりながらも時折薪代わりの拾い集めた枝をくべながら、CIAから支給されている携帯電話を取り出して、周囲の雨雲の状態をチェックしたり、ネットのニュースを覗いたりしながら時間を潰していた。ただし、単に時間潰しに気を取られるだけでなく、時折、焚き火の鈍い光を頼りに庇の周りへ視線を向けて僅かな変化がないかにも当然気を配っていた。
永く感じるはずの夜更けも気を張り続けているカワサキにとって、感覚的には時間の経過が思いのほか早く感じられた。
そして、日の出前を迎える頃には、流石のカワサキも精神的な疲れで一瞬ウトウト仕掛けて寝入りそうになったのだが、日の出前の冷え込みで足元から底冷えを感じると直ぐに眠気は去ってゆく。
徹夜明けの状態に、朝日が眩しく差し込むと昨夜の激しい豪雨がまるで嘘のように感じられるが、周囲に生い茂る枝葉から溢れる滴の絶え間ない音だけが昨夜までの激しい豪雨を物語っていた。
一晩中、炎を絶やさぬようにしていた焚き火も今朝は炎が小さくなり始め大部分が熾火になってきた。薪も僅かに数本を残すのみであったが、カワサキの朝食を作るくらいは持ちそうなので、ショルダーバッグからキャンプ用の焼き網を取り出して、周囲から集めた石で作った簡易な竈に焼き網をセットすると、保存袋に仕舞っておいたイノシシの肉を出して焼き始めた。
カワサキは、イノシシの肉が焼き上がるまでの間に、昨夜の豪雨で餌にありつくことができなかった野生の肉食獣が集まってくることに備えて、ソフトケースからプレシジョンライフル銃を取り出すと、薬室に実弾を装填して安全装置を掛けておいた。
昨夜の豪雨という状況に加えて、近場では土砂崩れも発生したようなので周辺を縄張りにしている夜行性の肉食獣は、餌が確保できていないと思われる。そんな状況でカワサキがイノシシ肉を焼けば、その香ばしい肉の匂いは肉食獣にとって絶好のご馳走となるのは容易に想像できる。
焼けたイノシシの肉からは、脂が溶け出して焚き火の炎に炙られて香ばしい匂いが立ち込め始める。餌を求めて訪れるかもしれない肉食獣が一層気になるところだが、カワサキの胃袋も香ばしい匂いに釣られて猛然と空腹感を自覚する。
金属製のフォークを使って何度かイノシシ肉を焼き網の上で返して、イノシシ肉に充分な加熱を加えると、別の保存袋に仕舞っていたバンズを1個取り出して、焼き上がったイノシシ肉をバンズに挟んで特製のハンバーガーを作った。
本音としては缶ビールと共にイノシシ肉のハンバーガーにかぶりつきたいところだが、生憎ショルダーバッグの中に缶ビールを準備していないのと、この山中から無事に引き上げることを考えて、ペットボトル入りの野菜ジュースで朝食を取ることにした。
昨夜、イノシシを解体して塩胡椒とドライハーブ、更に野菜ジュースに漬け込んでいたので、思いの外上手く下味が付いたイノシシ肉は野性味独特の風味が残っているものの比較的肉質が柔らかく充分に美味しく食べることができた。
カワサキが、朝食を終えた頃には焚き火は殆んど熾火となっていた。ワーキンググローブをした手で簡易な竈としていた石の1つを持つと炭状になった熾火を叩き始めた。更に近場から拾って集めた雨に濡れて水分をたっぷりと含んだ落ち葉を載せるとジューという音と白い煙が立ち上ぼり焚き火はすっかり消火される。
焚き火が完全に消えたことを確認したカワサキは、一度ワーキンググローブを外して携帯電話を手にするとGPS機能を起動させた。携帯電話の画面を見ながら昨日、雨宿りで歩いてきた方向に向かって暫く歩き、己が向かう方向の確認ができると携帯電話をジーンズの尻ポケットに仕舞い、両手にワーキンググローブを着けて荷物を収納したショルダーバッグとライフル銃を納めたソフトケースを背負い力強く歩き出した。カワサキが歩き出して200メートルほど進むと目の前には昨日とは違った風景が目に飛び込んできた。
昨日まで、生い茂っていたはずの木立が1本もなく深さ2メートル、幅が20メートルほどに地面が抉られようになり、水分を多量に含んだ赤土が露出している。間違いなくカワサキが昨夜耳にした地鳴りは、ここが土砂崩れを起こしたことによって聞こえてきたのだろう。
この状況は、カワサキを非常に悩ますことになった。この現場を最短で越えていこうとするならば抉られたエリアに降りて行けばよいが、水分を多量に含んだ赤土では足元が滑って倒木した樹木や泥だらけの谷まで滑落することになる。加えて、水分を含んだ赤土は天然の接着剤のようにシューズのソール部に付着して、まるで足元に重りを着けたようになり、平坦なところであっても難儀するのに起伏のある山中では想像以上にカワサキの体力を奪ってゆくだろう。もしも、そのようなことになって、豪雨のために地盤が緩んでいる斜面で新たな土砂崩れが発生しようものなら、カワサキは一溜りもなく土砂に生き埋めになるという事態に見舞われる。
逆に、上部を目指して土砂崩れが発生したエリアを迂回するにしても、気を許して注意散漫な状態で進んでいった際、最初に土砂崩れが起こった周辺で再び土砂崩れが発生すれば、結果として土砂崩れに巻き込まれて谷まで滑落して生き埋めという最悪なシナリオの可能性はゼロとは言えない。
暫くの間、カワサキは立ち尽くしたままで、どちらのリスクを選択するか思案を巡らしていたが、木立が生い茂り直射日光が殆んど届かない山中では、水分を含んだ赤土が乾くのには相当の時間が必要となるのは簡単に想像できるし、それまで現状の装備で留まり続け赤土が乾いてから崩落部を横断するのは現実的とは思えず、更にCIAから緊急出動の連絡が入ろうものなら目も当てられない状況になってしまう。故に、カワサキは即決で上部を目指さして斜面を登って土砂崩れエリアを迂回することに決めた。
急勾配ではないものの、水分を多量に含んだ落ち葉が堆積している登り斜面で何度となく足元を滑らせながら、直線距離にして300メートルくらいの距離を2時間も掛かって土砂崩れが起きた最初のポイント近くに辿り着くことができた。カワサキの額や首筋には汗が光り出し幾筋も流れ落ちてている。気持ちとしては直ぐにでも迂回して下り斜面を降りたいところであったが、ここで気持ちを緩めてしまって油断しては、安全にアジトへ引き上げることはできない。ここまできたのであれば、石橋を叩いて渡るくらいに慎重かつ確実性のある安全策で行動すべきであろう。
カワサキは、地面を注意深く見渡しながら更に10メートルほど斜面を登ってから迂回し始めた。この斜面を登っていたときも水分を含んだ落ち葉で何度となく足元を滑らせたが、土砂崩れで赤土が剥き出しになったエリアに転倒滑落するよりも、より崩落部から離れた場所を迂回して、足元が滑って土砂崩れの崩落部に落ちてしまえば、水分を含んで粘り気が強くなった粘土状態の赤土がシューズのソール部に相当量が張り付き足元が重くなるばかりか、更に足元が滑り易くなって簡単に崩落エリアからの脱出が困難になるよりましである。
苦労して崩落部の先端を迂回すると、斜面を下り降りる際には再び水分を含んだ落ち葉が敷き詰められているので、足元が幾度となく滑り転倒しそうになるので身体のバランスに注意しながら、降りるというよりも滑走したという表現がぴったりな状態で下ることで、斜面を登ったときより半分ほどの時間で予定した場所に辿り着いた。
カワサキは一息つきながら、額の汗を左手で拭うと反射的に腕時計を覗いてみた。時刻は、12時少し前を示していたので、ショルダーバッグから500ミリリットルのペットボトル入りミネラルウォーターを取り出して一口含み喉の乾きを癒してから、クッキー状の栄養補助食品も1箱出して頬張り始めた。
このような自然災害現場に出くわすのは、これで勘弁して欲しいところであるが、パジェロミニの駐車場所へ辿り着くまでに何度か遭遇しないとも限らないので、今のうちに栄養補給を済ませて体力の温存を図っておく。
しかし、その後の行程は幸運にもカワサキは土砂崩れが発生した現場に遭遇することはなかったが、悔しいのは途中で何度か鹿を目にしたことであった。鹿との距離は、いずれも100メートル以内であったばかりか、見掛けた中にはカワサキとしても小さな自尊心を満足させるだけの立派な体格であり、ライフル銃の性能とカワサキの射撃スキルからすれば必殺必中の間合いではあったのだが、安全にパジェロミニまで辿り着いていない現状では、荷物の重量を極力増やすことは避けたいので、悔しさが相当残るものの、今回だけは出会った獲物全てのハンティングを諦めることにした。
何とか、パジェロミニを駐車していた場所にまで戻ってこれた時には、既に15時を過ぎていた。カワサキが、数十時間ぶりに見たパジェロミニには大して異常があるようには見えなかったが、徐々に近付いて行くと、タイヤホイールから30センチメートルくらい上の辺りに薄く泥水に浸かったような痕跡を目にした。確かに、砂利道には至る所に大きな水溜まりが点在していたが、昨夜の豪雨でできたものと判断して、最初は、それほど気にも止めなかったが、大量の降雨が一挙に押し寄せて周囲は洪水となって、パジェロミニは泥水に暫く浸かっていたのかもしれない。
そんな考えに辿り着くとカワサキの脳裏には、一瞬だが嫌な予感が過った。パジェロミニが、一体どのくらいの時間を泥水に浸かっていたのかは、そのとき居なかったカワサキには知る由もないが、状況によってはエンジンや駆動系等に支障が発生してしまっていて、エンジンが掛からないとか、エンジンは掛かっても走行できないといった状態になっているかもしれない。
羽織っているベストのポケットから車両のキーを取り出して、パジェロミニの運転席側のドアを開ける。カワサキは、直ぐに車内の床に視線を送ると、車内には水が侵入したような痕跡は見当たらない。一安心したカワサキは、車両の最後部へ向かいラッゲージルームのドアを開けて、背負っていたショルダーバッグとライフル銃を収納していたソフトケースを置いた。
ラッゲージルームのドアを閉めて、再び運転席に戻ると、パジェロミニのエンジンをスタートさせてみるのだが、カワサキの内心で浸水の影響でエンジンが掛からないかもしれないといった不安を抱きながら、祈るような気持ちでキーを回してみると、カワサキの不安をよそにエンジンは、いつものように元気良く始動した。
通常通りにアイドリングしている車内で、安堵のため息を漏らしたカワサキであったが、エンジンが始動したのは、現時点でカワサキが抱いている不安要素の1つが解消しただけであり、この後、駆動系に問題がなく車両が無事に動くのかとか、制御系に支障がなく安全にパジェロミニを走行させられるのか等の不安要素が払拭されたわけではない。
カワサキは、クラッチを切ってギアをリバースに入れるとハンドブレーキを外してアクセルを踏み込むクラッチを少し浮かせて半クラッチにした。
パジェロミニは、無事に後退し始めて砂利道へ向かって行く、カワサキはステアリングを反時計回りに切ると車両は右方向へ曲がりながら砂利道に出る。次いで、ステアリングを時計回りに切ってパジェロミニを直進状態に直してからブレーキを踏み込む。
そのとき、カワサキは瞬時に違和感を覚えた。いつもよりブレーキの掛かりが鈍いというか遅いのだ。しかし、取り敢えずは正常にパジェロミニは動かせていることから、アジトへ引き返すことに気持ちが傾いていたカワサキは、パジェロミニを動かす前に一通り目視による確認をしているので、デコボコの砂利道を比較的ゆっくりと走行し始める。車両のサスペンションは正常に機能して車内にいても必要以上に揺れることはなかった。
あと数十メートルも走行すれば鋪装道に出られると思い、割りと急な下り勾配のカーブに差し掛かった際、ブレーキペダルを踏み込んでみると、ブレーキディスクとブレーキパッドの間に何らかの異物が挟まっているのか、車内に異音が響き、殆んど車速は減速しない。一瞬、慌てたカワサキであったが急いでシフトダウンしてギアを2速に変えると、エンジンブレーキが充分に効いて車速を下げることに成功する。
それからのカワサキは、ブレーキで減速や一時停車する度に、通常よりも早い段階でフットブレーキを踏む必要に迫られた。
一刻も早くアジトに辿り着きたいと逸る気持ちを抑えながらの運転で、一般道の走行でさえ、いつものカワサキが運転している時よりも相当控え目なスピードで安全運転に徹したといえた。唯一の救いは、アジトと猟場までのルートは、交通量が多い街中を走行することがなかったので、ノロノロ運転に近いスピードでも周囲を走行するドライバーをイライラさせることがなかった事である。
アジトに到着するには、最後の曲り角に迫ってきたので、早めのブレーキを掛けたところで、それまでの異音とは異質の音が車内に響いた。だが、曲り角を運転するのに充分スピードは落とせていたのだが、曲り角に侵入する直前に車両から何か金属部品を道路に落としたような音が聞こえた。
カワサキは、パジェロミニを停めることなくアジトに向かい、目指すアジトが視界に入ったところでブレーキペダルを踏み込んだ瞬間、パジェロミニはブレーキが片効きのような状態となり、スピードは低速であったもののスピン状態に陥り数回ほど車体を回転させて停車した。
流石に、カワサキも口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いたが幸いにも車両は何かに衝突することもなく、更には停車した場所がアジトの目の前であったことから、カワサキはエンジンを再始動させることなく、クラッチを切るとギアをニュートラルにして運転席側のドアを開けて車から降りると、左手をステアリングに掛け、右手をピラー部に添えると車両を押し始めた。
幸いにも、パジェロミニは軽自動車なので、流石に軽量とは言わないが車重は重い部類ではないので、カワサキが1人で押すことは決して不可能なことではない。ただし、朝から足元が覚束ない山中を歩き続けたことで、足腰に未だ疲労感が残る状態で自動車を人力で押す作業は相当にしんどい肉体労働である。。
アジトの前で車両がスピンを起こしストップしてしまってから、小一時間を費やして何とかパジェロミニをアジトのガレージまで運ぶことができたカワサキは、アジトのリビングダイニングルームの椅子に腰を降ろすと、何もしたくない衝動に駆られはしたが、CIAへ詳細を報告したうえで、車両の修理をしないと使い物にならないことを伝えた。兎に角、明日はガレージでパジェロミニの故障状態を把握して修理しなければならない。




