コンプリケイト
普通の人間ならば、親しかった人や好意を抱いた人を失った場合に暫くは、心に大きな穴が開いたような喪失感に捕らわれて無気力になるものだが、カワサキの場合は確かに喪失感が無いと言えば嘘になるが、これまでも幾多の戦場を経験してきたなかで親しかった戦友の何人かを目の前で失ってきた。だから慣れっこになったとは言わないが、いつまでも佐藤彩芽を失った事の悲しみに浸っていても彼女が生き返るわけではないし、それよりは歪められた真実を暴いて彼女の名誉を守ってやり、スポーツカーを暴走させて彼女を殺したうえに救助すらせず逃げた犯人へ罪の報いを与えてやりたいと思った。
早速、カワサキは彼女の交通事故を管轄する警察署へ出向いてみた。対応してくれた警察官は割りと丁寧に事故に関する内容を教えてくれたが、肝心の出頭してきたドライバーが持参したというドライブレコーダーの映像までは見せてはくれなかった。更にドライバーの名前もプライバシーを理由に教えてくれる事もなかった。ただし、ドライバーが持参した記録映像に映っていた時刻を元に、信号機の記録を調べると該当時刻は車両側が青信号であったことが確認されていることだけは教えてくれた。
カワサキとしては、真実に迫るためにもドライバーの名前と警察に提出されたドライブレコーダーの映像を入手しなければ埒が明かないと思い、可能な限りの手段を尽くそうとマスコミにも足を運んでみたが、彼女の交通事故に関する情報は警察から発表されている以上の内容は無かった。
こうなるとカワサキ個人の能力では限界があり、真実に辿り着くために新たな方法を模索していたカワサキの元にCIAから新たなミッションのメールが送られてきた。
一瞬、カワサキの脳裏にはタイミングの悪さに腹立たしさを覚えたが、元々自らの仕事はCIAからの指令に従って作戦を遂行することで自分の存在意義があることを思い出して、自らの心に沸き上がった感情を抑えてCIAから送られてきたメールを開けてみた。
メールの内容は、カワサキとはすっかり因縁が深く成りつつある在日朝鮮人同胞連合の理事長である金城龍元こと金龍雄の暗殺であった。前回のカワサキのミッションにより在日朝鮮人同胞連合の合成麻薬製造工場を壊滅状態に追い込んだことで、当初は国交のない北朝鮮との関係悪化を危惧した日本政府が暴力団の犯罪として処理することで有耶無耶にしようとしたのだが、マスコミ報道や野党議員による国会での追求によって真相を明るみにしないわけにはいかなくなり、結果として司法当局を総動員して在日朝鮮人同胞連合を事実上解体させる方向へ動き出している状況に便乗して、CIAとしても在日朝鮮人同胞連合を機能不全に追い込みたい思惑があるためである。ただし、今回の金暗殺についても、可能な限り事故死を装って直接米国が関与していないスタンスでいたいという雰囲気があった。
その為、CIAでも金の動静について24時間体制で監視を行うが、カワサキに対しても金の偵察等を行って暗殺の機会を探るように指示もしてきた。
CIAからのメールに添付されていたファイルを開くと、金龍雄を隠し撮りした数枚の画像があるが隠し撮りの為に正面からのカットが少なく、なかなか特徴が掴み難いのだが1枚だけ家族全員で撮影されたようなカットが真正面から撮られているので特徴を覚える事が出来そうである。
写真で見る金龍雄は、白髪頭を七三に分けて金縁眼鏡を掛けており平均的なアジア人の顔立ちとなっている。資料に記載されていた年齢は78歳となっているが、身長が168センチメートルの小太りな体型をして血色が良過ぎるくらいに脂ぎった感じがして60代前半にしか見えない。また、右手の薬指には悪趣味な感じのデザインが施されたゴールドの大きな指輪をしている。
カワサキの本音としては、出来る事なら覚えたくないのだが、どうにか頭の中に焼き付けてから別のファイルに目を通すと、金龍雄の住所は名目上として東京在住となっているが、事態としては年に2週間ほど東京に居るくらいで、実質的な住まいは兵庫県の神戸市にある在日朝鮮人同胞連合の保養施設を自宅替わりにして暮らしているようで、施設内には金龍雄とその妻、息子と娘が1人ずつにメイド8名とボディーガードが5名、更に施設の管理人と専属の料理人が1人ずつの計20名近くの人間が居るようである。
CIAから送られてきたメールの資料全てに目を通したカワサキは、金龍雄が居住している保養施設を偵察するのに便利そうなマンスリーマンションをインターネットで探し始めた。保養施設との距離が近ければ偵察するには楽ではあるが、あまり近過ぎても相手に気付かれて警戒されないとも限らないので、丁度ころ合いの良い物件を見付けるとCIAへメールを送り、法人名でマンスリーマンションの最上階の一室を1ヶ月だけリース契約するように依頼をした。
CIAへメールを送り終えると、カワサキは早速荷物を纏める作業を始めた。CIAの事だから今夜か明日にでも契約が出来たと連絡が来ると思われるので、連絡が来てから準備をするよりも今のうちに神戸へ向かう支度を済ませておいた方が時間の節約になるし、今回のミッションを早めに片付けることが出来れば、佐藤彩芽の交通事故の真相解明に時間を割くことができる。
案の定、CIAからは翌日の午前中に架空の米国籍の法人名でリース契約を締結したので、明日から入居可能であるとの連絡が届き、法人名と契約をしたリース会社の住所と電話番号を知らせてきた。
カワサキは直ぐに、教えられた法人名を使って架空の名刺をアジトの近くにある印刷所に特急料金を支払って翌日の午前中に受け取られるよう注文した。
次の日、アジトを出発したカワサキは印刷所に立ち寄って名刺を受け取り神戸のリース会社へ向かった。リース会社に到着したカワサキは、担当者に出来上がったばかりの名刺を渡して、入居手続きの書類を作成して部屋の鍵を受け取ると早速マンスリーマンションへ直行した。
契約された部屋は最上階の角部屋になっており、隣は空き部屋となっているようである。カワサキが部屋に入ると山手側のバルコニーに面した窓を開けて直線距離で500メートルぐらいにある在日朝鮮人同胞連合が所有する保養施設を見下ろしてみた。その後、持参した手荷物からスポッティングスコープを取り出すと専用の三脚を取り付けるとレースのカーテンに隠れるようにスポッティングスコープを配置した。
スコープの倍率を3倍にして保養施設の敷地を覗いて見るとテニスコート2面分ぐらいの広さがあるように見え、周囲は新潟の保養施設とは違って高さが2メートルのブロック塀で囲われており、建物の周りには数多くの庭木が植えられているので道路から建物を覗くといったことはできない。建物の方は、外から眺めると建坪が80坪ほどの鉄筋コンクリート造り3階建てに見える。しかし、CIAからの資料では地下室が備わっていることになっているが外観からは判別がつかなかった。
カワサキは、スポッティングスコープの倍率を8倍に上げてから建物の各窓を覗いて見たが、どの窓にもレースのカーテンが引かれているので内部を詳細に見ることが出来ない。
仕方がないので建物の外観をチェックして見ると、1階には車2台のガレージが併設されているが、今はシャッターが閉められて中を見ることが出来ない。また、正面玄関は車の乗り降り用に庇付きの車寄せがあり、玄関の扉は重厚な観音開きの木製となっている。2階と3階は南側の部屋にバルコニーが備えられている事が確認できた。更に、屋上に出られる造りになっていて屋上にはオープニングテントがあってテーブルと洒落た感じの椅子が4脚配置されているのが見えた。
一通り建物の外観をチェックしたカワサキは、次に屋敷の警備状況を確認する為に子細に観察をしていくと建物の各所には防犯カメラが設置されているほか、敷地を取り囲むブロック塀の内側には赤外線の対人センサーと思われる機器が設置されているのを確認した。敷地の警備用に大型犬が飼われてないか敷地の隅々を見てみたが、犬の姿は見当たらないし、犬小屋も発見できなかった。
一応、保養施設の警備状況も確認できたカワサキが、スポッティングスコープから目を離そうとした時に、施設正面のゲートが電動で開き出すのが確認できた。改めてスポッティングスコープで様子を見てみると黒塗りのメルセデス・ベンツEクラスのセダンがゲートを潜って敷地内に入り正面玄関の車寄せで停車した。玄関の前には黒を基調にした趣味の悪いミニスカートのメイド服を着た20代くらいの女性が左右に2名ずつ出迎えのためか並んで立っている。
ベンツの助手席のドアが開き黒のサングラスに黒のスーツを着たボディーガードと思われる男が降りてきて左側の後部ドアを開けるとCIAから送られてきた画像に写っていた金龍雄が降りてきた。
実際に目にする金龍雄は、身長165センチメートルの小太りな体型をしており、顔つきは78歳には見えないくらいに脂ぎって卑屈な表情をしている。ベンツを降りた金はダブルのスーツの上着を脱ぐとメイドの1人に渡し、次いでネクタイも外して同じメイドに手渡して玄関から施設内に入って行くと4人のメイド達が後に従って建物内に消えた。
金が施設内に入っていくとベンツはガレージに向うと1台分のシャッターが電動で開き始めた。シャッターが開き切るとベンツはバックでガレージに入って行く、僅かに見えたガレージの内部には赤い車両があることが確認できた。
カワサキは、金が帰ってきたことで何か動きがないか施設の方へスポッティングスコープを向けて見ると2階の窓が開いて、下半身にバスタオルだけを巻き付けた20代くらいの男がバルコニーへ出てきた。男は身長175センチメートルの中肉な体型で、髪型をツーブロックにして顔つきが何処か金の面影を感じる。また、二の腕から背中と胸にドラゴンやタイガーのタトゥーが彫り込まれており、どう贔屓目に見ても堅気の仕事に就いているようには見えない。
バルコニーに出てきた男は、右手に持ったドミニカ産のダビドフ・プレミアムシガーを口に咥えるとシルバーのジッポライターで火を付けて、目を細めながらシガーを吸い始めた。その時、男が出てきた部屋のカーテンが風に大きく揺れて一瞬だけだが室内の一部を見ることができた。
カワサキの目に写ったのは、ダブルベッドの白いシーツに腹這いとなった女性のヌード状態の腰から下の部分であった。バルコニーで暫くシガーを吸っていた男は、室内のベッドに横たわっている女性から声を掛けられたのか、振り返って室内の方へ視線を向けると卑猥な笑顔を浮かべて吸い掛けのシガーを右手に持ったままレースのカーテンの向こう側に消えていった。
そこまでの様子をスポッティングスコープで見ていたカワサキは、一度スコープから目を離すと軽く苦笑いをして、ゆっくりと左右に顔を振った。たぶん、今の男は金龍雄の息子なのだろう。タトゥーを身体に彫って意気がっているようだが体型を見る限りでは女性とのベッド運動以外は大した運動はしていないと思われる。間違っても軍事訓練等を経験してない事は明らかで、仮に父雄の暗殺を邪魔しにきてもカワサキの敵にはなり得ない。
カワサキが、マンスリーマンションに入居してから1週間が経過したが、金の動静は土日を除いて午前10時に黒のベンツで保養施設を出発してから、午後3時過ぎに施設へ帰宅した後は殆んど外出をしない。CIAから送られた資料によれば、午前10時に保養施設を出発して午後3時に帰宅するまでは神戸市内にある在日朝鮮人同胞連合が所有するビルで仕事をしていることになっている。
そこで、カワサキはマンスリーマンション近くのバイクショップで中古のホンダフォルサァ300というビックスクーターとフルフェイスのヘルメットを購入した。金の住居については概ね把握できたので、暫くは金の通勤ルートを観察して襲撃のチャンスがあるのかを見極めようと判断した。
翌日の午前10時少し前にTシャツの上に黒のミリタリーブルゾンを羽織、デニムのパンツにチャカブーツを履いてホンダフォルサァ300に跨がると保養施設に近い路上で金のベンツを待ち伏せる。カワサキの目の前を通り過ぎて行く黒のベンツを認めると、少し距離をおいてホンダフォルサァ300でベンツを尾行する。
金を乗せたベンツが、在日朝鮮人同胞連合が所有するビルの前に到着すると、助手席に同乗している金のボディーガードがベンツから降りて左側の後部ドアを開けると金がベンツから降りてビルの中に入って行く。
それを少し離れた場所でホンダフォルサァ300に跨がった状態で眺めていたカワサキは、金が入っていったビルの前をホンダフォルサァ300に乗って通り過ぎてから、少し先の有料立体駐車場へホンダフォルサァ300で乗り入れて駐輪してから、徒歩で在日朝鮮人同胞連合が所有するビルから大して離れていない雑居ビルへ入って行き、その雑居ビルの屋上へ向かった。
雑居ビルの屋上へ出るドアが施錠されていたので、ブルゾンの内ポケットに隠していた2本の針金を取り出して鍵を開けると屋上の浄化槽タンクの陰に隠れた。その位置から金の勤め先であるビルを肉眼で見てみると、どうやら最上階に金のオフィスがあるようで大きな皮張りの椅子に座っている金の姿を見付けた。カワサキの視力は、両眼とも1.5なので肉眼でも見えない場所ではないが、やはり詳細までは判別がつかないので双眼鏡を持参して来なかったことを悔やんだ。
暫く金の様子を見ていると、部屋のドアが開いて眼鏡を掛けた秘書のような女性が、金にお辞儀をしてから手にした資料を読み上げた後に金のデスクに置き、金の正面にあるテレビのリモコンを操作する。テレビの画面が映し出されると、秘書の女性は再びお辞儀をして部屋から退出した。
画面には男性の顔が映し出されたようだが、肉眼で見ているカワサキには画面の男性について判別がつかない。
男性が映し出された画面に対して、金は頻りに頭を下げている。どうやら、画面の男性は本国の上級幹部でリモート会議が行なわれているのだろう。30分くらいの会議が終了して画面が黒くなると金は右手に持ったハンカチで頻りに額の汗を拭っているような仕草が見えた。
一頻り額の汗を拭き終わった金は、デスクの上に置かれたリモコンを操作するとテレビの画面が切り替わり、同時に金の様子にも変化が見られた。先程の恐縮していた姿等を微塵も見せずに横柄な雰囲気を感じさせるところを見ると在日朝鮮人同胞連合の内部会議になったのであろう。先程の本国からの命令を部下に指示しているようである。
在日朝鮮人同胞連合の内部会議が1時間程度で終了すると、金はリモコンのスイッチを切ってインターフォンと思われる機器のボタンを押して何事かを喋ってた後、再び眼鏡を掛けた女性秘書が部屋に入ってきたが、今度は両手にお膳のような物を持っている。金の前のデスクにお膳を置くと料理が並んでいるようなので金の昼食なのだろう。金のデスクに湯飲みを置いた女性秘書が退出する。
金は、自らの前に用意された昼食を年齢に似合わぬ早さで平らげるとデスクのインターフォンのボタンを押して話をしている。暫くして先程の女性秘書がドアを開けお辞儀をして入室すると金が平らげたお膳を持って退出しようとした時、金は何かを言ったらしく女性秘書は振り返ると怪しげな笑みを浮かべて部屋を出て行くが、次に部屋へ戻って来た時は、お辞儀をすることもなく部屋に入るとドアの鍵を掛けたようだ。女性秘書の服装は、先程までの物とは違って黒いレザーのロングコートを羽織って右手には乗馬用の鞭を持っている。女性秘書の姿を見ていた金は、急いでネクタイを外すとダブルのスーツジャケットも脱ぎ捨てると女性秘書の前に跪く。金が跪いた状態で何事か言うと、女性秘書がレザーのロングコートのボタンを外して前を開けると黒いポンテージコスチュームになっていた。
その状況を見せられたカワサキは、思わず首を左右に振って苦笑いを浮かべた。息子は、親父が帰ってきた時に昼間から自宅で女性とセックスに励んでいるかと思えば、父親は勤め先で女性秘書とSMに興じているとは呆れて物も言えない。少なくとも1時間以上は女性秘書とのSMゴッコが繰り広げられると判断したカワサキは、自分の腹が減ってきていることもあり屋上を後にして昼飯を食べに行った。
昼食を取り終えたカワサキは、立体駐車場からホンダフォルサァ300を出庫させて路上で金を乗せたベンツが出てくるのを待った。再び屋上に戻っても70過ぎた老人のSMゴッコを覗き見するような悪趣味はないし、先程の光景にしても浅ましさ以外の感情が沸かなかったので、路上で金が出てくるのを待っていた方が精神衛生上も良い。
カワサキの腕時計が午後2時30分を過ぎた頃に金がビルから出てきた。ネクタイをきちんと締めてダブルのスーツジャケットを羽織っているが、女性秘書との痴態の名残なのか金の表情は心なしか恍惚としている。
ボディーガードの男がベンツの左側後部ドアを開けると金はベンツに乗り込む、ボディーガードが後部ドアを閉めてから、自らは助手席に乗り込むと金を乗せたベンツは保養施設へ向けて静かに走り出した。
金を乗せたベンツの帰宅コースは、午前の出勤コースと変化がなかった。ベンツが保養施設の正面ゲートを潜るのを見届けたカワサキは、急いで自分のマンスリーマンションの部屋へ戻って、スポッティングスコープで保養施設の様子を観察するが金を捉えることはなかった。特に、日暮れともなれば窓は全て厚手のカーテンが引かれるので部屋の内部は見れない。
保養施設以外の金の動静を観察したカワサキであったが、金の出勤コースで襲撃できそうなポイントを発見できなかった。現在、カワサキの手元にある銃器を使って襲撃するのはできないことではないが、何せ移動が常に昼間となると暗闇という状況がないのでは安易に銃器は使えない。また、保養施設に戻ったところを狙うにしても施設内での金の動向が掴めないし、金以外の人間全てを始末しなければ目的を果たせない。
焦っても仕方ないと判断したカワサキは、もう暫く金の観察を続けて対策を考える事にした。




