ファラウェイ
佐藤彩芽から電話があってから数日間、特にCIAからの連絡もなかったカワサキは、使用したライフル弾のリロードや次のハンティングの準備の他、食糧の買い出し等をして過ごしていた。
特に、前回はアクシデントとは言え射殺したヒグマの死骸を放置したままにしているので、たぶん地元の警察や自治体等の公的機関が目を光らせていると考えられる。そうなると別の場所に猟場を求めなければならないので、インターネットを駆使して情報収集に時間を掛けなければならない。
そんな日々を過ごしていたカワサキのスマートフォンに、佐藤彩芽から電話が掛かってきた。
カワサキは、スマートフォンの画面に表示された佐藤彩芽の名前を認めると直ぐに電話に出た。
『もしもし、川崎さんですか?私、佐藤彩芽です。』
と軽やかに澄んだ声が聞こえた。
『はい、カワサキです。』
カワサキが幾らか弾んだ声で応えると
『お陰で足の捻挫もだいぶ良くなりました。本当に感謝しています。随分と遅くなりましたが、お礼にお食事にお誘いしたいのですが。』
という彼女からの誘いに
『ありがとうございます。でも、本当に良いのですか?私としては大変に嬉しい申し出ですが、たまたま危なそうな場面に直面したから出来ることをしたまでなのに。』
とカワサキが言うと
『助けて頂いたお礼として、私なりの感謝の気持ちですから遠慮なさらずに。もし、川崎さんがお嫌でなければ。』
と少し不安そうに話す彼女に
『嫌だなんてとんでもない。それでは、図々しくお言葉に甘えさせて頂きます。』
とカワサキは、素直に彼女の誘いを受けることにした。その言葉に、スマートフォン越しではあったが佐藤彩芽が喜んでいるように感じられた。
『ところで、あまり立ち入った事を伺うのは大変失礼なのですが、川崎さんはどんなお仕事をなさっているのですか?』
と佐藤彩芽が聞いてきた。突然の質問にカワサキは一瞬答えに窮したが、まさかCIAの暗殺要員等と本当の事は口が裂けても言えない。そこで、カワサキは
『仕事と言って良いのか分かりませんが、知人の料理屋にジビエを提供するハンターのような事をしています。』
と咄嗟に嘘を答えた。そのように答えておけば、あの時にライフル銃を持っていたことの説明になるだろうという少々安直な嘘である。
『ああ、だから猟銃を持っていたんですね。私はてっきり狩猟は趣味なのかと思ってました。』
という彼女の反応に、ある意味で鋭いと思いながらもカワサキは安堵した。
その後、カワサキとの日程調整に話が変わると、カワサキは彩芽の都合に合わせると答えた。カワサキは基本的にCIAからの指令がなければ常に時間は自由になる人間である。結果、2日後に彼女が選んだフレンチレストランで夕食を共にすることになった。
スマートフォンを切ったカワサキは、久しく感じたことのない幸福感に包まれていた。偶然にもヒグマに襲われそうになったところを救ったことによる出会いに、カワサキ自身は佐藤彩芽に対して、一目惚れといったような感情が芽生えたことは否定しないが、一方で自ら選んだこととは言え表の世界では存在しない人間であって、世間一般の幸せとは無縁の世界で生きていかなければならない立場である事も充分に理解をしている。しかし、だからこそカワサキは心惹かれる女性と例え短い時間であっても一緒に過ごすことが出来る一時を大切にしたいという思いがあった。
約束の日、元々カジュアルな服装しか持っていないカワサキは、上はボタンダウンのデニムシャツにブラウンのカジュアルブレザー、下は黒のストレッチが効いたデニムパンツにダークプラウンのチャカブーツを履いた精一杯のお洒落をして、佐藤彩芽が選んだフレンチレストランの近くまでパジェロミニでアジトを出発した。
約束した時間の15分前にはフレンチレストランの前に到着してしまった。こんな時は、タバコでも吸って時間を潰せれば良いのだろうがハンティングの為に喫煙をしないカワサキには、ちょっとした時間を潰せる手段を持ち合わせていない。
そのような意味で不器用なところがあるカワサキが、手持ち無沙汰でしきりに腕時計を眺めていると50メートル先の曲がり角を曲がって歩いてくる佐藤彩芽を見つけた。ブルーのギャザーワンピースの上にチェック柄のツイードジャケットを羽織り、足元は黒のローヒールパンプスという装いで、こちらへ向かってくる姿を見る限り捻挫の方は良くなったのか不自然な感じを受けないどころか軽やかな感じさえしている。
佐藤彩芽が、カワサキを見つけると華やかな笑顔を見せ軽く会釈をすると
『すみません。私の都合で、勝手な場所を選んでしまって、だいぶ待ちましたか?』
とカワサキに問い掛けてきたので
『いや、私も少し前に着いたばかりです。』
とカワサキは下手な嘘で誤魔化した。
カワサキがフレンチレストランのドアを開けて彼女を先に入店させると、レストランのサービススタッフに彼女は名前を告げる。予約を入れていたので窓際のロケーションが良いテーブル席に案内され、彼女が席に着いてからカワサキも着席するとサービススタッフが飲み物のオーダーを取りに来た。
佐藤彩芽がカワサキのほうを見ながら
『何になさいます?』
とカワサキに聞いてきたので
『貴女と同じもので結構ですよ』
と答えたものの
『もし、良ければ白ワインをグラスワインでお願い出来れば』
と付け加えた。いつもの食生活ならば缶ビールかバーボンで済ましているカワサキだが、今宵はお行儀良く体裁を繕う。最もカワサキ自身が赤ワインを苦手にしていることがあるのだが。
カワサキのオーダーを聞いた彩芽は
『それじゃ、私も白のグラスワインにしようかな。』
と言ってサービススタッフに2人分のグラスワインを注文した。オーダーを受けたサービススタッフがテーブルから離れると彩芽は
『お料理は、私がコース料理を予約しています。川崎さんのお口に合うと良いけど。』
と言われて、カワサキはテーブルの上に置かれたコースメニューを手に取って内容を見るとアミューズから始まる本格的なフルコースになっていた。日頃のカワサキの食生活からすれば想像以上に贅沢過ぎる料理の内容で異論を挟む余地がないし、ましてや彩芽の様な美しい女性と食べるフレンチ料理は夢のような時間である。
『今夜は貴女から、ご馳走されるのですから、充分過ぎるくらいに素敵なチョイスですよ。』
とにこやかにカワサキは答えた。
そこにサービススタッフが2人分の白ワインをグラスで運んできたので、乾杯を交わした後にアミューズ、オードブルと華やかな料理が適度な間隔で運ばれてくる。どの料理も凄く美味で充分に堪能できたが、それ以上に彼女と一緒に食べる食事は格別で合間の会話も楽しく、カワサキにとっては正に夢見るような時間であった。
コースの最後になるデザートと紅茶を取り終えて、彼女とレストランを出て一緒にメイン通りへ向かって歩いて行く。
『今夜は、本当にご馳走さまでした。選んで頂いたコース料理は全て美味しかったですし、何よりも貴女のような綺麗な女性と一緒に過ごせて大変楽しかったですよ。』
とカワサキは本音を口にした。
『本当ですか?でも、これは命を助けて頂いたお礼ですので。』
と嬉しそうに喋る彩芽に対して
『仮に、お礼であったしても美しい女性と素敵な夕食を共に出来るのは大変光栄なことですよ。』
カワサキにしては柄にもなくキザな台詞を口にした。
『えっ、美しい女性だなんて。川崎さんって口がお上手なんですね。』
ちょっと悪戯っ子のような感じで話してくる彩芽に、多少戸惑い気味のカワサキが
『いや、本当にそう思ったからで、決して変な意味はありませんよ。』
と狼狽して答えるカワサキを見ながら
『お褒めの言葉として受け取らせて頂きます。でも、本当にそう思って頂いたのなら次は川崎さんにご馳走して頂こうかな?』
彩芽は、そう言いながらペロッと舌先を出して笑った。
『分かりました。今夜、貴女がセッティングされたような素敵なお店を見付けて準備しておきましょう。』
カワサキが大真面目に答えると、彩芽は瞳を輝かせて
『本当ですか?じゃ約束ですからね』
と嬉しそうに話した後
『じゃ、だいぶ遅くなりましたので、私そこでタクシーを拾って帰ります。』
と彩芽が言うと片側二車線のメイン道路の反対側を指差した。その時、丁度目の前にある横断歩道の信号が青に変わったので
『それじゃ、川崎さんからの連絡を待ってますね。おやすみなさい。』
佐藤彩芽が、バイバイと手を振りながら小走りで横断歩道を渡って行く。カワサキが、その後ろ姿を優しげな眼差しで見送っていると、左手の方から大きな排気音を響かせて赤いスポーツカーが疾走してきた。
カワサキが、排気音が聞こえた方に目を向けるとスポーツカーはスピードを落とすことなく赤信号を無視して横断歩道へ突っ走って来た。カワサキが『危ないッ』と彩芽に声を掛ける間もなく横断中の彼女が轢かれて2メートル以上跳ばされたのを目撃した。彩芽を轢いたスポーツカーは停車することなく、そのままのスピードで走り去って行った。
辺りで目撃していた群衆から悲鳴やざわめきが聞こえるなか、反射的にカワサキが彩芽のの方へ走って行き、彩芽が倒れている脇にしゃがむと大きな声で『救急車を呼んでくださいッ』と叫んだ。
この様な場合、下手に動かすと良くない事を分かっているカワサキは、彼女の容態を見ると彩芽は苦悶の表情で目を閉じたまま動かない。彼女の耳元で『もう直ぐ救急車が来るからね』と優しく声を掛けるのが精一杯であった。
暫くして救急車とパトロールカーが緊急サイレンを鳴らしながら近づいて来た。ストレッチャーを運んできた救急隊員に、カワサキが事態を説明すると救急隊員は彩芽に声を掛けながらストレッチャーの準備をして彩芽を慎重に担ぐと救急車へストレッチャーごと乗せる。救急車を運転していた隊員が受け入れ先の病院を探して携帯電話を掛けていたが、数分後に受け入れ先が決まると救急車は緊急サイレンを鳴らして病院を目指して動き出した。
一方で、パトロールカーで現場に到着した警察官がカワサキに状況説明を求めてきた。カワサキが、警察官にCIAが偽造した運転免許証を提示して、彼女から謝礼として夕食を共にしたこと、更に一緒にメイン通りに来て横断歩道が青信号になったのでタクシーを拾う為に横断歩道を横断中に赤いスポーツカーが信号無視をして彩芽を轢いて逃げて行ったことを説明した。ただし、彼女がヒグマに襲われそうになったところに居合わせたので、ライフル銃を発砲したことだけは適当に誤魔化して話した。
一通りカワサキから事情を聞き取った警察官は、今後の捜査で連絡する可能性があるのでカワサキの連絡先も聞いてきた。別段、拒否する必要がないカワサキは、CIAから寄越されているスマートフォンの番号を伝えた。
その後、警察の現場検証に立ち会いを求められたので結構な時間を要したが、現場検証の立ち会いを終えてから、警察官に佐藤彩芽の容態を聞いてみると意識が戻らず危険な状態なので両親を病院に呼んでいるそうで、彼女の容態に変化があれば連絡すると言われた。
彼女の容態を気に掛けながらアジトに帰宅したのは午前0時を少し過ぎていた。悶々とした気持ちのカワサキは、まったく眠気が訪れない。とうとう一睡もすることなく朝を迎えると午前9時過ぎにスマートフォンに着信音が響いた。
カワサキは、警察から彩芽の容態についての連絡と思い電話に出てみると佐藤彩芽の父親と名乗る男性からで、佐藤彩芽は収容先の病院で午前0時に亡くなったとの知らせであった。
カワサキに連絡してきたのは、警察官からカワサキの事を聞いて娘がヒグマに襲われそうになったところを助けて頂いたばかりか、交通事故にあった際には一生懸命に救助をして頂いたことへの感謝を伝えたいと思い電話を掛けたそうである。カワサキは、彩芽の父親にお悔やみを伝えた後に、彼女の葬儀に参列させて頂きたい旨を伝えて葬儀の日時や会場を教えてもらった。
スマートフォンを切ったカワサキは、心に大きな穴が開いたような喪失感に捕らわれ、ほんの少し前に聞かされた現実を受け止められずにいた。暫くは放心した状態でいたカワサキだったが、急に彩芽の葬儀に主席するにしても礼服を持っていないことに気付き、慌ててパジェロミニで近くの紳士服販売店へ向かって吊るしの礼服を準備すると、帰り際にはコンビニエンスストアへ立ち寄り香典袋を購入した。更に、アジトに帰宅すると彩芽の父親から教えられた葬儀会場へ供花の手配も済ませる。
彩芽の葬儀当日、礼服を纏い葬儀会場に赴いたカワサキに彩芽の父親と母親は涙ながらに丁寧な礼を伝えてくれた。
彩芽の両親に、お悔やみを伝えたカワサキが、娘さんを轢き逃げした犯人が捕まったのかを聞いてみると、轢き逃げ犯は事故の翌日に警察へ出頭してきたそうだが、その日の夕方に釈放されたとのことであった。不審に思ったカワサキが、更に聞いてみると出頭してきた男は弁護士と共にドライブレコーダーの画像記録を持参してきたそうであるが、その映像記録には車両側の信号が青になっていたことから、佐藤彩芽にも信号無視の可能性が疑われることもあり、出頭してきた男にはスピード超過と救護義務違反の行政罰となる罰金で済まれそうだという話であった。
その様な状況に彩芽の両親は受け入れ難いのだろう。そこまで話すと気丈に振る舞っていた両親は揃って泣き崩れてしまった。
辛い事を語らせてしまったことに謝罪したカワサキは、心の中で間違いなく警察官の事情聴取で歩行者側が青信号だった事を伝えていたのに、それが画像記録1つで簡単に覆った事に違和感を感じるだけでなく、何らかの裏がありそうな予感がするので、彩芽の両親を危険な目に合わせるのは忍びない思いもあり、自分1人で真相を調べて信号無視をした等という佐藤彩芽の名誉を守ってやろうと決心した。しかし、この事が更なる闘いの始まりになる事をカワサキは未だ気付いていない。




