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姿なき狩人  作者: 二条路恭平
プロローグ

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アクシデント

出猟に向けて朝食をしっかりと取り、歯磨き洗顔等も済ませてからカーキ色のストレッチTシャツにメッシュ地のアウトドア用多機能ベストを身に着け、その上にグリーンのフード付きマウンテンライトジャケットを羽織る。一方、下のほうは黒の撥水加工がされているカーゴパンツにショートソックス、足元はカーキ色のコンバットショートブーツを履き、更に偏光レンズ付きのシューティンググラスを掛けたカワサキは、オレンジ色でテフロン加工がされたリュックサックに、ファーストエイドのセットやロープ、双眼鏡、タオル等を詰め込んでから背負い、右手にプレシジョンライフル銃を収納しているソフトケースを持ってガレージに向かった。

パジェロミニの後部ラゲッジドアを開けて荷台にリュックサックとソフトケースを積載した後、荷物の上に猟友会が支給している物と似たような見た目の帽子とベストも置く。

ラゲッジドアを閉めるとガレージのシャッターを静かに開けてから運転席に着きパジェロミニのエンジンを始動する。ガレージからパジェロミニを出すと一旦車を止めて、ガレージのシャッターを静かに閉めて鍵を掛ける。再びパジェロミニの運転席に戻ったカワサキは車をスタートさせた。

前もって猟場として目星を付けていた場所へ向かう途中、コンビニエンスストアに立ち寄り昼食用にメイプルとプレーン味の栄養補助食品と500ミリリットル紙パック入りの野菜ジュースにミネラルウォーターボトルを購入してから猟場へ向かった。

山道の比較的目立たぬ場所にパジェロミニを停めると、後部のラゲッジドアを開けてリュックサックにコンビニエンスストアで購入した栄養補助食品と野菜ジュースを仕舞い、ウォーターボトルはリュックサックの左サイドのメッシュポケットに突っ込んだ。

カワサキは、猟友会の支給品に類似した帽子とベストを身に着けるとソフトケースからライフル銃を取り出して、ソフトケースの脇ポケットに入れおいた箱型弾倉を出してライフル銃にセットしてから遊底を操作して薬室にリロードしたライフル弾を装填し、ライフル銃に安全装置を掛けたうえでソフトケースに仕舞った。これからヒグマが生息している猟場に向かうので、いつ何時ヒグマと遭遇するか分からない。もし突然、目の前にヒグマが現れた場合にはソフトケースからライフル銃を取り出して直ぐに発砲出来る状態にしておかなければならない。

更に、カーゴパンツのベルトを一旦外してナイフシースを左側の腰の辺りに位置するように装着してからベルトを締め直して、ナイフシースにサバイバルナイフを納めた。コンバットショートブーツの靴紐を改めて締め直してから、リュックサックを背負いソフトケースを右肩に担ぐと山林の中へ分け行った。

暫く山林の中を歩くとヒグマのフィールドサインがないか地面や樹木の幹に視線を走らせる。1時間ほど山林内を探し回ったが、目ぼしいフィールドサインが見つからないので、一旦リュックサックを下ろして昼食を取ることにした。リュックサックから栄養補助食品と野菜ジュースを取り出して空腹を満たすと、更にヒグマのフィールドサインを求めて歩き回った。

カワサキが2時間ほどヒグマのフィールドサインを探して山中を歩き回っていると、比較的新しい足跡を見付けることが出来たので、その足跡をトラッキングしてみることにした。ヒグマやイノシシ等との遭遇に注意を払いながらトラッキングを続けていくと気付けば下り斜面に差し掛かっていたので、斜面を降りきった先の方を見ると未舗装ではあるが整備された細い道が見えた。カワサキはリュックサックに入れておいた双眼鏡を取り出して、その道を観察すると明らかに人の手が加わった遊歩道であることが分かった。

双眼鏡をリュックサックに仕舞ったカワサキは、仮に遊歩道でヒグマを見付けても第三者と出会う可能性が高い場所でライフル銃を発砲するのはまずいと考えた。

元々、CIAの暗殺要員としてリクルートされた時点で公的記録上は存在しない人間のカワサキであるし、日本の各種ライセンスは精巧に出来ているとは言え、全てCIAが作った偽造なので日本の民間人の目の前でライフル銃を発砲した場合には、明らかにトラブルに巻き込まれる可能性が高い。そう判断したカワサキは、腕時計を見ると時刻は午後3時30分を過ぎている。これ以上を粘ってみても陽が暮れてからのヒグマ猟は危険と考えてハンティングを諦めてパジェロミニに戻ろうとして踵を返した時、遊歩道の方から女性の悲鳴が聞こえた。

カワサキが、反射的に悲鳴が聞こえた方へ視線を向けると20代ぐらいの女性が1人座り込むような姿勢で前方を見詰めているのが見えた。カワサキも女性が視線を向けている方に目を向けると、女性から100メートルぐらい離れた辺りにヒグマが女性の方を見ているのが確認できた。

女性が更に悲鳴を上げるか、もしくはヒグマに背を向けて逃げ出そうとすれば間違いなくヒグマは女性を襲う可能性が高いと判断したカワサキは、見知らぬ女性の前でライフル銃を発砲するのはまずいと思いながらも命の危険に晒されているのを見捨てられるほどドライになれず、半ば無意識のうちにソフトケースからライフル銃を取り出して、スコープの保護キャップの蓋を跳ね上げると立射の姿勢でヒグマの左脚の付け根から気持ち下側に狙いを定めていた。

いかに事前の試射をしたとは言え、実際にヒグマに向けての発砲は初めてのリロード弾なので、半ば祈るような気持ちであった。

スコープ越しにヒグマを見ると、女性の方へ身体の向きを変えて走り出そうとしている様子が見受けられたので、カワサキは迷わずにヒグマに向けて発砲した。試射の時のようにイヤーマフをしていない状態で発砲したライフル銃の発砲音は想像通りに爆竹を鳴らした以上の大きな音が響いている。

1発目の発砲をしたカワサキは、急いで遊底を操作して1発目を排莢すると2発目を薬室に装填して1発目と同じ箇所に狙いを付けて発砲する。

2発目の排莢をするため遊底を操作している間にヒグマの様子を見ると、カワサキの感覚では2発ともヒグマの心臓付近に着弾させた手応えがあるもののヒグマは未だ倒れていない。3発目を薬室に装填したカワサキは、ヒグマの左頬の辺りに狙いを変えてヘッドショットを試みた。ヒグマの頭部付近から赤い血煙が舞い上がるのをスコープ越しで目にすると、ようやくヒグマは横向きに崩れ落ちて動かなくなった。

カワサキは、ライフル銃に安全装置を掛けると周囲を見回して3発の空薬莢を拾い集めて多機能ベストのポケットに仕舞うと、急いで下り斜面を駈け降りて女性の元に近付き優しく『大丈夫ですか?』と声を掛けた。声を掛けられた女性は恐怖のためなのか両手で耳をふさいで全身を震わせながら泣いているようである。

カワサキは、女性の背中を優しく擦りながら『私はハンターですが、貴女がヒグマに襲われそうでしたので、持っていた銃でヒグマを撃ったのです。もう、ヒグマは死んでいると思いますので大丈夫ですよ』と語り掛ける。しかし、視線だけは倒れているヒグマから決して外さない。倒したと思って油断したときにヒグマが立ち上がって逆襲してこないとも限らないからだ。

幾らか落ち着きを取り戻したのか女性は『ありがとうございます。助かりました』と言って頭を下げた。カワサキが『立てますか?』と尋ねながら女性の足元へ視線を向けると、ヒグマに遭遇して慌てて逃げようとした際に足首を捻ったのか、多少の腫れが見受けられたので『もう大丈夫ですから、このままで居てください』と声を掛けると倒れているヒグマの方へ歩いて行った。

左手に持っているライフル銃の消音器の先端でヒグマの睫毛を突いてみたが反応は無く、口から血を吐いた痕跡があり、左耳の前辺りに射入創の赤い跡が見えるのでヘッドショットが偶然にも上手く命中したのであろう。

体格が余り大きくないところを見ると親離れしたばかりの若いヒグマだと思われた。ヒグマの状態を一通り確認したカワサキは、足首を捻って動けない女性をそのままにしておけないので、倒れたヒグマの死体を遊歩道の脇を流れる沢の方へ移動させておいた。

ヒグマの死体を沢に移動させ終えると、左手にしていたライフル銃をソフトケースに仕舞ってから女性の方へ引き返して、女性の隣にしゃがむと背負っていたリュックサックを下ろして中からファーストエイドのセットを取り出して女性の足首に応急手当てを施した。手当てをした感じでは骨に異常が無さそうなので捻挫ではないかと思われる。カワサキは女性に『歩けそうですか?』と声を掛けると『ええ大丈夫です』と言って、女性は立ち上がろうとするが、その様子はカワサキから見ても心許ない。

見ていられなくなったカワサキは『失礼』と言ってから、女性の背中と膝の裏側に横から抱き抱えるようにして遊歩道の入り口と思われる方へ歩き出した。抱っこされた女性は小さな声で『私、重いのにごめんなさい』と言って顔を伏せている。

女性の身長は160センチメートルくらいでスリムな体型なので、軍隊生活で鍛え上げたカワサキからしたら大したことはない。しかし、カワサキも何か言わなければと思い『貴女のせいじゃないので大丈夫です』などと答えたが、カワサキの心中は綺麗な女性を目の前にして可笑しな日本語だったかなと苦笑いをしたい気分であった。

遊歩道の入り口まで戻ると、女性は車で来ているということだったので、女性の車の前で彼女を降ろすと『本当に助かりました。私、佐藤彩芽と言います。もし、良かったらお名前を教えて頂けますか?』と聞かれたカワサキは『川崎譲二と言います』と偽名を答えた。

佐藤彩芽は『川崎さんですね。後ほど、お礼がしたいので連絡先も教えて頂けないでしょうか?』と聞かれたので『お礼なんて大丈夫ですよ』と辞退したのだが、どうしても命の恩人にお礼がしたいと頑張られて、根負けしたカワサキは幾らか困った展開になってしまったと思いながらも、偶然に出会った素敵な女性に連絡先を教えるのは嬉しいのだが、後でCIAから厳しく注意されることを覚悟して、CIAから寄越されているスマートフォンの番号を伝えることにした。

ほんの僅かな会話の後、車で立ち去る佐藤彩芽は丁寧に礼を述べて帰って行った。その車を見送ったカワサキは、倒したヒグマの所へ戻ってみた。倒したヒグマの処理をどうするか悩んだが、遊歩道で放血や死骸の解体作業をするわけにもいかないし、ましてやライフル銃を持った状態でウロウロしても居られないので、不本意ながらヒグマの死骸を放置してパジェロミニへ引き返すことにした。

今日のハンティングで、狙い通りにヒグマをリロードしたライフル弾で倒すことが出来たが、想定外の状況だったので獲物を放置しなければならなかったのは残念であっだが、それ以上に素敵な女性との出会いがあったことはカワサキにとって収穫である。

実際カワサキの目に映った佐藤彩芽は、眩しいくらいに美しく輝いていた。更に美しいだけではなく内に秘めた芯の強さもあるようで、カワサキが想像している気品ある美しい日本女性そのものといった感じがして心が弾んだ。

確かに、佐藤彩芽は見るからに清楚な感じのする美人で、もしかしたらモデルをしているのではと思わせる風貌をしており街中ですれ違ったのなら、少なくとも男性なら振り返ってしまうに違いない。

しかし一方で、カワサキの心を暗くするのは、自らが選択したことであるが現在の自分はCIAの暗殺要員となって公的には存在していない立場の人間であって、決して世間一般の恋愛や幸福とは無縁の存在として生きていかなければならない。そんなカワサキにとって彼女との出会いは束の間の幻と思うしかないという現実である。

本来なら、自らがリロードしたライフル弾で見事にヒグマのハンティングに成功したにも拘わらず獲物の肉を手にいれらなかったり、例え人助けとは言えライフル銃を発砲する姿を第三者に見せてしまった事は後悔すべきはずだが、今のカワサキは佐藤彩芽の存在に心を奪われつつある状態であった。そんな複雑な気持ちでアジトへ向けて帰途につく。

アジトに到着すると冷蔵庫に残っている食材で夕食を作り、いつもの様に缶ビールと共に料理を食べ終えて後片付けも済ませた頃、突然スマートフォンの着信音が鳴った。

カワサキは、スマートフォンを取り上げて画面を見ると着信番号には見覚えがない。不審に思いながらも電話に出てみると相手は佐藤彩芽であった。

電話の内容は、カワサキと遊歩道で別れてから念のため整形外科の病院を受診したので、お礼の電話が夜分遅くなってしまったことへの謝罪から始まった。応急手当てを施したカワサキの見立てでは足首に多少の腫れが見受けられたが捻挫であろうと思っていたが、自分は専門の医師ではないので適当な事は言えないと思い、彼女へ医師からの診断を聞いてみるとカワサキが予想した通りに捻挫という診断結果だったそうで数日も経てば痛み等は治まるそうである。

ちなみに、彼女が遊歩道を1人で居たのは、仕事等で嫌な事があった時にリフレッシュの為に自然のなかを1人でトレッキングするそうで、今日もリフレッシュをする目的で遊歩道を歩いていた時に突然目の前にヒグマが現れたので、慌てた彼女は逃げようとした時に態勢を崩して足首を捻って動けなくなって、どうしようかと不安な気持ちでいたところにカワサキが猟銃でヒグマを倒してくれたお陰で助かったということであった。

彼女からは、歩けない程ではないが未だ足首の痛みがある状態なので、足首の痛みが和らいだ頃に改めてお礼をさせて欲しいと言われた。

カワサキとしては彼女に会える嬉しさがあったが、生命の危険があった彼女を助けのは特別なことではないので気を使う必要はないと故事したのだが、命を助けてもらったことへの感謝の気持ちを受け取って欲しいという彼女の強いお願いに屈しきれずに了承することになった。

スマートフォンを切ったカワサキは、珍しくハシャギたい気分になっていた。しかし、心の片隅にはCIAの暗殺要員である自分が、世間並の恋愛感情に流されて彼女との関係を深めていってはならないという自制の気持ちが沸き上がり、彼女に会うのは次を最後にしようと決めた。


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