中編3
7
「鈴太は護摩壇の右に座れ。足は崩してよい」
「はい」
「天狐は護摩壇の左じゃ。体をらくにして、降りてきた魂がするりと入るようにせよ。それから座布団を体の周囲に敷き詰めておけ」
「心得た」
「では、修法に入る。これより、降ろした魂が還るまで、われら三人の会話は無用じゃ」
そして和尚さんは呪文を唱えはじめた。
時々、護摩札を祭壇に放り込む。
ばちばちと火の粉が上がって、祭壇の脇に座るぼくも、ちりちりと熱気に焼かれる。
ゆらめく炎。
いつまでも続く呪文。
頭がぼおっとしてくる。
ふと気づけば、天子さんの体が、ゆらゆらと揺れている。
ぼくは、天子さんの顔に注意を集中した。
美しい顔だ。その顔が、汗でてらてら光っている。
ぼくと天子さんのあいだには炎が燃え上がっているから、顔はみえたりみえなかったりする。炎に照らし出されるその姿は、この世のものとも思えないような美しさと恐ろしさを持っている。
どれほど、そうして炎の向こうに消えては現れる天子さんの顔をみつめていたろう。
突然、目を閉じたままの天子さんの顔に、いらだちのようなものが浮かんだ。と思えば獰猛な笑みが浮かぶ。
ぼくは、ごくりとつばを飲み込んで、言葉を発した。
「天逆毎さま。天逆毎さま」
返事はない。三度ほど息を吸ってはき、心を落ち着けて、少し強い声を発した。
「天逆毎さま。天逆毎さま」
目を閉じたまま、天子さんは口を開いた。
「何か」
その声は、しわがれて野太く、とても天子さんから出た声だとは思えない。
いけない。
今は、よけいなことを考えているときじゃない。
「天逆毎さま。天逆毎さま」
「われを呼ぶのは、たれか」
「わたくしめでございますよ」
「わたくしめとは、たれか」
「あなたさまにずっとお仕えしてきた、わたしくめにございますよ」
「われに、ずっと仕えてきた、じゃと?」
「さようにござります。あなたさまが、最も信頼なさるしもべにござります」
「おお、そうか。わしの、しもべか」
「あなたさまの強さと賢さをお慕いするしもべでござります」
「そうか。そうであったのう」
「天逆毎さま。もうすぐにござりますなあ」
「もうすぐじゃと? 何がじゃ」
「長年の宿願が果たされるのは、もうまもなくのことでござりますなあ」
「宿願……果たされる……おお、そうか。まさにそうじゃ。あのにっくきひでり神め」
「さようにござります。ひでり神でございますよ」
「おおん。おおん。わが恨み、今こそ晴らしてくれる。ひでり神め」
「長いあいだ、恨んで恨んで過ごされましたものなあ」
「そうじゃ。もはや何千年たったのか、われにもわからぬ。おおん。おおん。ひでり神め」
(何千年だって?)
(ばかな)
(それは天逆毎の寿命をはるかに超えてる)
「憎い憎い怨敵でございますものなあ」
「そうじゃ。憎い。憎い。われはひでり神が憎い」
「あれはいずこのことでございましたかなあ。ひでり神に出会われたは」
「われは王であり、支配者であった。逆らう者は、すべて滅ぼした」
「あなたさまこそは、偉大なおかたでござります」
「そうじゃ。われは地上で唯一無二の王であった。絶対の存在であった」
「さようにござります」
「それを、あの人間の小僧が刃向かいおった」
「許しがたきことにござります」
「この蚩尤に、あの小僧は逆らいおったのじゃ!」
和尚の投げ込む護摩木が、ひときわ高く炎を噴き上げた。
8
(し、蚩尤だって?)
(ばかな)
(そんな、ばかな)
(それは、古代中国で圧政を敷いた暴君だ)
(神の子であり、強大な霊力を持ち、あらゆる敵を粉砕した、強大な君主だ)
(そして民衆の蜂起によって倒され)
(のちに王となる青年によって粉々に打ち砕かれたはずだ!)
(どうして今、こんな場所にいるはずがある?)
「あの小僧は、まったく憎むべきやつ。そしてひでり神もでござります」
「そうじゃ! たとえ人間どもが何万集まろうと、小賢しき妖怪どもが何百押し寄せようとも、われをどうすることもできはせぬ。必死に戦うやつらをみて、われはただ楽しんでおった。なにしろわがもとには、雨師と風伯がおったのじゃからなあ」
「まことに、まことに」
「やつらが仮初めの優勢に喜ぶとき、われは雨師と風伯を呼び出した。やつらの驚きあわてるさまは、まことに愉快なみものであった」
「愉快にござりましたでしょうなあ」
「ところが黄帝の娘が、いらぬ手出しをしおった」
「ひでり神にござりますな」
「そうじゃ! やつ一人のために、正は邪となり、光は闇となった」
「許しがたきことにござります」
「わしの体は、粉々に打ち砕かれ、そのかけらは地上のあらゆる場所に飛び散った」
「ああ、ああ。なんとおいたわしきこと」
「この地にも、小さな小さなかけらが落ちた」
「落ちたのでござりましたなあ」
「かけらとなったわれは、ずっと眠ったままであった。何千年の眠りをむさぼったのか、もはや今となっては知るよしもない」
「長い長いご休息にござりました」
「眠るわれに、山々のあいだに発する霊気が少しずつ入った」
「入ったのでござりますなあ」
「少しずつ、少しずつ、われは力をたくわえた。それでもわれの心が目覚めることはなかった」
「おいたましいことにござりまする」
「ところがあるときから、流れ込む霊気の量が急に増えた。われのなかで小さな小さな心が目覚めた。いや、それはまだ心とも呼べぬ魂のゆらぎにすぎなんだが、おぼろげながら、ものを感じはじめた」
「おお、おお。なんとめでたきことか」
「あれは、いつのことであったか。われの横を、一匹の生まれたばかりの川海老が通り過ぎた。われはするりと、その川海老に入り込んだ。そうじゃ。われは川海老となったのじゃ」
「それから、それからどうなったのでござりまするか」
「それからは早かった。われはぐびぐびと霊気を飲み干した。川にはいくらでも霊気が流れ込んでまいった。われは大きくなり、強くなり、天逆毎となった」
「おめでたきことにござります」
「めでたくなどないわ! このような卑小なあやかしでは、われ本来の霊気を宿すことは到底できぬ。それでもわれは、できるだけ多くの霊気を食ろうた。そして気がついたのじゃ。川の前にある奇妙な結界に」
「あの結界にござりまするなあ」
「霊気は山々からおりるとともに、その結界からあふれ出ておった。結界から漏れ出る霊気は、濃く、強く、そして憎々しい香りをただよわせておった」
「香りでござりましたか」
「そうじゃ、香りじゃ。たとえ何千年がたとうと忘れるものではない。それは、にっくきひでり神めの香りであった」
「おお! おお! 何ということ」
「この結界のなかに、きゃつがおる。わしは、それを知った」
「ついにお気づきめされたのでござりまするな」
「やがてわしは力をたくわえ、賢くなっていった。結界を出て、われの住む川をじっとみる者をさらっては、秘密を探ろうとした。じゃが、結界の秘密を知る者はおらなんだ。あのときまではなあ」
「あのときでござりますな」
「そうじゃ、あのときじゃ。人と思うてさろうたが、人ではなかった。法師狸の眷属であった。あれの心に押し入って秘密をあばき、われはおぞましき真実を知ったのじゃ」
「真実でござりますか。それは、どのような真実にござりますか」
「いうまでもなかろう。あのひでり神めは、まやかしの呪法を行って、天界に戻ろうとしておるのじゃ! そのようなことが許されてよいものか!」
「よいわけがござりませぬ」
「われは、あの手この手と術を尽くして、結界をやぶろうした。おぬしも覚えておろう」
「覚えております。忘れるものではありませぬ」
「そうじゃ。忘れるものではない。何をどうしても、結界を破ることはできなんだ」
「口惜しきことにござりました」
「ただし、妖気を持たぬただの水なら、結界のなかに放り込むことができた。あれは大きな成果であった」
「さようでござりましたなあ」
「ともあれ、結界のなかの敵の陣容は知れた。力を失うたひでり神と、法師狸と、化け狐、それに陰陽師の一族。それがわが敵じゃ」
「敵にござります。怨敵にござります」
「われは十二個の溜石を作り、身に納めきれぬ霊気を吹き込んで、村人に暗示をかけて、結界の内に持ち込ませた」
「さようにござりました。十二個の溜石にござりました」
「溜石からは次々とあやかしが生ずる。ただのあやかしではないぞ。わが渾身の霊気を受けしあやかしじゃ。そのあやかしは、結界のなかで暴れ、ひでり神めを苦しめる。たとえ法師狸に倒されても、倒されたあやかしの妖気がたまれば結界は破れる。強きあやかしが生ずれば、そのあやかしが里を滅ぼす。そして結界は消え、ひでり神めは丸裸になる」
「おみごと。おみごと。しかし、でござります」
「しかし、何じゃ」
「最後の一手は、いかようになされますか」
「最後の一手じゃと?」
「落ちぶれ果ててもひでり神は天界の神の娘。なまなかなことでは滅ぼすことはできませぬ」
「おお、それよ。そのためにこそ、われは力をたくわえたのよ。わが最強のしもべを呼び出すためになあ」
「最強のしもべとは?」
「いうまでもあるまい。雨師と風伯よ」




