終章:誰そ彼のひと
「リノ」
柔らかな兄の声が自分を呼ぶ。
「はい」
振り返るとコートを羽織ったイアンが、手にちいさなコートを持って屋敷の玄関からリノの隣にやってきた。
「風邪引くぞ」
「うん」
兄の手からコートを受け取って着ると、用は済んだと言わんばかりに兄は屋敷に引っ込んでしまった。
季節は巡る。
さらわれかけた冬の出来事から、数ヶ月が経ち、季節は春になっていた。
とはいえども、日中は暖かいだけで、夕暮れから夜明けまでは冬のように凍える日が続いていた。
「……」
リノには待ち人がいる。
それはなにも変わらないことだった。
軍部にいたにもかかわらずサナンに会うこともなく、グイードに一服を盛られて、気がついたころにフィル、というサナンの友人と少しだけ話して、グイードが亡くなったことを知らされただけだった。
そして、また、眠って、おきたらこの屋敷にいた。
「……」
暖かなコートに身を寄せながらリノはかじかんだ手で胸を探り、ペンダントを握った。
藍色の宝石はなにも知らないかのように静かな光をたたえたままだ。
これをくれた人は未だ見えず、どこにいるかも知れない。
そろそろ、忘れるべきなのかもしれない。
シオンは、あれにはお前しかいないと、言っていたが慰めてくれていたのだろう。
そんなことしそうにない人だが、それぐらいの優しさを持っていたのかもしれない。
そっとため息をつくと、ほんのりと白い吐息が宙に消えた。
屋敷に帰ろうと足を進めると遠くで馬のいななきが聞こえた気がした。
期待はもうしない。
屋敷のすぐ隣にある砂浜の砂を止めるための林を貫く、赤い日の色が、屋敷と、芽吹きはじめた庭の草木に降り注ぐ。
ふと閉じかけたバラのつぼみの赤色に目を奪われ、寄るとほのかな露を含んでいた。
「……」
つんと指先で突くとその雫が、ほろりと落ちた。涙のようだった。
リノはぐっとちいさなこぶしを握って胸に寄せてうつむいた。ふるふるとその肩が震える。
『ねえ、サナンさま』
『迎えに行く』
不思議な声が、また、聞こえた。
まるで、まるであの、列車のときのように。
なにかの予感に振り向くと、一人の男が一歩先に息を切らせながら片膝をついた。
低いところにあるのは銀色の、髪。
「え……」
「お迎えに上がりました、お嬢様?」
鋭く整った顔を上げた男は、その黒革に包まれた手をリノに差し出して、やわらかく笑った。
「シオ……、や、サナン、さま?」
今度は間違いなく呼べたその声にサナンの顔が笑み崩れる。
リノは差し出されたままの手を見て、サナンの顔を見て、深く息を吸って泣きそうになるのをこらえた。
顔はシオンだ。だが、声はサナンだ。それが導くのは――。
状況についていけない頭に彼の優しい視線が後押しをする。
そして、握ったままのこぶしを解いて、その手に指先をそろそろと伸ばす。
「……」
その手袋に触れた瞬間、ぐっと指先をつかまれて、あっと思った時には立ち上がったサナンに引き寄せられていた。
毛織物で出来た軍服が冷たい頬に痛い。
「……リノ」
深い声音に、リノはわっと泣き出しそうになるのをこらえていた。
ただ、握り締められた手に力を込めて、空いた手で彼の背中にしがみついて。
そして、ずっと、五年も前から伝えたかった言葉を震える声に乗せる。
「おかえり、なさい」
その言葉にどんな思いが乗ったのだろうか。
確かに、彼は帰ってきたのだ。
ただ、体に感じるぬくもりがそれだけを訴えている。
髪に顔を埋めたサナンの笑う気配。振り返ろうとすると、強く抱きしめられてそれを阻まれた。
「……ただいま」
深く低いその声が耳朶を打つ。
「遅くなったけど、迎えに来た」
すっと身を離されて一歩下がると、サナンはリノの目の前に膝をついて、手袋をはずして小脇に抱えると、ポケットからなにかをつまんで、開いた片手でリノの左手を取った。
「ついてきて、くれるか?」
深い、その声に、目を見開いてサナンを見ると、サナンの左手、細い薬指に紅い宝石がついた金色のリングが輝いていた。
「サナン、さま?」
その意味に気がついたリノの手が、声が震える。小刻みに震え始めたリノの指先をしっかり握って、サナンが優しく笑う。
「これからも、何度も待たせると思う。だが、キミが俺の帰る場所になるのであれば、たとえ、なにがあったとしても帰って見せよう。……俺と、いや、私と結婚していただけるかい? お嬢さん」
微笑んだままのサナンに、リノは、落ち着いた涙が、またぼろぼろと溢れ出すのを感じていた。
黙ったまま、リノの答えを待つサナン。指先を握るその手が震えているのは寒さのためか、それとも緊張のためか。
「……」
リノは、泣きながら、うつむいて、そして、口の端を上げて泣き笑いの表情で頷いた。
「いつまでも、あなたを待ちます。……サナンさま」
嗚咽を噛み殺しながら、告げられたその言葉に、サナンの笑みが大きくなる。そして、リノの左手、サナンと同じところに、紅い宝石のついた、細やかな装飾のなされた銀色のリング通される。
「これ……」
目を見開いたリノに、サナンがふっと笑いながら、立ち上がってやわらかい髪を撫でた。
「さあ、暗くなった。イアンのところに挨拶した後、俺は王都に戻る。どうする?」
「え?」
もう行ってしまうのと言いたげなリノの目線にサナンが得意げににやっと笑って肩をすくめて、痛みが走ったように顔をゆがませた。
「サナンさま?」
「傷がまだ癒え切ってないんだよ。……俺の求婚を受けたんだ。お前はもうスウェリア家令嬢じゃない」
はっとその言葉にサナンの顔を見ると、いたずらっ子のような表情をした彼がそこにいた。
「先触れを頼む。奴に俺が来たといってくれ。そして、お前は、さっさと部屋に篭って出る仕度しな」
そう耳元でささやく声に、リノはぱっと顔を挙げてサナンを見てこくんと頷いて、急ぎ足で屋敷に向かう。
「新しい日々、のはじまりだな」
先を行ってしまったリノの背中を見ながらサナンが独りごちる。
「……」
エナは、グイードの残した部隊で元気にやっている。
フィルは、相変わらずあの医務室で、部下達をからかいながら、仕事をしている。
テオは、いつもどおり補佐官としてまた、執事として側にいてくれている。
部下達も、こんな自分を慕っていてくれている。
「仲間に、いや、人に恵まれたもんだな、俺も」
ぼそぼそと呟きながら、スウェリアの屋敷へと一歩一歩足を進める。
日が傾いていたはずの庭園の風景は、完全に宵闇に包まれて、空に星と月が静かにたたずんで見つめていた。
「……」
屋敷からは、イアンのなにかをわめく声と、慌てふためいた執事、侍女達の声。そして、なによりも。
「楽しそうな声だな」
なによりも、うれしそうな笑い声が響いてきている。
頑丈な扉を前にして、ふっと一息をつく。目の前には、家のものとは桁は違うが、それでも豪奢なノッカーがにらみを聞かせている。
「さ、行くかな」
ノッカーに手を掛け、強く鳴らした。中の声はぴたりとやんで、そして、玄関の扉がゆっくりと開かれた。
「お早いおつきで……」
「先触れもなくすまなかった。なんせ、仕事が長引きそうでな。この隙に逃げられたら……」
「あなたの言い訳は聞き飽きましたよ。さあ、奥へ。イアン様がお待ちです」
「ああ。すまん。あと、イアンに挨拶したら、俺は滞在せずに王都に戻る」
「え? あ、ちょっと失礼、サナンさま?」
「ああ。仕事抜け出してきたからさ。早めに戻らないとフィルに怒られんだわ」
ぴっしりと決めている執事にそういうと、執事は呆れた顔を見せて額を押さえた。
「お変わりないようで」
「ああ。それなりに元気にしていたよ。遅くなってすまなかったな。それは本当に申し訳なかった」
「いえ、こうしてお嬢様をお迎えに上がられたこと、そして、また、お見えになられたこと、私は、大変うれしく思います。さあ、少々の滞在でも最高のおもてなしをさせていただきたく思います。どうぞ」
微笑む執事に、サナンもそっとため息をついて笑うと頷いて、先を案内する執事についていく。
もうすぐ、終わるのだ。
侍女、使用人一同が出迎え一礼する。それに手を挙げて応じ、堂々とその人の並みの中歩いていく。
「おう、なかなか遅いお着きだったな」
そんなイアンの声が聞こえてきて、サナンはふっと笑った。
これから、始まるのだ。
「すまんかったな。これからは遅刻に気をつけるよ」
軽く返しながら、サナンは、かしこまった様子のイアンを見て笑った。
「じゃあ、もらっていく。いや、いただいていくよ」
その言葉にイアンの瞳が複雑な色をたたえる。その色にサナンはふっと視線を下げて口を開いた。
「今まで迎えにこられなかった五年間、一生をかけて償う。いや、それ以上を与える。だから……」
イアンの手がサナンの右肩にかけられる。左肩の傷はいまだに痛みが残っている。
「妹を、リノを頼みます、サナン」
その言葉に、息を呑み、そして、ふっと吐いてその手を振り払って目の前にある顔をまっすぐ見る。
「謹んでお受けしましょう。大切にします」
口元にほのかな笑みを浮かべながら断言するその言葉に、本人ではなく、その周りが赤面することになった。
侍女たちの頬は染まり、若い使用人たちの瞳にはあこがれ、案内役を担った古株の執事がすっと目を細める。
終わりを迎えた旅と、始まりを告げた、新たなる生活。
いつの間にか仕度を終えたリノが重たい荷物を引きずりながら階段を降り、サナンの隣に並ぶ。
「行ってこい。ここに籍がなくともお前はここの家の娘だからな」
「はい、お兄様」
一言お小言をもらされるかと思ったリノだったが、深い瞳の兄にこくりと頷いて、ふっとサナンを見た。
遠くを見つめ、少しだけ微笑むと、視線に気付いたようにリノに目をあわせてゆっくりと頷いた。
「外に馬車を待たせている。行こう。これから冷える」
そういいながらサナンはリノの肩に自分が着てきた外套を羽織らせて大きいカバンを軽々持ち上げてイアンに背中を向け、また、案内役の執事を先に、リノをエスコートしながら歩いていく。
「……」
そんな背中を、イアンが目を細めて見送り、侍女達が憧れの瞳を持って送り出す。
「それでは」
サナンが優雅に一礼して、執事に小さく礼を言って玄関の外にでて、いつの間にか横付けされていた馬車にリノを乗せ、御者にリノの荷物を預けて自身も乗り込む。
月夜へ旅立つ二人を、夜気に揺れるほころびかけたバラのつぼみと、黄色い水仙が静かに見守っていた――。




