第9話 同居、してみる?
第9話 同居、してみる?
恒一の部屋に泊まった翌朝、文香は妙な音で目を覚ました。
じゅう、と何か焼ける音。
ぼんやり目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいた。狭いワンルームの空気は少し乾いていて、昨夜の鍋の出汁の匂いがまだ残っている。
「……ん」
寝返りを打つと、隣には誰もいなかった。
キッチンのほうから、また音がする。
文香は毛布にくるまったまま顔を上げた。
恒一がフライパンを持っていた。
「起きた?」
「……なにしてるの」
「ベーコン焼いてる」
「朝から?」
「せっかく泊まったし」
油の弾ける匂いが部屋に広がる。
その生活感が、文香には少し不思議だった。
ホテルじゃない。
デートでもない。
誰かの生活の中に、自分がいる。
「コーヒー飲む?」
「飲む……」
掠れた声で答えると、恒一が笑った。
「寝癖すごい」
「見ないで」
「無理」
文香は顔をしかめながら起き上がる。
狭い部屋。
小さなキッチン。
一人用の冷蔵庫。
でも、なぜだろう。
嫌じゃなかった。
朝食はトーストとベーコンエッグだった。
テーブルが小さいから、向かい合うと膝がぶつかる。
「狭」
「だから言った」
「これ毎日はきついかも」
「だろ?」
恒一が笑いながらコーヒーを飲む。
インスタントなのに、妙に美味しかった。
窓の外では、洗濯物が風に揺れている。
下の階から掃除機の音が聞こえた。
その全部が、“誰かと暮らす朝”だった。
月曜。
文香は会社で電卓を叩きながら、ぼんやりしていた。
「高瀬さん」
「はい」
「数字ずれてる」
「あ、すみません」
篠田が怪訝そうな顔をする。
「珍しいね」
「ちょっと寝不足で」
「大丈夫?」
「はい」
そう答えながら、文香はスマホを見る。
昼休みなのに、恒一から連絡が来ていなかった。
いつもなら何かしら来る。
『昼カレー』
『会議長い』
『眠い』
そんな、どうでもいい連絡。
文香は少し迷ってから、自分から送った。
『お昼食べた?』
既読がつかない。
その瞬間、自分でも驚くくらい落ち着かなくなった。
なんで。
仕事中なだけなのに。
夕方になって、ようやく返信が来る。
『ごめん、障害対応で死んでた』
文香は胸の奥がふっと緩むのを感じた。
『ちゃんと食べて』
『今から食べる』
『遅すぎ』
『怒られた』
そのやり取りだけで、安心する。
文香はスマホを伏せたあと、自分の感情に少し戸惑った。
以前は、連絡なんて必要最低限でよかった。
むしろ放っておいてほしかった。
なのに今は、返事がないだけで少し不安になる。
帰り道。
電車の窓に映る自分の顔を見ながら、文香は小さく息を吐いた。
――もう制度だけじゃない。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
結婚をした理由は合理性だった。
家賃。
税金。
世間体。
安心。
でも今は違う。
「会いたい」が増えている。
金曜じゃなくても。
用事がなくても。
それが少し怖かった。
金曜の夜。
二人はスーパーで買い物をしていた。
「豆腐いる?」
「いる」
「ネギは?」
「ある」
カゴの中には、普通の生活が入っていく。
味噌。卵。洗剤。牛乳。
文香はふと笑った。
「なんかさ」
「ん?」
「夫婦っぽい」
「今さら?」
「スーパーって生活感すごい」
恒一が笑う。
「映画館より夫婦感あるな」
レジ袋を提げて、二人で歩く。
夜風が少し涼しかった。
恒一の部屋に着くと、自然に文香が冷蔵庫を開けた。
「あ、プリンある」
「昨日コンビニで買った」
「なんで隠すの」
「隠してない」
そんな会話が、妙に自然だった。
鍋を食べ終わったあと、二人は床に座ってテレビを見ていた。
バラエティ番組の笑い声。
洗った食器の水滴。
エアコンの低い音。
恒一がぽつりと言う。
「ねえ」
「ん?」
「試しに、一緒に住んでみる?」
文香は動きを止めた。
テレビの音だけが流れる。
「……え」
「いや、ほんと試しで」
恒一は視線をテレビに向けたまま続ける。
「いきなり本格同居じゃなくてさ」
「……」
「週の半分だけとか」
文香は返事ができなかった。
怖かった。
また生活に飲み込まれるんじゃないか。
相手に気を遣って、自分が削れていくんじゃないか。
でも。
会わない日が寂しいと思ってしまった。
連絡がないと落ち着かない。
それも本当だった。
「嫌ならいいんだ」
恒一が静かに言う。
「俺も怖いし」
文香は顔を上げた。
恒一は少し笑っていた。
「たぶんさ」
「……うん」
「俺たち、同居向いてないんじゃなくて」
「?」
「失敗するのが怖いだけなんだと思う」
その言葉が、胸に落ちる。
文香は何も言えなかった。
窓の外では、誰かの部屋の灯りが揺れている。
それぞれの生活。
それぞれの帰る場所。
「……考えさせて」
ようやくそう言うと、恒一は頷いた。
「うん」
責めない。
急かさない。
その優しさに、また少し安心してしまう。
テレビでは芸人が大声で笑っている。
なのに二人の間だけ、静かな空気が流れていた。
文香はふと思う。
実家なら五万ですむ。
一人ならもっと楽だ。
狭い部屋でぶつかりながら暮らすなんて、非合理的かもしれない。
でも。
朝、隣に誰かがいて。
「おはよう」と言われて。
スーパーで豆腐を選んで。
そんな毎日を、少し想像してしまう自分がいた。




