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第8話 実家なら5万ですむのに

第8話 実家なら5万ですむのに


「だから私は、そういう結婚は変だって言ってるの!」


母の声が、リビングに響いた。


テレビでは夕方のニュースが流れている。鍋の煮える匂い。換気扇の音。いつもの実家の空気なのに、今日は全部が刺々しかった。


文香はダイニングテーブルの前で立ったまま、息を吐く。


「変でも別に困ってないから」


「困ってるじゃない!」


母はエプロン姿のまま振り返った。


「倒れたって聞いたわよ!」


「それは仕事のせい」


「だったらなおさら! ちゃんと旦那さんと暮らして、支えてもらわなきゃ」


文香は眉をしかめる。


「別居でも支えてもらってる」


「どこが!」


「病院来てくれたし」


「それ普通だから!」


言葉がぶつかる。


父は新聞を広げたまま気まずそうに黙っていた。


味噌汁の湯気が、やけに重たい。


「だいたいね」


母が続ける。


「結婚したのに実家にいる意味がわからないの。近所の人にも色々聞かれるし」


文香の胸が冷える。


「ああ、結局そこ?」


「そういう問題じゃない!」


「じゃあ何?」


「普通の家庭を作ってほしいの!」


文香は笑ってしまった。


乾いた笑いだった。


「普通ってなに」


「文香!」


「同居して、子ども産んで、家事して、それが普通?」


母の顔が強張る。


「そんな言い方……」


「私、そういうの向いてないって言ってるじゃん」


「向いてないで逃げるの?」


その瞬間、文香の中で何かが切れた。


「逃げてるのはそっちでしょ」


「え?」


「お母さん、自分の価値観押しつけてるだけじゃん」


空気が凍る。


ニュースキャスターの声だけがやけに大きく響いていた。


母はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。


「……そんなに実家が嫌なら出ていけば?」


文香は息を止めた。


売り言葉に買い言葉だったのかもしれない。


でも、その一言は思った以上に深く刺さった。


自室に戻る。


ドアを閉めた瞬間、全身の力が抜けた。


「最悪……」


ベッドに座り込む。


カーテンの向こうでは、雨が降り始めていた。


胸がざわざわする。


腹が立つ。


悲しい。


でも、それ以上に。


ここにいたくない、と思った。


スマホが震える。


恒一からだった。


『今日残業?』


文香は少し迷ってから、短く送る。


『家出たい』


既読はすぐついた。


『来る?』


その一言に、文香は目を閉じた。


涙が出そうになる。


『……行っていい?』


『もちろん』


文香は最低限の荷物だけ鞄に詰めた。


着替え。化粧ポーチ。充電器。


階段を下りると、リビングは静かだった。


母はキッチンに背を向けている。


父はテレビを見たふりをしていた。


文香は何も言わず、玄関で靴を履く。


外へ出ると、雨の匂いがした。


夜風が少し冷たい。


駅まで歩きながら、文香はぼんやり思う。


――実家なら五万ですむのに。


何度も口にしてきた言葉。


安全で、安くて、便利で、慣れている場所。


でも今は、帰りたいと思えなかった。


恒一のアパートに着いた頃には、雨が強くなっていた。


インターホンを押す。


すぐドアが開いた。


「うわ、濡れてる」


恒一が驚いた顔をする。


「傘さしてたんだけど」


「入って」


部屋の中は暖かかった。


柔軟剤の匂い。


小さなテーブルの上にはコンビニの袋が置いてある。


「とりあえずタオル」


「ありがと」


文香は髪を拭きながら、深く息を吐いた。


安心した瞬間、急に疲れが押し寄せてくる。


「喧嘩した?」


恒一が静かに聞く。


文香は少し笑った。


「まあ」


「お母さん?」


「うん」


「そっか」


それ以上は聞いてこなかった。


その距離感がありがたかった。


「お腹すいてる?」


「……ちょっと」


「鍋あるけど食べる?」


キッチンから湯気の匂いが漂う。


出汁の香り。


文香は少し驚く。


「料理してたの?」


「今日は気分」


「珍しい」


「文香に言われたくない」


二人で少し笑う。


狭いワンルームだった。


テーブルも小さい。


ベッドも一つ。


歩けばすぐぶつかる。


正直、不便だ。


でも。


鍋をつつきながら、文香は不思議な感覚を覚えていた。


「美味しい」


「ほんと?」


「うん」


湯気で眼鏡が曇る。


窓の外では雨が降り続いている。


テレビでは深夜バラエティが流れていた。


なんでもない夜。


なのに、心が少しずつ落ち着いていく。


「ねえ」


恒一が箸を止める。


「今日は泊まりなよ」


文香は少し黙った。


泊まる。


今までもホテルでは泊まった。


でもここは違う。


生活の場所だ。


恒一が普段、一人で帰っている部屋。


「……狭いよ?」


「知ってる」


「ベッド小さいし」


「うん」


「寝返りしたら落ちるかも」


「それは困る」


二人で笑う。


その笑い方が、なんだか妙に自然だった。


風呂を借りる。


恒一のシャンプーの匂いがする。


洗面台に置かれた歯ブラシは一本だけ。


鏡に映る自分の顔は、少し疲れていた。


でも、実家にいたときより呼吸が楽だった。


部屋へ戻ると、恒一が布団を整えている。


「ごめん、ほんと狭い」


「うん、狭い」


「だから言った」


「でも」


文香は小さく笑った。


「嫌じゃない」


電気を消す。


暗い部屋に、エアコンの音だけが流れている。


すぐ隣に、人の気配がある。


少し動くだけで肩が触れる距離。


「……眠れそう?」


恒一が小声で聞く。


「たぶん」


少し沈黙が落ちた。


それから文香は、ぽつりと言った。


「実家なら五万ですむのに」


恒一が吹き出す。


「まだ言う?」


「だって事実だもん」


「じゃあ帰る?」


文香は天井を見た。


暗闇の中で、恒一の呼吸が聞こえる。


安心する音だった。


「……今日はここがいい」


そう言うと、恒一は何も言わなかった。


ただ、小さく「うん」と返した。


狭くて、不便で、収納も少なくて。


実家よりずっと条件は悪い。


それなのに。


文香は久しぶりに、ちゃんと“帰ってきた”気がしていた。



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