第7話 夫婦の緊急連絡先
第7話 夫婦の緊急連絡先
午後三時を過ぎた頃だった。
恒一は会社の会議室で、半分眠りそうになりながら画面を見ていた。
プロジェクターの熱。コーヒーの苦い匂い。誰かのキーボードを叩く音。
「こちらの仕様ですが――」
部長の声が遠い。
昨夜も障害対応で寝不足だった。
そのとき、スマホが震えた。
知らない番号だった。
恒一は眉をひそめる。
会議中に電話なんて珍しい。
切ろうかと思った瞬間、妙な胸騒ぎがした。
「すみません」
小声で席を立ち、廊下へ出る。
蛍光灯の白い光がやけに冷たかった。
「もしもし」
『こちら中央総合病院ですが』
その瞬間、恒一の呼吸が止まる。
『高瀬文香さんの緊急連絡先の方でしょうか』
「……はい」
喉が急に渇いた。
『勤務中に倒れられて、現在こちらで処置しております』
「倒れ……」
足元がぐらつく。
『意識はありますが、過労と脱水の疑いがあります。可能であれば来ていただけますか』
「行きます」
考える前に答えていた。
通話を切った瞬間、恒一は走り出していた。
会社を出ると、外は雨だった。
生ぬるい風。濡れたアスファルト。車のタイヤが水を跳ねる音。
傘を差すのも面倒で、そのまま駅へ向かう。
電車の中でも落ち着かなかった。
文香が倒れた。
あの文香が。
「大丈夫だから」が口癖みたいな人間なのに。
スマホを見る。
最後のやり取りは昨夜だった。
『明日たぶん遅い』
『無理しないでね』
『月末だから無理』
それだけ。
もっと何か言えばよかった。
病院に着いた頃には、シャツの肩が雨で湿っていた。
消毒液の匂いが鼻を刺す。
夜の総合病院は静かだった。
受付の女性が顔を上げる。
「高瀬文香さんの……」
「ご主人ですか?」
恒一は、一瞬だけ言葉に詰まった。
そして頷く。
「……はい」
その音の響きが、妙に現実感を持って胸に落ちてくる。
案内された待合室は白くて寒かった。
遠くでナースコールが鳴っている。
自販機の低いモーター音。
恒一は濡れた髪をかき上げながら椅子に座った。
しばらくして、看護師が書類を持ってくる。
「こちら確認お願いします」
恒一はボールペンを受け取った。
名前を書く欄。
続柄。
そこに小さく印字されていた。
『夫』
恒一の手が止まる。
夫。
自分が。
その文字を見た瞬間、不思議なくらい胸が締めつけられた。
恋人じゃない。
彼氏じゃない。
緊急連絡先。
家族。
自分は、この人の一番近い存在なのだ。
今さらみたいに、それを理解する。
「ああ……」
小さく息が漏れた。
「俺、この人の家族なんだ」
看護師が少し不思議そうな顔をしたが、恒一は気づかなかった。
病室へ案内される。
カーテンの向こう。
文香は点滴を受けながら眠っていた。
顔色が悪い。
髪も少し乱れている。
いつもの、きっちりした文香じゃなかった。
恒一はそっと椅子に座る。
「……びっくりした」
返事はない。
規則正しい心電図の音だけが響いている。
恒一は文香の手を見た。
細い指。
いつも電卓を叩いて、キーボードを打っている手。
この手で、自分の熱のとき、お粥を作ってくれた。
その記憶がふっと蘇る。
「無理しすぎなんだよ」
思わず呟く。
すると、文香が少しだけ目を開けた。
「……恒一?」
掠れた声だった。
「起きた?」
「なんでいるの」
「病院から連絡来た」
文香はぼんやりした顔で天井を見る。
それから小さく笑った。
「最悪……」
「何が」
「すっぴん」
恒一は思わず吹き出した。
「そこ?」
「だって病院で会う予定なかったし……」
「予定で会うな」
文香も少し笑う。
でも、その笑顔を見た瞬間、恒一は心底安心した。
さっきまで冷えていた胸が、じわっと温かくなる。
「ごめん」
文香がぽつりと言う。
「なんで謝るの」
「迷惑かけた」
「夫婦なんだから普通だろ」
口に出してから、自分で驚く。
夫婦なんだから。
そんな言葉、自分が言うとは思わなかった。
文香も少し目を丸くした。
病室の窓には雨粒が流れている。
外は真っ暗だった。
「……夫婦かあ」
文香が小さく呟く。
「まだ慣れない?」
「うん」
「俺も」
二人で少し笑った。
沈黙が落ちる。
でも不思議と気まずくない。
点滴の音。廊下を歩く看護師の足音。どこか遠くのテレビの音。
その全部の中に、自分たちがいる。
「ねえ」
文香が目を閉じたまま言う。
「来てくれて、ちょっと嬉しかった」
恒一は返事に困った。
胸の奥がむず痒い。
「……そりゃ行くよ」
「でも私たち別居だし」
「別居でも家族だろ」
言った瞬間、自分でも驚くくらい自然だった。
文香はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「なんかさ」
「ん?」
「今初めて、結婚した感じする」
恒一は窓の外を見る。
雨が街灯に照らされて、白く滲んでいた。
恋人だった頃とは少し違う。
楽しいデートだけじゃない。
倒れたときに呼ばれる人。
深夜に駆けつける人。
そういう関係。
「……俺も」
恒一は静かに言った。
文香は安心したみたいに目を閉じる。
その寝顔を見ながら、恒一は思う。
一緒に住んでいなくても。
毎日会わなくても。
たぶんもう、自分たちはちゃんと家族になり始めている。




