第6話 一緒に住めない理由
第6話 一緒に住めない理由
「いらっしゃーい!」
玄関のドアが開いた瞬間、カレーの匂いがふわっと流れてきた。
文香は思わず目を細める。
「あ、いい匂い」
「今日めちゃくちゃ上手くできたの」
美優が笑いながらスリッパを出してくる。その後ろから、小さな足音がぱたぱた響いた。
「ママー!」
三歳くらいの男の子が突進してきて、美優の足に抱きついた。
「あーもう、危ないってば」
「この子が噂の怪獣?」
恒一がしゃがみ込む。
男の子は少し警戒したあと、恒一の顔をじっと見た。
「だれ?」
「お兄さん」
「おじさんじゃなくて?」
「お兄さん」
即答だった。
文香は吹き出す。
リビングに入ると、生活の匂いがした。
洗いたての洗濯物の柔軟剤。炊飯器の蒸気。テレビの子ども番組の音。床には積み木が転がり、小さな靴下がソファの下から覗いている。
「うわぁ……」
文香は思わず声を漏らした。
「生活感すご」
「でしょ?」
美優が笑う。
「毎日戦場だよ」
キッチンから、美優の夫が顔を出した。
「どうもー」
エプロン姿だった。
「あ、こんにちは」
「今サラダ作ってるから適当に座ってて」
文香はその光景をぼんやり見つめた。
夫がキッチンに立っている。
子どもが騒いでいる。
テレビが流れている。
誰かが笑っている。
昔、自分が想像していた“家庭”そのものだった。
「ほら、座って」
美優に促され、ソファへ腰掛ける。
少しだけくたびれた布地が沈んだ。
恒一は子どもに懐かれて、早速ミニカー遊びに巻き込まれている。
「ぶーぶ!」
「はいはい」
「赤!」
「赤ですねー」
その姿を見て、文香は少し意外だった。
恒一は子どもが苦手そうだと思っていた。
でも、ちゃんと目線を合わせて笑っている。
「似合うじゃん」
文香が言うと、恒一は困った顔をした。
「疲れるけどな」
「正直」
「正直」
みんなで笑う。
食卓には大皿のカレーが並んだ。
湯気の立つ白米。揚げたての唐揚げ。マヨネーズのかかったサラダ。
「いただきます」
声が重なる。
男の子がスプーンを落とし、美優が「あーもう!」と叫ぶ。夫がティッシュを持ってくる。
騒がしい。
落ち着かない。
なのに、不思議と温かかった。
「で、別居婚どう?」
美優がカレーをよそいながら聞いた。
「快適」
文香は即答した。
「家事ストレスないし」
「生活リズム違っても平気だし」
恒一も頷く。
「あと一人の時間あるの大事」
「わかるけどさあ」
美優は苦笑した。
「なんか不思議なんだよね」
「なにが?」
「結婚したのに別々って」
そのとき、男の子が「ジュースー!」と騒ぎ始めた。
美優の夫が立ち上がる。
「はいはい」
自然な動きだった。
文香はそれを目で追う。
無意識に役割が分担されている。
誰かが動けば、誰かが支える。
たぶん、長い時間を一緒に過ごした人たちの動き。
「でもさ」
美優がふと真面目な顔になる。
「喧嘩とかしない?」
「しない」
「そりゃそうでしょ」
文香は笑った。
「一緒に住んでないもん」
「……まあね」
美優は少しだけ黙った。
食後、恒一は子どもに捕まって別室へ連れて行かれた。
「でんしゃ見る!」と騒いでいる。
リビングには、美優と文香だけが残る。
シンクから水の流れる音。
洗剤の匂い。
夜の住宅街の静かな空気。
「ねえ」
美優が急に言った。
「本当は、一緒に住むの怖いんでしょ?」
文香は一瞬、息を止めた。
「……なにそれ」
「だって文香、昔の同棲めちゃくちゃ嫌がってたじゃん」
返事ができない。
美優はコップに麦茶を注ぎながら続けた。
「家事押し付けられてさ」
「……」
「気使ってばっかで」
文香は視線を落とした。
冷えたグラスの水滴がテーブルに落ちる。
「別居婚ってさ」
美優が静かに言う。
「合理的っていうより、防御じゃない?」
胸の奥が、少し痛んだ。
帰り道。
夜風が生ぬるかった。
駅までの道を、文香と恒一は並んで歩く。
遠くで犬が鳴いている。
住宅街の窓には、それぞれの生活の灯りが浮かんでいた。
「楽しかったね」
恒一が言う。
「うん」
「子ども、元気すぎ」
「疲れてたね」
「めちゃくちゃ疲れた」
二人で笑う。
でも文香の胸には、美優の言葉が残っていた。
――本当は、一緒に住むの怖いんでしょ?
駅前の信号で立ち止まる。
赤い光がアスファルトを染めていた。
「ねえ」
文香は小さく言った。
「恒一ってさ」
「ん?」
「なんで別居婚でよかったの?」
恒一は少し驚いた顔をした。
「急だな」
「なんとなく聞きたくなった」
信号待ちの人たちが静かに並んでいる。
風が吹いて、誰かの香水がかすかに漂った。
恒一は少し考えてから言った。
「……家が、嫌だったからかな」
文香は顔を上げる。
「実家?」
「うん」
青信号になる。
二人は歩き出した。
「親、仲悪かったんだよね」
恒一の声は淡々としていた。
「毎日ずっと喧嘩してた」
「……」
「帰ると空気悪くてさ。物音立てないように部屋入ってた」
文香は黙って聞く。
「だから今でも、誰かと住むと気を遣う」
恒一は苦笑した。
「機嫌悪くさせたらどうしようとか、静かにしなきゃとか、考えちゃうんだよ」
その横顔を見て、文香は何も言えなくなった。
自分だけじゃなかった。
恒一もまた、“一緒に暮らす”ことに傷を持っていた。
駅のホームに電車が滑り込む。
風が強く吹き抜ける。
「……そっか」
文香が呟くと、恒一は少し笑った。
「だから別居、楽なんだよね」
「うん」
「でも」
恒一が続ける。
「今日みたいなの見ると、ちょっと羨ましくなる」
その言葉に、文香は胸がざわついた。
騒がしくて、不便で、散らかっていて。
それでも誰かが「おかえり」と言う家。
自分たちはまだ、そこへ踏み込めずにいる。




