第10話 結婚の意味
第10話 結婚の意味
「……高くない?」
内見を終えた帰り道、文香は不動産の資料を見ながら真顔で言った。
「高い」
恒一も即答した。
駅から徒歩十五分。
築十八年。
二LDKと言うには少し狭い。
オートロックなし。
風呂とトイレは別だけど、脱衣所が妙に狭い。
それで家賃十三万八千円。
「たっか……」
文香はもう一度呟いた。
昼過ぎの住宅街は静かだった。洗濯物が揺れている。どこかの家からカレーの匂いが漂ってきた。
「実家なら五万ですむのに」
「出た」
恒一が笑う。
「でも、ここ結構よくなかった?」
「うーん……」
文香は資料を見下ろした。
確かに悪くなかった。
日当たりはいい。
近くにスーパーもある。
古いけど、変に気取ってなくて落ち着く部屋だった。
なにより。
「……二人で住むなら、ちょうどいいのかも」
ぽつりと口にすると、恒一が少しだけ目を丸くした。
「前向き」
「まだ仮だから」
「はいはい」
二人で笑う。
最初は、本当に“試し”だった。
週に二回だけ泊まる。
着替えを少し置く。
歯ブラシを一本増やす。
でも気づけば、文香は恒一の部屋にいる時間のほうが長くなっていた。
「で、決める?」
不動産屋でもらった鍵の見本を弄びながら、恒一が聞く。
文香は空を見上げた。
雲の隙間から、少しだけ青が見えている。
怖さは、まだあった。
一緒に住んで、関係が壊れたらどうしよう。
一人の時間がなくなったら。
嫌な部分ばかり見えてしまったら。
でも。
「……帰りたいって思ったんだよね」
「ん?」
「この前、会社終わったあと」
文香は少し照れくさくなりながら続ける。
「恒一の部屋に」
恒一は何も言わなかった。
ただ少しだけ、嬉しそうに笑った。
引っ越しの日。
段ボールは思ったより少なかった。
文香の服。
恒一のパソコン。
食器少し。
本少し。
二人とも、もともと物が少ない人間だった。
「これどこ置く?」
「そっち」
「狭いな」
「狭いね」
汗だくになりながら荷物を運ぶ。
エアコンの効きが悪い。
窓を開けると、遠くで子どもの声が聞こえた。
夕方。
ようやく最低限片付いた頃には、二人とも床に座り込んでいた。
「疲れた……」
文香が呟く。
フローリングがまだ新しい木の匂いをしていた。
「ご飯どうする?」
「もう出前でいい……」
「賛成」
二人でスマホを眺めながら、中華を頼む。
その時間が妙に楽しかった。
届いた餃子は少し冷めていた。
チャーハンは油っぽかった。
でも、段ボールに囲まれながら食べるそれは、不思議と美味しかった。
「ねえ」
恒一がペットボトルのお茶を飲みながら言う。
「ほんとに住むんだな」
「今さら?」
「いや、なんか実感なくて」
文香は笑った。
「役所出たときも同じこと言ってた」
「あー」
「私たち、ずっと実感ないまま進んでる」
「たしかに」
夜。
狭い部屋に、二人分の歯ブラシが並んでいた。
洗面台に化粧水が二種類ある。
脱いだ服がソファに置かれている。
生活が混ざっていく。
最初の一週間は、正直大変だった。
「タオルどこ?」
「そこじゃない」
「洗剤これ使うの?」
「違うやつ」
小さなズレが、何度も起きる。
でも、不思議と昔ほど苦しくない。
我慢している感覚がなかった。
ある日の朝。
文香が目を覚ますと、隣で恒一が寝ていた。
薄いカーテン越しの朝日。
エアコンの静かな音。
寝癖だらけの髪。
「……変なの」
思わず笑ってしまう。
恒一が薄く目を開けた。
「んー……何時」
「七時」
「最悪……」
「会社?」
「会議」
恒一は布団に顔を埋める。
その姿が少し可愛くて、文香はまた笑った。
以前の自分なら、誰かと毎朝起きる生活なんて息苦しいと思っていた。
でも今は違う。
朝、「おはよう」を言う相手がいる。
それだけで、一日の始まりが少し柔らかい。
金曜の夜。
文香はスーパー帰りに冷蔵庫を開けた。
「あ」
「ん?」
「プリン入ってる」
恒一がパソコンから顔を上げる。
「買っといた」
「なんで」
「好きだろ」
文香は冷蔵庫の前で立ち止まる。
たったそれだけのことなのに、胸が温かくなる。
コンビニの百円プリン。
そんなもの、一人でも買える。
でも。
“誰かが自分を思い出して買った”という事実が、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
窓の外では雨が降り始めていた。
狭い部屋に、カレーの匂いが漂う。
洗濯物が揺れている。
テレビでは天気予報。
生活だ。
完璧じゃない。
おしゃれでもない。
でも。
「ねえ」
文香がプリンを持ったまま言う。
「実家なら五万ですむのになぁ」
恒一が吹き出した。
「まだ言う?」
「だって事実だもん」
「こっちは家賃高いしな」
「駅遠いし」
「壁薄いし」
「収納ないし」
二人で笑う。
それから恒一が静かに言った。
「でも、こっちのほうが帰りたくなる」
文香は少し黙った。
その言葉が、ゆっくり胸に染みていく。
帰りたくなる場所。
それは、便利な場所でも、安い場所でもなく。
誰かがいる場所なのかもしれない。
夜更け。
二人は小さなソファに並んで座っていた。
肩が少し触れる。
テレビはもう見ていない。
静かな雨音だけが部屋に響いている。
文香はそっと恒一にもたれた。
恒一も自然に肩を寄せる。
恋愛とか、制度とか、普通の夫婦とか。
まだよくわからないことは多い。
でも。
「結婚ってさ」
文香が小さく言う。
「うん」
「帰る場所を作ることなのかもね」
恒一は少し考えてから、笑った。
「それなら、今ちょっとだけ成功してるかも」
文香も笑う。
窓の外では、街の灯りが雨に滲んでいた。
狭い部屋。
高い家賃。
不便な暮らし。
それでも二人は、ようやく少しだけ、“結婚”を理解し始めていた。




