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エピローグ 鉄が鉄を研ぐように,人は友を研ぐ

エピローグ:鉄が鉄を研ぐように、人は友を研ぐ


「絶対この棚、いらなかったって」

文香ふみかは潰れた段ボールを踏みしめながら言った。

「いる」

「部屋が狭くなる」

「収納が増える」

「でも圧迫感あるって」

「じゃあ捨てる?」

「……そこまでは言ってない」

恒一こういちが意地悪そうに笑う。


休日の昼下がりだった。

新居に住み始めて、半年が過ぎている。

相変わらず部屋は狭いし、駅からも遠い。冬は底冷えがするし、夏は西日がきつい。

なのに、二人とも以前より家にいる時間が格段に増えていた。


窓を開けると、春先の柔らかな風がカーテンを揺らす。近所の小学校から、風に乗って子どもたちの賑やかな声が聞こえていた。

文香は諦めてソファに座り込み、額の汗を拭う。

「疲れた……」

「まだ本棚の組み立て、終わってないぞ」

「もう今日はいい。ストップ」

「えー」

「恒一は凝り性なんだよ」

「文香が雑すぎるんだって」

「は?」

二人で一瞬、ジロリと睨み合う。――だが数秒後、同時に吹き出してしまった。


以前の自分なら、こういう小さな衝突が怖くてたまらなかったはずだ。

価値観の違い、生活リズムのズレ。他人と暮らすということは、そういう摩擦が少しずつ、おりのように積もっていくことだと思っていた。だから文香は、誰かと深く関わることが嫌だった。嫌われるのも、相手を嫌いになるのも怖かった。


でも、実際は違った。

ぶつかるたびに、少しずつ相手を知っていく。自分の中の頑固な角が削られ、知らなかった相手の輪郭が見えてくる。


「ねえ」

文香は床に座ったまま、膝を抱えて言った。

「ん?」

「恒一ってさ、ほんと几帳面よね」

「今さら?」

「テレビの裏のケーブル、まとめるの好きすぎでしょ」

「きれいに揃うと気持ちいいだろ」

「全然わかんない」

「人生損してるな」

文香は呆れながら笑った。その笑い声に、恒一もつられて破顔する。


――鉄が鉄を研ぐように、人はその友を研ぐ。


昔、どこかで耳にした言葉を、文香はふと思い出した。

人は、人と関わることでしか自分の形を変えられない。擦れ合い、削られて、磨かれて、少しずつ変わっていく。それはきっと、恋愛でも、結婚でも同じなのだろう。


夕方、二人でスーパーへ買い物に出かけた。

特売の卵を巡って「一パックでいい」「いや、使う」と軽く揉め、結局二パックをカゴに入れる。

「そんなに使う?」

「使うの。絶対余らないから」

鮮魚コーナーの生臭い匂い、惣菜売り場から漂う香ばしい香り、閉店前の値引きシールの赤。その泥臭い景色の全部が、もう二人の瑞々しい日常になっていた。


レジ袋を二脚で分けて下げ、帰り道を歩く。空は薄いオレンジ色に染まっていた。

「今日、何作る?」

「親子丼」

「やった。決まり」

「でも、玉ねぎ切るのは恒一ね」

「なんでだよ」

「私、泣いちゃうから」

「弱すぎだろ」

「うるさい」


部屋のドアを開けると、閉め切っていたもわっとした空気が迎えてくれた。

「暑っ」

「換気してなかったな」

すぐに窓を開ける。心地よい夜風が通り抜けていく。

冷蔵庫に買ったものを詰め込む途中で、文香の手が止まり、小さく笑った。

「何笑ってんだよ」

「いや」

冷蔵庫の奥に、プリンが二つ並んでいた。恒一が昨日、会社帰りに買ってきたものだ。しかも、文香が好きな、昔ながらの固めのプリン。

「また買ってる」

「……好きだろ」

「まあ、好きだけど」

「知ってる」


そういう小さな「知っている」が増えていく。

相手の好きな味がわかる。疲れている顔がわかる。沈黙の意味がわかる。

それはきっと、“他人”が“家族”という曖昧なものに変わっていく途中の、確かな手触りだった。


夕飯の支度をしながら、トントントンと軽快な音を立てて恒一が言う。

「今日、美優さんからLINEきたぞ」

「なんて?」

「『ちゃんと同居続いてる?』ってさ」

文香は思わず吹き出した。

「心配されすぎでしょ」

「まあ、俺たちの最初を思えばな」

「たしかに」


玉ねぎを切る恒一の横顔を盗み見ながら、文香はしみじみと思う。

最初、自分たちは「合理的だから」という理由だけで結婚を選んだ。家賃の折半、税金の控除、世間体、将来へのリスクヘッジ。

でも今はもう、そんな計算式だけでは説明がつかない。


「ねえ」

「ん?」

「私たち、ちょっと変わったよね」

恒一は包丁を止めた。

「……変わったな」

「前はさ、会う予定までアプリでガチガチに管理してたのに」

「あったなあ、あの家族アプリ。今どこにあるんだろ」

「通知がうるさくて、私、とっくに消した」

「おい」

二人で顔を見合わせて笑う。

フライパンから醤油と出汁の香ばしい匂いが立ち上り、狭いキッチンを満たしていく。互いの肩が自然とぶつかる距離。かつての自分なら間違いなくストレスを感じていたはずの狭さが、今は少しも嫌じゃなかった。


夕飯を食べ終えたあと、二人は小さなソファに並んで座った。

必然的に距離が近くなる。テレビの旅番組では、どこかの温泉街が映し出されていた。

「ここ、行きたいな」と文香が呟く。

「温泉?」

「うん」

「いいな、美味いもん食いたい」

「休み取れる?」

「……頑張れば」

「頑張って」

「圧が強いって」

狭いリビングに笑い声が広がる。窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。

文香はそっと、恒一の肩に頭をもたれかける。恒一もごく自然に、その重みを受け止めるように肩を寄せた。伝わってくるぬくもりに、文香は静かに目を閉じる。


結婚の意味なんて、たぶん今でも全部はわからない。一緒に住んだからといって、人生の問題がすべて消えてなくなるわけでもない。疲れる日も、イライラする日も、一人になりたい夜だってある。


だけど。

誰かと生きることで、自分一人では決して気づけなかった歪な部分を知っていく。自分の弱さも、頑固さも、そして、誰かを愛おしいと思う優しさも。

そうやって少しずつ削られて、少しずつ磨かれていくのだ。


「ねえ」

恒一がぽつりと言った。

「ん?」

「実家なら、月五万ですむのに」

文香は目を開け、思わず笑ってしまった。

「それ、昔の私の台詞じゃない」

「でも、今ならあの時の意味がわかる気がする」

「どういう意味?」

恒一は少しだけ考えてから、愛おしそうに文香を見て笑った。

「帰りたくなる場所って、維持費が高いんだなって」


文香は何も言えなかった。ただ、胸の奥がじんわりと熱くなって、静かに微笑み返す。


部屋は狭い。家賃だって安くない。決して、何もかもが完璧な暮らしではない。

それでも、ここには「おかえり」を告げる相手がいて、「ただいま」を待つ時間がある。


その愛おしくも不完全な温かさの中で、二人は今日も少しずつ、本物の“夫婦”になっていく。



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― 新着の感想 ―
なんだか素敵なお話でした。 実家なら5万で済むのに。でも、最後の帰りたくなる場所の維持費が高いと言う言葉が、なんだか胸に染み入るような気がしました。 帰りたくなる場所、作ることができて良かったです。 …
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