第4話 体調不良の距離
第4話 体調不良の距離
そのLINEが来たのは、火曜の夜十一時過ぎだった。
文香は経理資料をノートパソコンで確認しながら、ベッドに座っていた。部屋にはエアコンの低い音が流れ、机の上では飲みかけの麦茶の氷が溶けている。
スマホが震えた。
『熱出た』
短い一文。
文香は眉をひそめた。
『何度?』
少しして返信。
『38.7』
『え、大丈夫?』
『たぶん風邪』
そのあと、既読が止まる。
文香はスマホを握ったまま、時計を見た。
十一時十分。
恒一の部屋までは電車で四十分以上かかる。もう終電も近い。
行こうと思えば行ける。
でも、今から行ってどうするんだろう。
泊まる?
明日仕事なのに?
頭の中で現実的な計算が始まる。
着替え。終電。睡眠時間。明日の会議。
そうしているうちに、また通知が来た。
『ごめん、もう寝る』
『ポカリ飲んで』
『ある』
『薬は?』
『飲んだ』
『ちゃんと病院行ってね』
『うん』
そこでやり取りは終わった。
文香はスマホを見つめたまま、ため息をつく。
行くべきだったんだろうか。
でも、夫婦だからって、深夜に駆けつけなきゃいけない決まりはない。
別居婚なんだから。
そういう距離感を選んだのは、自分たちだ。
文香はパソコンを閉じた。
静かになった部屋の中で、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。
ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。
翌朝。
満員電車の中で、文香はスマホを見た。
『熱下がった?』
既読はつかない。
人の熱気で車内は蒸し暑かった。スーツの擦れる匂い。整髪料。香水。誰かのイヤホンから音漏れしている電子音。
文香は吊革を握りながら、なんとなく落ち着かなかった。
会社に着いても、気になって何度もスマホを確認してしまう。
十時過ぎ、ようやく返信が来た。
『まだ38ある』
『病院は?』
『午後行く』
『ちゃんと食べてる?』
『ゼリーだけ』
文香は眉間を押さえた。
昼休み。
社員食堂でうどんをすすりながら、美優に愚痴をこぼす。
「恒一が熱出したんだよね」
「あら大丈夫?」
「まだ高いみたい」
「え、じゃあ今日行くの?」
文香は少し黙った。
「……仕事終わったら」
美優が怪訝そうな顔をする。
「昨日は?」
「LINEしてた」
「それだけ?」
「うん」
「ええ……」
美優は箸を止めた。
「いや、行きなよ」
「でも終電近かったし」
「夫でしょ?」
その言葉に、文香は少しだけ詰まる。
「別居だし……」
「別居でも夫婦じゃん」
周囲では社員たちが笑いながら定食を食べている。味噌汁の匂い。トレーのぶつかる音。
文香はうどんを混ぜた。
「なんか、距離感わかんなくて」
「距離感?」
「どこまで踏み込んでいいのか」
美優は呆れたように笑った。
「付き合って六年でそれ?」
「だって一人の時間大事だし」
「熱出してるときくらい、一人じゃないほうがよくない?」
文香は返事ができなかった。
夕方。
仕事を終えると、文香は駅前のドラッグストアに寄った。
スポーツドリンク。ゼリー。解熱シート。レトルトのお粥。
買い物かごを持ちながら、自分でも不思議な気持ちになる。
こんなふうに誰かのために買い物するの、久しぶりだった。
レジ袋を提げて電車に乗る。
窓の外は雨だった。
濡れた街の光がぼやけて流れていく。
恒一の最寄り駅に着いた頃には、シャツの裾が少し湿っていた。
アパートは駅から十分ほど歩く。
古い三階建て。外廊下。郵便受けにはチラシが溢れている。
文香は部屋番号を確認して、インターホンを押した。
返事はない。
少し待って、もう一度押す。
ガチャ、と鍵が開いた。
「……文香?」
恒一が顔を出した。
ぼさぼさの髪。赤い目。熱でぼんやりした顔。
その姿を見た瞬間、文香の胸がぎゅっと縮んだ。
「うわ、顔やば」
「来たの……」
「来るでしょ普通」
言いながら、自分で少し驚く。
昨日の自分なら、たぶん言わなかった。
部屋に入ると、熱気がこもっていた。
カーテンは閉まりっぱなし。コンビニの空き容器が机に置かれている。加湿器の湿った匂い。
「ちゃんと換気してる?」
「寒いから閉めてた……」
「だめでしょ」
文香は窓を少し開けた。
雨の匂いを含んだ風が入ってくる。
「薬飲んだ?」
「飲んだ」
「ご飯は?」
「ゼリー……」
「それしか食べてないの?」
恒一は子どもみたいな顔で頷いた。
文香はため息をつき、買ってきた袋を机に置く。
「お粥あるから食べなよ」
「ありがとう……」
電子レンジが回る音がする。
狭いワンルーム。
ベッドと机と小さな棚だけ。
改めて見ると、本当に一人暮らし用の部屋だった。
ここに自分の居場所はない。
それなのに。
恒一が苦しそうに咳をするたび、胸がざわつく。
「熱測った?」
「さっきはかった」
「何度?」
「39.1」
「上がってるじゃん!」
文香は思わず声を上げた。
恒一は少し笑う。
「そんな怒んなくても」
「怒ってない」
「怒ってる顔」
「心配してるの」
その瞬間、恒一が少しだけ目を丸くした。
それから、熱でぼんやりした声で言った。
「……そっか」
レンジが鳴る。
温かいお粥の匂いが広がった。
文香は器を持って、ベッド脇に座る。
「はい」
「ん」
「食べられる?」
「たぶん」
弱々しくスプーンを持つ姿を見て、文香は妙な気持ちになった。
金曜に会う恒一は、いつもちゃんとしていた。
映画を選んで、店を予約して、笑っている人。
でも今目の前にいるのは、熱でふらふらになっている普通の人間だった。
「……夫婦なのに、何やってるんだろ」
思わず口から漏れた。
恒一が顔を上げる。
「え?」
「昨日、LINEしかしてなかった」
「いや、しょうがないじゃん」
「でも」
文香は言葉に詰まる。
合理的。
距離感。
一人の時間。
そういうルールを大事にしてきたはずなのに。
今はただ、昨日ここに来なかったことを後悔していた。
恒一は少し黙ってから、小さく笑った。
「でも来てくれたじゃん」
熱で掠れた声だった。
「……うん」
窓の外では、雨が静かに降っている。
ワンルームの狭い部屋に、湯気の匂いと、微かな安心感が満ちていた。




