表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/11

第4話 体調不良の距離

第4話 体調不良の距離


そのLINEが来たのは、火曜の夜十一時過ぎだった。


文香は経理資料をノートパソコンで確認しながら、ベッドに座っていた。部屋にはエアコンの低い音が流れ、机の上では飲みかけの麦茶の氷が溶けている。


スマホが震えた。


『熱出た』


短い一文。


文香は眉をひそめた。


『何度?』


少しして返信。


『38.7』


『え、大丈夫?』


『たぶん風邪』


そのあと、既読が止まる。


文香はスマホを握ったまま、時計を見た。


十一時十分。


恒一の部屋までは電車で四十分以上かかる。もう終電も近い。


行こうと思えば行ける。


でも、今から行ってどうするんだろう。


泊まる?


明日仕事なのに?


頭の中で現実的な計算が始まる。


着替え。終電。睡眠時間。明日の会議。


そうしているうちに、また通知が来た。


『ごめん、もう寝る』


『ポカリ飲んで』


『ある』


『薬は?』


『飲んだ』


『ちゃんと病院行ってね』


『うん』


そこでやり取りは終わった。


文香はスマホを見つめたまま、ため息をつく。


行くべきだったんだろうか。


でも、夫婦だからって、深夜に駆けつけなきゃいけない決まりはない。


別居婚なんだから。


そういう距離感を選んだのは、自分たちだ。


文香はパソコンを閉じた。


静かになった部屋の中で、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。


ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。


翌朝。


満員電車の中で、文香はスマホを見た。


『熱下がった?』


既読はつかない。


人の熱気で車内は蒸し暑かった。スーツの擦れる匂い。整髪料。香水。誰かのイヤホンから音漏れしている電子音。


文香は吊革を握りながら、なんとなく落ち着かなかった。


会社に着いても、気になって何度もスマホを確認してしまう。


十時過ぎ、ようやく返信が来た。


『まだ38ある』


『病院は?』


『午後行く』


『ちゃんと食べてる?』


『ゼリーだけ』


文香は眉間を押さえた。


昼休み。


社員食堂でうどんをすすりながら、美優に愚痴をこぼす。


「恒一が熱出したんだよね」


「あら大丈夫?」


「まだ高いみたい」


「え、じゃあ今日行くの?」


文香は少し黙った。


「……仕事終わったら」


美優が怪訝そうな顔をする。


「昨日は?」


「LINEしてた」


「それだけ?」


「うん」


「ええ……」


美優は箸を止めた。


「いや、行きなよ」


「でも終電近かったし」


「夫でしょ?」


その言葉に、文香は少しだけ詰まる。


「別居だし……」


「別居でも夫婦じゃん」


周囲では社員たちが笑いながら定食を食べている。味噌汁の匂い。トレーのぶつかる音。


文香はうどんを混ぜた。


「なんか、距離感わかんなくて」


「距離感?」


「どこまで踏み込んでいいのか」


美優は呆れたように笑った。


「付き合って六年でそれ?」


「だって一人の時間大事だし」


「熱出してるときくらい、一人じゃないほうがよくない?」


文香は返事ができなかった。


夕方。


仕事を終えると、文香は駅前のドラッグストアに寄った。


スポーツドリンク。ゼリー。解熱シート。レトルトのお粥。


買い物かごを持ちながら、自分でも不思議な気持ちになる。


こんなふうに誰かのために買い物するの、久しぶりだった。


レジ袋を提げて電車に乗る。


窓の外は雨だった。


濡れた街の光がぼやけて流れていく。


恒一の最寄り駅に着いた頃には、シャツの裾が少し湿っていた。


アパートは駅から十分ほど歩く。


古い三階建て。外廊下。郵便受けにはチラシが溢れている。


文香は部屋番号を確認して、インターホンを押した。


返事はない。


少し待って、もう一度押す。


ガチャ、と鍵が開いた。


「……文香?」


恒一が顔を出した。


ぼさぼさの髪。赤い目。熱でぼんやりした顔。


その姿を見た瞬間、文香の胸がぎゅっと縮んだ。


「うわ、顔やば」


「来たの……」


「来るでしょ普通」


言いながら、自分で少し驚く。


昨日の自分なら、たぶん言わなかった。


部屋に入ると、熱気がこもっていた。


カーテンは閉まりっぱなし。コンビニの空き容器が机に置かれている。加湿器の湿った匂い。


「ちゃんと換気してる?」


「寒いから閉めてた……」


「だめでしょ」


文香は窓を少し開けた。


雨の匂いを含んだ風が入ってくる。


「薬飲んだ?」


「飲んだ」


「ご飯は?」


「ゼリー……」


「それしか食べてないの?」


恒一は子どもみたいな顔で頷いた。


文香はため息をつき、買ってきた袋を机に置く。


「お粥あるから食べなよ」


「ありがとう……」


電子レンジが回る音がする。


狭いワンルーム。


ベッドと机と小さな棚だけ。


改めて見ると、本当に一人暮らし用の部屋だった。


ここに自分の居場所はない。


それなのに。


恒一が苦しそうに咳をするたび、胸がざわつく。


「熱測った?」


「さっきはかった」


「何度?」


「39.1」


「上がってるじゃん!」


文香は思わず声を上げた。


恒一は少し笑う。


「そんな怒んなくても」


「怒ってない」


「怒ってる顔」


「心配してるの」


その瞬間、恒一が少しだけ目を丸くした。


それから、熱でぼんやりした声で言った。


「……そっか」


レンジが鳴る。


温かいお粥の匂いが広がった。


文香は器を持って、ベッド脇に座る。


「はい」


「ん」


「食べられる?」


「たぶん」


弱々しくスプーンを持つ姿を見て、文香は妙な気持ちになった。


金曜に会う恒一は、いつもちゃんとしていた。


映画を選んで、店を予約して、笑っている人。


でも今目の前にいるのは、熱でふらふらになっている普通の人間だった。


「……夫婦なのに、何やってるんだろ」


思わず口から漏れた。


恒一が顔を上げる。


「え?」


「昨日、LINEしかしてなかった」


「いや、しょうがないじゃん」


「でも」


文香は言葉に詰まる。


合理的。


距離感。


一人の時間。


そういうルールを大事にしてきたはずなのに。


今はただ、昨日ここに来なかったことを後悔していた。


恒一は少し黙ってから、小さく笑った。


「でも来てくれたじゃん」


熱で掠れた声だった。


「……うん」


窓の外では、雨が静かに降っている。


ワンルームの狭い部屋に、湯気の匂いと、微かな安心感が満ちていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ