第3話 週二回の夫婦
第3話 週二回の夫婦
金曜の夜になると、文香は少しだけ機嫌がよくなる。
会社のパソコンを閉じる音。周囲の「お疲れ様です」が飛び交う空気。エレベーターへ向かう人波。その全部が、平日終了の合図みたいだった。
スマホが震える。
『駅着いた』
恒一からだ。
文香は口元を少し緩めながら返信する。
『五分』
地下鉄を出ると、夜風が湿っていた。駅前には居酒屋の呼び込みの声が響き、焼き鳥の煙が漂っている。金曜特有の浮ついた匂いだった。
ロータリー脇の街灯の下に、恒一が立っている。
白シャツの袖を少しまくって、スマホを見ていた。
文香に気づくと、小さく手を上げる。
「お疲れ」
「お疲れ」
自然に並んで歩き出す。
それだけで、なんとなく一週間が終わった気がした。
「映画、十九時からだっけ?」
「うん。まだ時間ある」
「じゃあ先にご飯?」
「そうしよ」
駅ビルのレストランフロアは混んでいた。肉の焼ける匂い。ガラス皿のぶつかる音。笑い声。
「何食べたい?」
「和食」
「珍しい」
「今週ずっとコンビニだった」
「あー……」
結局、定食屋に入った。
炊きたての米の匂いがする。出汁の香りが妙に落ち着いた。
席についてすぐ、文香は水を飲み干した。
「生き返る……」
「そんなに忙しかった?」
「月末処理」
「地獄じゃん」
「地獄だった」
恒一が笑う。
その笑い方を見ると、文香は少し安心する。
恋愛のドキドキとは違う。
でも、一緒にいて疲れない。
それが心地よかった。
料理を待つ間、隣の席のカップルがケンカを始めた。
「だから私は前から言ってたじゃん」
「でも仕事だったんだから仕方ないだろ」
気まずい空気が漂う。
文香はそっと視線を逸らした。
恒一が小声で言う。
「同棲すると、ああいうの増えるのかな」
「増えそう」
「やだな」
「わかる」
二人は顔を見合わせて笑った。
料理が運ばれてくる。
焼き魚の皮がぱちぱち音を立て、湯気の向こうで味噌汁が揺れていた。
「ちゃんとしたご飯って感じ」
「金曜感あるよね」
「ある」
文香は箸を持ちながら、ふと思う。
自分たちは、たぶん夫婦っぽくない。
でもその代わり、ずっと機嫌よくいられる。
一緒に住んでいた頃の元彼とは違った。
帰宅時間で揉めることもない。洗濯物の干し方でイライラすることもない。トイレットペーパーを替えないことに腹を立てることもない。
会いたいときだけ会う。
疲れている日は一人で休む。
それでうまくいっている。
映画館を出る頃には、夜風が少し涼しくなっていた。
「結構面白かったね」
「後半ちょっと泣きそうだった」
「え、どこで?」
「犬死ぬとこ」
「そこ!?」
「だって可哀想じゃん」
「人間じゃなくて犬なんだ」
「犬はダメ」
恒一が笑いながら歩く。
映画館のネオンが濡れた道路に映っていた。
そのあと二人は、駅前のビジネスホテルへ向かった。
金曜だけ会う。
そして月に何回か、そのまま泊まる。
まるで恋人同士みたいな関係だった。
ホテルの部屋は狭いけれど綺麗だった。冷房の匂い。真っ白なシーツ。ユニットバス独特の洗剤の香り。
「暑……」
文香はベッドに倒れ込む。
「風呂先入る?」
「うーん、あとで」
恒一はコンビニ袋から缶チューハイを出した。
「飲む?」
「飲む」
プシュ、と音がする。
炭酸の匂いが広がった。
テレビでは音量を絞ったバラエティ番組が流れている。
文香はぼんやり天井を見上げた。
こういう時間は、嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
一緒に住むより、ずっと楽で、ずっと優しい。
翌日。
文香は大学時代の友人、美優とカフェにいた。
休日の店内は混んでいて、コーヒー豆の匂いと甘いパンケーキの香りが混ざっている。
「で?」
美優がストローを咥えたまま言った。
「昨日はデート?」
「まあ、そう」
「映画?」
「うん」
「いいじゃん新婚」
文香はアイスカフェラテを飲んだ。
冷たいミルクの甘さが口に広がる。
「でもさ」
美優が身を乗り出す。
「ほんとに別々に住んでんの?」
「住んでるよ」
「意味わかんな」
「合理的だよ」
「またそれ」
美優は呆れたように笑った。
「家賃浮くし、通勤変わらないし、家事ストレスないし」
「でも夫婦じゃん」
「だから?」
「普通、一緒に暮らしたくならない?」
文香は少し考えた。
なりたいと思ったことがないわけじゃない。
でも、一緒に暮らすと関係が壊れる気がして怖かった。
距離が近すぎると、他人は雑になる。
それを知っている。
「今のほうが仲いいんだよね」
文香が言うと、美優は眉を上げた。
「まあ、そりゃそうかもだけど」
「会うときだけ会うから楽しいし」
「それ」
「ん?」
「夫婦っていうより、デート相手じゃない?」
文香は、一瞬言葉に詰まった。
周囲の笑い声が遠く聞こえる。
窓際では小さな子どもがジュースをこぼして泣いていた。
「……そうかな」
「だって生活してないじゃん」
「でも結婚してるよ」
「戸籍だけでしょ?」
美優は悪気なく言った。
「なんか不思議。恋人の延長って感じ」
文香は曖昧に笑った。
その日の夜。
実家の自室で、文香はベッドに寝転がっていた。
エアコンの音だけが静かに響いている。
スマホには恒一からメッセージ。
『今日は楽しかった』
文香は少し迷ってから返信する。
『私も』
すぐ既読がついた。
『来週どこ行く?』
その文字を見ながら、文香は昼間の美優の言葉を思い出した。
――夫婦っていうより、デート相手じゃない?
違う、とすぐには否定できなかった。
一緒に住んでいない。
生活も共有していない。
楽しい時間だけ切り取って会っている。
それって、本当に夫婦なんだろうか。
文香はスマホを胸に乗せた。
カーテンの隙間から、遠くのマンションの灯りが見える。
誰かが帰宅して、誰かがお風呂を沸かして、誰かが「おかえり」と言っている時間。
その光景を想像してみる。
でも、自分がそこにいる姿は、まだうまく浮かばなかった。
スマホがまた震える。
『文香?』
『どうしたの』
『いや、返信止まったから』
文香は少しだけ笑った。
『なんでもない』
『そっか』
少し迷ってから、文香は送る。
『ねえ』
『ん?』
『私たちって夫婦っぽい?』
既読がつくまで、少し時間があった。
それから。
『わかんない』
文香は吹き出した。
『なにそれ』
『でも一緒にいると安心する』
その短い一文が、胸に静かに残った。




