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第2話 夫婦なのに住所が違う

第2話 夫婦なのに住所が違う


「高瀬さん、結婚したんだって?」


月曜の朝、給湯室でコーヒーを入れていた文香は、振り返った。


経理部の先輩、篠田がマグカップを片手に立っている。湯気と一緒にインスタントコーヒーの甘ったるい香りが漂った。


「あ、はい」


「おめでとう」


「ありがとうございます」


文香は軽く頭を下げた。こういう会話、今日だけで何回目だろう。


朝イチで総務に書類を提出したせいで、結婚したことが部署中に広まってしまったのだ。


「で? 新居どこ?」


その質問に、文香は少しだけ間を置いた。


「……別居なんです」


「え?」


篠田の目が丸くなる。


「別居?」


「はい。今まで通り別々に住んでます」


「なんで?」


「えっと、合理的なので」


「合理的?」


声が大きくなったせいで、周囲の女性社員たちがちらちらこちらを見る。


文香はなんとなく居心地が悪くなった。


「その、通勤とか、家賃とか……色々効率がよくて」


「いやいやいや」


篠田が笑う。


「新婚で別居って聞いたことないって」


「でも最近多いみたいですよ」


「そうなの?」


「週末婚とか」


「へえ……」


納得していない顔だった。


そのとき、後ろから若い男性社員が割り込んできた。


「え、マジですか高瀬さん」


「……はい」


「仲悪いんですか?」


「違います」


「じゃあなんで結婚したんです?」


悪気のない顔だった。


だから余計に返しづらい。


文香は曖昧に笑った。


「なんでって……好きだから?」


「でも一緒に住まないんですよね?」


「まあ……」


「それ意味あるんですか?」


文香は一瞬、言葉に詰まった。


意味。


結婚の意味。


考えたことはある。でも、明確な答えは持っていなかった。


困っていると、篠田が「やめなさいよ」と笑いながら割って入った。


「人それぞれなんだから」


「すみません。でも気になるじゃないですか」


「まあ、わかるけど」


給湯器がごぼごぼと音を立てる。蛍光灯の白い光がステンレスに反射して眩しかった。


文香は紙コップを持ち上げた。


少し冷めたコーヒーが苦い。


「でもまあ」


文香は努めて明るく言った。


「都内で同居って、お金かかりますし」


「それはそうだけど」


「実家なら五万ですむので」


その瞬間、篠田が吹き出した。


「出た」


「え?」


「高瀬さん、その台詞好きだねえ」


「だって本当なんですよ。食費込み、光熱費込み、駅近」


「コスパで結婚語る人初めて見た」


周囲も笑った。


笑いに変わったことで、文香は少しだけほっとした。


その日の昼休み。


社員食堂で定食を食べていると、スマホが震えた。


恒一からだった。


『会社で結婚報告した』


文香はすぐ返信する。


『どうだった?』


数秒後。


『めちゃくちゃ引かれた』


思わず笑ってしまう。


『こっちも』


『「なんで結婚したの?」って聞かれた』


『うわ、一緒』


『そっちはなんて答えた?』


文香は少し考えた。


『合理的だから』


すぐに返信が来る。


『俺も同じこと言った』


その文字を見て、文香はくすっと笑った。


離れていても、こういうところは噛み合う。


午後七時過ぎ、会社を出る。


ビル街は雨上がりで、アスファルトが濡れていた。信号待ちの人波から、汗と香水と排気ガスの匂いが混ざって流れてくる。


駅へ向かう途中、文香はふとショーウィンドウに映った自分を見た。


ベージュのブラウス。疲れた顔。左手に指輪はない。


結婚したのに、昨日と何も変わっていなかった。


電車に揺られ、最寄り駅に着く。


スーパーに寄る気力はなく、駅前のコンビニへ入った。


冷房が寒い。


おにぎりの棚の前で少し悩み、結局、鮭おにぎりとサラダ、それからグラタンを手に取った。


レジ横の肉まんの匂いがやたら美味しそうだった。


「袋どうされますかー」


「お願いします」


店員の無機質な声。


後ろでは高校生たちが笑っている。


日常だ。


昨日結婚したとは思えないくらい、普通の夜だった。


実家に帰ると、母の声が飛んできた。


「文香ー、ご飯あるわよ」


「コンビニで買っちゃった」


「あら、もったいない」


「疲れてたから」


「そう」


リビングでは父が野球中継を見ていた。


醤油の匂い。味噌汁の湯気。テレビの歓声。


安心する景色だった。


けれど、自室へ戻った瞬間、急に静かになる。


文香はコンビニ袋を机に置いた。


グラタンをレンジに入れる。


ぶうん、と低い音。


狭い部屋に電子レンジの光がぼんやり揺れる。


スマホが鳴った。


『帰宅』


恒一だった。


『お疲れ』


『そっちは?』


『今コンビニ飯』


『俺も』


その文字を見て、文香は少しだけ笑う。


『何食べるの?』


『カレー』


『重いね』


『疲れたから』


『わかる』


短いやり取り。


でも、それだけだった。


レンジが「チン」と鳴る。


熱いグラタンの匂いが広がった。


文香はベッドに座り、膝の上にコンビニ弁当を置く。


窓の外では、遠くを電車が走っていく音がした。


熱いホワイトソースを口に入れた瞬間、舌を少し火傷した。


「あつ……」


誰も笑わない。


そのことに、文香はふと気づいた。


以前、恒一と外食したとき。


同じように火傷して、


『だから急いで食べるなって』


と笑われた。


別に、寂しいわけじゃない。


一人は楽だ。


風呂の順番も気にしなくていい。好きなタイミングで寝られる。部屋も散らからない。


同居なんて、面倒だ。


そう思っている。


ちゃんと。


思っている、はずなのに。


文香はスマホを見た。


『電話する?』


自分でも驚くくらい自然に打っていた。


数秒後。


『する』


すぐ着信が来る。


「もしもし」


『もしもし』


いつもの声だった。


それだけで、少し安心する。


『グラタン?』


「なんでわかったの」


『レンジの音した』


「あー」


文香は笑った。


電話越しに、恒一の部屋の生活音が聞こえる。蛇口の音。食器が触れる音。テレビの小さな音。


別々の場所にいるのに、不思議と距離が近い。


『ねえ』


「ん?」


『俺たち、変かな』


文香は少し考えた。


窓ガラスに、自分の顔がぼんやり映る。


「……変かもね」


『だよな』


「でも合理的じゃない?」


恒一が笑った。


『そこはブレないな』


「だって実家なら五万ですむし」


『また言ってる』


二人で笑う。


笑いながら文香は思った。


結婚の意味なんて、まだよくわからない。


でも。


こうして、一番最初に話したい相手がいることだけは、少し特別なのかもしれなかった。



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