表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/11

第1話 戸籍だけ入れましたw

第1話 戸籍だけ入れましたw


区役所を出た瞬間、文香は思わず目を細めた。六月の湿った風が頬にまとわりつく。駅前のロータリーではバスが低い音を響かせ、焼きたてのメロンパンの甘い匂いがどこからか流れてきていた。


「……終わったね」


隣で恒一が言った。


「うん」


文香はクリアファイルを抱え直した。中には、さっき受理されたばかりの婚姻届の控えが入っている。紙一枚。たったそれだけで、自分たちは夫婦になったらしい。


けれど、特別な実感はなかった。


指輪もない。新居もない。今日の夜だって、二人は別々の場所に帰る。


「お腹すかない?」


「すいた。ていうか疲れた」


「だよね」


駅前のファミレスに入ると、冷房の風が汗ばんだ腕を撫でた。油とコーヒーとハンバーグソースの匂い。学生グループの笑い声。平日の午後らしい気怠い空気。


窓際の席に座ると、恒一がメニューを開いた。


「どうする?」


「ランチまだあるかな」


「ギリある」


「じゃあドリンクバーつける」


「俺も」


店員が水を置いていく。氷の鳴る音が妙に大きく聞こえた。


文香はテーブルに肘をつき、クリアファイルを眺めた。


『婚姻届受理証明』


黒い文字を見ていると、じわじわ可笑しくなってくる。


「なんかさ」


「ん?」


「役所って、思ったより流れ作業なんだね」


恒一が笑った。


「わかる。もっと厳かな感じかと思った」


「ね。『次の方どうぞー』で夫婦になっちゃった」


「免許更新みたいだった」


文香は吹き出した。


ドリンクバーの機械が唸る音。隣席で小さな子どもがポテトを落として泣き出す声。そんな生活音の中に、自分たちの結婚も普通に混ざっていた。


しばらくして料理が来る。鉄板の上でハンバーグソースがじゅうじゅう弾け、湯気と一緒に胡椒の香りが立ちのぼった。


「熱っ」


文香は舌を押さえた。


「猫舌なのに急ぐから」


「お腹すいてたんだもん」


恒一はナイフで丁寧にハンバーグを切りながら、ふっと視線を上げた。


「……でも本当に借りなくてよかったの?」


「何が?」


「新居」


文香は即答した。


「だって高いじゃん」


「まあ、それはそう」


「都内2LDKとか普通に二十万近いし。無理無理」


「だよなあ」


「しかも通勤遠くなるし。家事増えるし」


言いながら、文香は紙ナプキンで口元を拭いた。


「実家なら五万ですむし」


恒一が小さく笑う。


「また言ってる」


「だって事実だもん。ご飯出るし、光熱費込みだし、駅近だし」


「コスパ最強」


「そう。最強」


二人は顔を見合わせて笑った。


それで十分だと思っていた。


学生時代から付き合って六年。お互い仕事は忙しいし、一人の時間も必要だった。恋愛感情はちゃんとある。でも、だからって無理に同居しなくてもいいじゃないか。


むしろ、離れているからうまくいくこともある。


文香は過去の同棲を思い出した。


元彼はなんでも「一緒なんだから」で済ませる男だった。勝手に冷蔵庫を開けられること。休日に無断で友達を呼ばれること。気づけば家事のほとんどを自分がやっていたこと。


『恋人なんだから普通でしょ?』


あの言葉が嫌だった。


普通ってなんだろう。


どうして一緒に住んだ瞬間、境界線が曖昧になるんだろう。


「文香?」


「え?」


「ぼーっとしてた」


「あー、ごめん」


恒一は水を飲みながら言った。


「でも、俺たちには今の形が合ってると思う」


「だよね」


「無理に世間に合わせても疲れるし」


「ほんとそれ」


文香は少し安心した。


恒一は押しつけない。干渉しすぎない。だから一緒にいて楽だった。


店の窓の外では、会社員たちが足早に横断歩道を渡っていく。空はどんより曇り始めていた。


文香はふと思いついて言った。


「そういえばさ」


「ん?」


「今日って、結婚記念日になるんだよね」


「あ」


恒一が少しだけ目を丸くした。


「たしかに」


「毎年なんかする?」


「どうする?」


「うーん……」


文香は少し考えてから笑った。


「サイゼでいいかも」


「安上がりだなあ」


「大事だよコスパ」


「夫婦初日の発言じゃない」


「でも恒一もそう思ってるでしょ?」


「否定はできない」


また笑う。


その瞬間、文香は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


恋愛のドキドキとは違う。


もっと静かで、ゆるくて、安心する温度。


食事を終え、会計伝票を見た恒一が言う。


「千八百六十円」


「じゃあ九百三十円ね」


「PayPay送っといて」


「了解」


あまりにも自然だった。


レジ横では、小さな花束を抱えた若い夫婦が記念写真を撮っていた。白いワンピースの女の子が幸せそうに笑っている。


文香はそれを横目で見た。


羨ましいとは思わなかった。


たぶん自分たちは、ああいう感じではない。


でも、それでいい。


店を出ると、ぽつりと雨が落ちてきた。


「あ」


恒一が空を見上げる。


「降るなこれ」


「傘ある?」


「折りたたみなら」


「入れて」


「いいよ」


黒い傘の下に並ぶと、思ったより距離が近かった。湿ったシャツの匂い。柔軟剤の匂い。肩が軽く触れる。


駅前の信号が赤く滲む。


「じゃあ、文香はこっち?」


「うん」


改札前で立ち止まる。


これから夫婦なのに、別々の電車に乗る。


少しだけ変な感じだった。


「……なんか、実感ないね」


文香が言うと、恒一も笑った。


「うん」


雨の音が強くなる。


恒一は少しだけ迷うような顔をして、それから静かに言った。


「でもまあ」


「?」


「これから少しずつ、夫婦になるんじゃない?」


文香は返事ができなかった。


ただ、胸の奥が小さく揺れた気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ