第1話 戸籍だけ入れましたw
第1話 戸籍だけ入れましたw
区役所を出た瞬間、文香は思わず目を細めた。六月の湿った風が頬にまとわりつく。駅前のロータリーではバスが低い音を響かせ、焼きたてのメロンパンの甘い匂いがどこからか流れてきていた。
「……終わったね」
隣で恒一が言った。
「うん」
文香はクリアファイルを抱え直した。中には、さっき受理されたばかりの婚姻届の控えが入っている。紙一枚。たったそれだけで、自分たちは夫婦になったらしい。
けれど、特別な実感はなかった。
指輪もない。新居もない。今日の夜だって、二人は別々の場所に帰る。
「お腹すかない?」
「すいた。ていうか疲れた」
「だよね」
駅前のファミレスに入ると、冷房の風が汗ばんだ腕を撫でた。油とコーヒーとハンバーグソースの匂い。学生グループの笑い声。平日の午後らしい気怠い空気。
窓際の席に座ると、恒一がメニューを開いた。
「どうする?」
「ランチまだあるかな」
「ギリある」
「じゃあドリンクバーつける」
「俺も」
店員が水を置いていく。氷の鳴る音が妙に大きく聞こえた。
文香はテーブルに肘をつき、クリアファイルを眺めた。
『婚姻届受理証明』
黒い文字を見ていると、じわじわ可笑しくなってくる。
「なんかさ」
「ん?」
「役所って、思ったより流れ作業なんだね」
恒一が笑った。
「わかる。もっと厳かな感じかと思った」
「ね。『次の方どうぞー』で夫婦になっちゃった」
「免許更新みたいだった」
文香は吹き出した。
ドリンクバーの機械が唸る音。隣席で小さな子どもがポテトを落として泣き出す声。そんな生活音の中に、自分たちの結婚も普通に混ざっていた。
しばらくして料理が来る。鉄板の上でハンバーグソースがじゅうじゅう弾け、湯気と一緒に胡椒の香りが立ちのぼった。
「熱っ」
文香は舌を押さえた。
「猫舌なのに急ぐから」
「お腹すいてたんだもん」
恒一はナイフで丁寧にハンバーグを切りながら、ふっと視線を上げた。
「……でも本当に借りなくてよかったの?」
「何が?」
「新居」
文香は即答した。
「だって高いじゃん」
「まあ、それはそう」
「都内2LDKとか普通に二十万近いし。無理無理」
「だよなあ」
「しかも通勤遠くなるし。家事増えるし」
言いながら、文香は紙ナプキンで口元を拭いた。
「実家なら五万ですむし」
恒一が小さく笑う。
「また言ってる」
「だって事実だもん。ご飯出るし、光熱費込みだし、駅近だし」
「コスパ最強」
「そう。最強」
二人は顔を見合わせて笑った。
それで十分だと思っていた。
学生時代から付き合って六年。お互い仕事は忙しいし、一人の時間も必要だった。恋愛感情はちゃんとある。でも、だからって無理に同居しなくてもいいじゃないか。
むしろ、離れているからうまくいくこともある。
文香は過去の同棲を思い出した。
元彼はなんでも「一緒なんだから」で済ませる男だった。勝手に冷蔵庫を開けられること。休日に無断で友達を呼ばれること。気づけば家事のほとんどを自分がやっていたこと。
『恋人なんだから普通でしょ?』
あの言葉が嫌だった。
普通ってなんだろう。
どうして一緒に住んだ瞬間、境界線が曖昧になるんだろう。
「文香?」
「え?」
「ぼーっとしてた」
「あー、ごめん」
恒一は水を飲みながら言った。
「でも、俺たちには今の形が合ってると思う」
「だよね」
「無理に世間に合わせても疲れるし」
「ほんとそれ」
文香は少し安心した。
恒一は押しつけない。干渉しすぎない。だから一緒にいて楽だった。
店の窓の外では、会社員たちが足早に横断歩道を渡っていく。空はどんより曇り始めていた。
文香はふと思いついて言った。
「そういえばさ」
「ん?」
「今日って、結婚記念日になるんだよね」
「あ」
恒一が少しだけ目を丸くした。
「たしかに」
「毎年なんかする?」
「どうする?」
「うーん……」
文香は少し考えてから笑った。
「サイゼでいいかも」
「安上がりだなあ」
「大事だよコスパ」
「夫婦初日の発言じゃない」
「でも恒一もそう思ってるでしょ?」
「否定はできない」
また笑う。
その瞬間、文香は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
恋愛のドキドキとは違う。
もっと静かで、ゆるくて、安心する温度。
食事を終え、会計伝票を見た恒一が言う。
「千八百六十円」
「じゃあ九百三十円ね」
「PayPay送っといて」
「了解」
あまりにも自然だった。
レジ横では、小さな花束を抱えた若い夫婦が記念写真を撮っていた。白いワンピースの女の子が幸せそうに笑っている。
文香はそれを横目で見た。
羨ましいとは思わなかった。
たぶん自分たちは、ああいう感じではない。
でも、それでいい。
店を出ると、ぽつりと雨が落ちてきた。
「あ」
恒一が空を見上げる。
「降るなこれ」
「傘ある?」
「折りたたみなら」
「入れて」
「いいよ」
黒い傘の下に並ぶと、思ったより距離が近かった。湿ったシャツの匂い。柔軟剤の匂い。肩が軽く触れる。
駅前の信号が赤く滲む。
「じゃあ、文香はこっち?」
「うん」
改札前で立ち止まる。
これから夫婦なのに、別々の電車に乗る。
少しだけ変な感じだった。
「……なんか、実感ないね」
文香が言うと、恒一も笑った。
「うん」
雨の音が強くなる。
恒一は少しだけ迷うような顔をして、それから静かに言った。
「でもまあ」
「?」
「これから少しずつ、夫婦になるんじゃない?」
文香は返事ができなかった。
ただ、胸の奥が小さく揺れた気がした。




