第19話 戸籍だけだったはずなのに
第19話 戸籍だけだったはずなのに
月曜日の午後四時十分、文香は経理部の会議室で、送金一覧表を印刷した紙を握っていた。朝にはしわ一つなかった白いブラウスの袖口に、昼休みに食べたミートソースの小さな赤い染みがついている。空調の風は冷たいのに背中には汗がにじみ、朝から履いている黒いパンプスの中では、爪先が冷えて感覚を失いかけていた。テーブルの上には紙コップのコーヒーが置かれていたが、とっくに冷め、表面に細かい油が浮いている。
「高瀬さん、この送金先、本当に取引先の変更後口座で間違いない?」
課長の大森は、一覧表の一行を赤いペンで囲んだ。海外の部品会社へ送る予定だった三千八百万円が、現在は使われていない旧口座へ送金されている。送金先の変更を知らせるメールは一週間前に届いていたが、文香が管理している取引先台帳には反映されていなかった。
「変更の申請書は、先週の水曜日に受け取っています」
「入力したのは?」
「佐藤さんです。ただ、最終確認は私がしました」
「銀行へ組み戻しを依頼できる?」
「すぐに確認します」
文香は席へ戻ると、受話器を握った。内線、銀行、海外事業部、取引先の日本支社へ順番に電話をかけたが、送金はすでに完了していた。旧口座そのものは取引先が管理しているため金が消えたわけではないものの、社内手続きを経なければ新口座へ移せないという。今週中に正しい口座へ入金されなければ、部品の出荷が止まる可能性があった。
「高瀬さん、私が台帳を間違えたせいですよね」
隣の席に座る入社二年目の佐藤が、青いカーディガンの袖を握っていた。昼に買ったらしいおにぎりが、開封されないまま机の隅に置かれている。文香は佐藤の画面を確認し、変更後の口座番号を指でたどった。
「入力した数字は合ってる。保存するとき、別の取引先の画面を開いていたみたい」
「すみません。私、確認したつもりで」
「今は謝るより、変更申請書と操作履歴をそろえて。原因の確認はあとでするから」
「はい」
「おにぎりも食べて。倒れたら作業が増える」
佐藤は泣きそうな顔のまま、おにぎりの包装を開いた。海苔の匂いが漂い、周囲で鳴り続けるキーボードの音に、包装フィルムの乾いた音が混じった。文香の腹も鳴ったが、空腹を感じる余裕はなかった。
送金の承認画面を開いたのは文香だった。取引先名と金額だけを確認し、口座番号は台帳と一致しているから大丈夫だと判断した。台帳そのものが間違っている可能性を考えなかったのは、誰でもなく文香である。
午後七時を過ぎると、部内の半分ほどが残業に加わっていた。海外事業部は取引先へ事情を説明し、資金部は銀行と組み戻しの手続きを進め、佐藤は操作履歴を時刻順に並べた。文香は経緯報告書を作成したが、「担当者の入力ミス」と書いては消し、「承認者の確認不足」と書いても手が止まった。
「高瀬さん、今日はここまでにしよう」
大森が文香の机へ、温かい缶コーヒーを置いた。文香は報告書の時計表示を見た。午後十時二十二分になっていた。
「でも、まだ再発防止策がまとまっていません」
「原因の整理が終わっていないのに、防止策は書けないよ」
「明日の朝までに役員へ報告が必要です」
「明日、私が説明する。高瀬さんは八時までに来て、資料を確認してくれればいい」
「私が承認した送金です。最後まで私が」
「責任者は私だよ」
「でも――」
「高瀬さん一人で三千八百万円を動かしたわけじゃない。銀行も資金部も承認を通している。今夜一人で残っても、海外の銀行は営業時間外だ」
大森は文香のパソコンを閉じるよう、手のひらを下へ動かした。文香は従ったが、鞄を持つ手に力が入らなかった。佐藤は先に帰るよう言われたのに、まだ自分の席で操作履歴を読み返している。
「佐藤さんも帰ろう。続きは明日」
「でも、私のせいで」
「私の確認も足りなかった。誰のせいかを決めるために残っても、口座は変わらないよ」
「高瀬さん、明日も来てくれますか?」
「来るよ。当たり前でしょう」
佐藤は何度もうなずき、冷めたお茶のペットボトルと、食べ終えたおにぎりの包装を鞄へ入れた。文香はその仕草を見ながら、自分がいなくなったあと、佐藤まで一人で責任を抱えようとするかもしれないと思った。だから明日も会社へ来ると約束したが、自分が誰かに同じことを約束してもらえるとは考えなかった。
会社を出ると、細かい雨が降っていた。文香は鞄から折り畳み傘を出したが、骨の一本が曲がっており、開くと片側だけが沈んだ。駅までの歩道には居酒屋の焼き鳥の煙が流れ、雨にぬれたアスファルトの匂いと混じっている。昼のパスタを半分残してから何も食べていないのに、店先の赤提灯を見ても食欲は湧かなかった。
電車の窓には、疲れた顔をした自分が映っていた。ブラウスの胸元には細いしわが寄り、まとめていた髪も半分ほどほどけている。スマートフォンには恒一から「夕飯は鍋焼きうどん」「何時頃になる?」というメッセージが届いていた。
文香は「先に食べて」と入力した。送信しようとして指を止め、「仕事でトラブル。今帰る」と書き直した。短い文章だったが、送信ボタンを押すまでに三度読み返した。
「分かった。駅まで迎えに行く」
「傘あるから大丈夫」
「その傘、骨が曲がってるでしょ」
「どうして知ってるの?」
「先週、直そうとして諦めたから」
「先に言ってよ」
「ごめん。大きい傘を持っていく」
最寄り駅の改札を出ると、恒一が透明なビニール傘を二本持って立っていた。黒いダウンジャケットの下には、家で着ていたと思われる白いTシャツがのぞいている。急いで出てきたのか、紺色のスニーカーの紐が片方だけ長く垂れていた。
「ただいま」
「おかえり。鞄、持とうか?」
「大丈夫」
「じゃあ、傘を交換しよう」
「二本持ってきた意味は?」
「一緒の傘だと、文香が肩をぬらすから」
「恒一が傘を斜めに持つせいでしょう」
「今日は気をつける」
文香は曲がった傘を閉じ、恒一からビニール傘を受け取った。駅前の信号が青に変わり、二人は並んで歩き出した。雨粒が傘を細かくたたき、横断歩道を走る車が水たまりの水を跳ね上げた。
「何があったの?」
「家に着いてから話す」
「分かった」
「それだけ?」
「ここで話すと寒いし、車の音で聞こえないから」
恒一はそれ以上尋ねなかった。文香は助かったと思う一方で、何か言ってほしいような気もした。自分でも求めているものが分からず、信号を渡り終えるまで、恒一のスニーカーの紐ばかり見ていた。
部屋へ入ると、昆布だしと醤油の匂いがした。食卓には一人用の土鍋が二つ置かれ、文香の鍋だけ火にかけずに残してある。恒一はダウンジャケットを脱ぎ、裾の伸びた白いTシャツと灰色の部屋着のズボンになった。
「今から温めるよ。卵、入れる?」
「いらない」
「油揚げは?」
「少し」
「ネギは?」
「細く切って」
「分かった。今日は大きく切らない」
恒一は冷蔵庫から油揚げを取り出し、袋の端をはさみで切った。文香は濡れたブラウスから、生成り色のスウェットと黒いジャージへ着替えた。洗面所の鏡を見ると、目の下の化粧が薄くにじみ、前髪が額へ張りついている。クレンジングをする力も残っておらず、タオルで顔を拭いただけで食卓へ戻った。
「食べてから話す?」
「今、話していい?」
「もちろん」
恒一はうどんを温める火を弱くし、文香の向かいへ座った。スマートフォンを伏せてテーブルの端へ置き、テレビの音量も消した。換気扇の低い音と、土鍋の蓋がかすかに揺れる音だけが部屋に残った。
「海外の取引先へ、三千八百万円を送金したの」
「うん」
「口座を間違えた」
「戻せないの?」
「取引先の旧口座だから、お金が消えたわけじゃない。でも、すぐには動かせない。今週中に正しい口座へ入らなかったら、部品の出荷が止まるかもしれない」
「そうか」
「入力したのは後輩だけど、承認したのは私。台帳と同じだから大丈夫だと思って、口座変更の申請書まで見なかった」
「うん」
「三千八百万円だよ。私たちの家賃が何年払えると思う?」
「計算したほうがいい?」
「しなくていい」
「分かった」
恒一は口を閉じた。文香は続きを待ったが、原因を聞くことも、再発防止策を尋ねることもなかった。システムエンジニアの恒一なら、二重確認の仕組みや台帳の管理方法をすぐに思いつくはずだった。
「何か言わないの?」
「今、考えてる」
「どうすればいいか?」
「違う。文香が何を話したいのか」
「分からない」
「じゃあ、分かるまで聞く」
文香は膝の上で両手を組んだ。右手の親指で左手の爪を押す癖が出ており、爪の横が赤くなっている。恒一はそれに気づいたのか、テーブルの上に手を置いたが、勝手に触れてはこなかった。
「課長は、自分が責任者だと言ってくれた。でも、承認したのは私なの」
「うん」
「後輩は、自分のせいだって顔を真っ白にしてた。私がちゃんと確認していれば、あの子もあんな顔をしなくて済んだ」
「文香は、その人を責めた?」
「責めてない。今は原因を調べようって言った」
「食事はさせた?」
「おにぎりを食べてって言った」
「文香は食べた?」
「昼のパスタを半分」
「じゃあ、うどんを食べよう。話は食べながらでも聞ける」
恒一は立ち上がり、土鍋の蓋を開けた。白い湯気が上がり、だしの匂いが強くなる。細く切った長ネギ、油揚げ、かまぼこがうどんの上に並んでいたが、文香の分にだけ、恒一が苦手なシイタケが二枚入っていた。
「シイタケ、買ったの?」
「昨日、安かったから。文香は好きだろ」
「恒一は食べないのに」
「一袋全部は多かったから、残りは冷凍した」
「冷凍庫、いっぱいなのに?」
「アイスを一個食べて場所を空けた」
「私のチョコアイス?」
「バニラです」
「ならいい」
文香は箸でうどんを持ち上げた。だしが熱く、最初の一口で上あごを少しやけどした。朝から固まっていた胃に温かい汁が入り、身体の中心だけがゆっくりほどけていく。
「前の私だったら、恒一には言わなかったと思う」
「そうだろうね」
「気づいてた?」
「帰ってきても仕事の話をしなかったから。聞くと、『家に持ち込みたくない』って言ってた」
「仕事の失敗を話したら、能力がないと思われる気がしてた」
「俺に?」
「誰にでも。失敗したなら、自分で片づけてから話すべきだと思ってた」
「今日は、まだ片づいてないのに話してくれたんだね」
「一人で持って帰るには、重すぎたから」
「話してくれてありがとう」
文香は箸を止めた。責められることも、励まされることも想像していたが、礼を言われるとは思わなかった。土鍋から上がった湯気が目に入り、文香は何度か瞬きをした。
「どうして、ありがとうなの?」
「俺に話そうと思ってくれたから」
「解決してないよ」
「俺には解決できないと思う。会社の仕組みも取引先も知らないし、三千八百万円を持ってるわけでもない」
「持っていたら驚く」
「隠し口座もない」
「それは知ってる。家計を分けていても、恒一の貯金は聞いてるから」
「でも、帰ってきた文香の話は聞ける」
文香はうどんを口に入れようとしたが、唇がうまく動かなかった。鼻の奥が熱くなり、目から落ちた雫が土鍋の蓋へ当たった。慌てて手の甲で拭っても、次の雫が頬を伝った。
「ネギが目に入った」
「タマネギじゃないよ」
「湯気」
「うん。湯気だね」
「違う。分かってるくせに」
「分かってるけど、文香がそう言いたいなら、湯気でいいよ」
恒一は箱からティッシュを二枚取り、文香の前へ置いた。顔をのぞき込むことも、背中をさすることもしなかった。文香はティッシュで目元を押さえたが、化粧が残っていたため、白い紙に黒い染みが広がった。
「明日、会社へ行きたくない」
「うん」
「でも、行かないと駄目なの」
「うん」
「役員に説明して、取引先にも謝って、後輩のことも守らないといけない」
「うん」
「大丈夫って言わないの?」
「大丈夫かどうか、俺には分からないから。でも、朝は起こすよ。ご飯も炊いてある」
「それだけ?」
「駅まで送る。帰りも連絡をくれたら迎えに行く」
「雨が降ってなくても?」
「雨が降ってなくても」
文香はティッシュを丸め、うどんの汁を一口飲んだ。恒一が失敗を小さく扱わなかったことがありがたかった。何とかなるとも、気にするなとも言わず、明日の朝もここにいると約束してくれた。
食事のあと、恒一が土鍋を洗い、文香は食卓に残ったネギを布巾で集めた。洗濯機の中には朝に回したタオルが入りっぱなしで、蓋を開けると湿った布の匂いがした。二人は顔を見合わせ、今からもう一度すすぎをかけることにした。
「朝から忘れてたの?」
「洗濯が終わる前に、コンビニへ行ったんだ。それでアイスを食べて」
「アイスで冷凍庫の場所を空けて、シイタケを冷凍して、洗濯物を忘れたの?」
「順番に説明すると、そうなります」
「恒一らしいね」
「怒ってる?」
「今日は怒る力が残ってない」
「じゃあ、明日怒ってください」
「覚えていたらね」
すすぎ直したタオルを二人で干す頃には、時計は午前零時を回っていた。柔軟剤の匂いが寝室まで流れ、窓の外では雨が弱くなっている。文香は歯を磨き、紺色のパジャマへ着替えたが、ベッドに入っても目を閉じられなかった。
恒一は隣で本を開いていた。読み始めてから十分ほどたっているのに、同じページのまま進んでいない。文香は枕を抱え直し、恒一の横顔を見た。
「読んでないでしょう」
「読んでるよ」
「さっきからページが変わってない」
「難しいところなんだ」
「料理の本なのに?」
「昆布だしの歴史が難しい」
「そのページ、鍋料理の写真しか載ってないよ」
恒一は本を閉じ、枕元へ置いた。文香は身体を横向きにし、二人の間にあった隙間を少し詰めた。恒一のTシャツから、うどんのだしと食器用洗剤が混じった匂いがした。
「近くに行ってもいい?」
「どうぞ」
「許可を取ると、変な感じ」
「じゃあ、勝手に来て」
文香は自分から恒一の肩へ頭を預けた。恒一の身体は少し固くなったが、すぐに力を抜き、文香の髪へ頬を寄せた。別居婚をしていた頃なら、仕事で失敗した日は約束をキャンセルし、一人で報告書を直し続けていただろう。弱った姿を見せることも、温かいうどんを作って待ってもらうこともなかった。
「私たち、最初は戸籍だけだったのにね」
「うん。住所も財布も別だった」
「週に二回だけ会って、困ったことは自分で処理するって決めてた」
「そんな契約は書いてなかったよ」
「書いてなくても、私はそう思ってたの」
「俺も少し思ってた。相手に迷惑をかけないのが、いい夫婦だと思ってたから」
「今は?」
「迷惑をかけないのは無理だと分かった」
「ずいぶん開き直ったね」
「だから、今から中身を作ればいい」
恒一は笑い、文香の頭が落ちないよう肩の位置を少し変えた。戸籍には、仕事で三千八百万円の送金先を間違えた日にうどんを作ることも、曲がった傘の代わりを持って駅まで迎えに行くことも書かれていない。夫婦になれば自然に相手を頼れるようになるわけでもなく、言葉にしなければ分からないことばかりだった。
「中身って、何を入れるの?」
「今日みたいなこと」
「送金ミス?」
「それは会社へ置いてきてください。話してくれたこととか、迎えに行ったこととか、一緒にうどんを食べたこと」
「洗濯物を放置したことも?」
「それは入れなくていい」
「都合がいいね」
「では、反省事項として端に入れます」
文香は恒一の肩に額を押しつけた。明日になれば、問題が解決するまで電話をかけ、頭を下げ、報告書を何度も書き直さなければならない。責任が軽くなったわけではないが、朝になったら一人で玄関を出るのではないと思うと、掛け布団の中で握っていた指がゆっくり開いた。
「明日の朝、鮭を焼いて」
「冷凍庫にあった?」
「シイタケの下」
「見つからなかったら納豆でもいい?」
「鮭がいい」
「焦がすかもしれない」
「黒いところは恒一が食べて」
「分かりました」
恒一が枕元の照明を消すと、洗濯機の時計だけが廊下から青く光った。文香は肩に寄りかかったまま目を閉じた。戸籍だけで始めた結婚には、いつの間にか二人で過ごした夜が積み重なっている。明日もここへ帰り、今日の続きを話したいと思えることが、文香にとって初めて分かった夫婦の中身だった。




