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第18話 実家には戻らない

第18話 実家には戻らない


 土曜日の午前十一時、文香は実家の食卓で、母が焼いたホットケーキを食べていた。紺色のニットにベージュのロングスカートを合わせてきたが、台所ではガスストーブがついており、背中にじんわり汗がにじんでいる。皿の上には形の違うホットケーキが三枚重なり、角の丸くなったバターが黄色い筋を作っていた。母は昔から生地を同じ大きさに焼けず、一枚目は焦がし、二枚目だけきれいに焼き、三枚目はフライパンへ流し込みすぎる。


「お母さん、これ、三人分じゃないの?」


「昔はこれくらい平気で食べたでしょう。残ったら持って帰りなさい」


「恒一、甘いものはあまり食べないよ」


「じゃあ文香が明日の朝に食べればいいじゃない。結婚したからって、急に小食になったわけでもないでしょう」


 母は花柄のエプロンで手を拭き、向かいの椅子へ腰を下ろした。髪には白いものが増えたが、赤い縁の老眼鏡と、何十年も着ている茶色いカーディガンは変わらない。文香が子どもの頃に牛乳をこぼして作った食卓の白い染みも、そのまま残っていた。


 文香は厚いホットケーキを切り、メープルシロップを少しだけかけた。口に入れると表面は香ばしかったが、中心にまだ粉っぽさが残っている。実家の味だと思えば懐かしいものの、料理として採点すれば六十五点だった。


「それで、今日は何の用だったの? 電話では顔を見せなさいとしか言わなかったでしょう」


「娘に会うのに、用事が必要なの?」


「先月も会ったよ」


「一か月もたっているじゃない。歩いてこられる距離なのに、まったく寄りつかないんだから」


「電車で四十分かかります」


「東京では近所よ」


 母はそう言って、自分のホットケーキに蜂蜜をたっぷりかけた。甘いものを控えると先月宣言したばかりだが、その約束は蜂蜜には適用されないらしい。文香が指摘すると、「砂糖じゃないからいいの」と、どこかで聞いたような理屈を返した。


 食べ終えた皿を台所へ運ぶと、流しには朝食に使った茶碗と味噌汁の椀が残っていた。鍋の中には冷めた豆腐の味噌汁が半分ほどあり、表面に薄い膜が張っている。文香が蛇口をひねると、母は慌てて追いかけてきた。


「いいのよ。せっかく来たのに洗わなくても」


「このまま置いたら、夕方になっても洗わないでしょう」


「お昼の分も一緒に洗おうと思っているの」


「昔から同じことを言うよね」


「あなたは昔から、人の台所へ来ると勝手に片づけるわね」


 母は口では止めながら、食器用洗剤を文香の手元へ寄せた。文香はスポンジを泡立て、油の残った皿から順番に洗っていく。窓の外から、近所の子どもが自転車のベルを鳴らす音と、石焼き芋を売る車の間延びした声が聞こえた。こうして台所に並んでいると、結婚前の土曜日へ戻ったようだった。


「そういえば、家賃が上がるんですって?」


「誰から聞いたの?」


「恒一さんのお母さんよ。この前、電話があったから」


「お母さんたち、いつの間に電話する仲になったの?」


「向こうのお母さんも心配しているのよ。今は何でも高いから、若い二人が無理していないかって」


「私たち、もう若い二人という年でもないけど」


「親から見たら同じよ」


 文香は洗った皿を水切りかごへ立てた。来月の契約更新に合わせ、家賃が月に六千円上がるという通知が届いていた。管理費と合わせれば、一年で七万円以上の負担増になる。通知を見た夜、文香は家賃、光熱費、食費を表計算ソフトへ入力し、実家暮らしだった頃との差額を三年分まで算出した。


「それでね、文香。また実家に戻ってくれば?」


 母の声は、使い終わった布巾をすすぐ水音に半分かき消された。文香は蛇口を閉め、泡の残った指を見た。母は特別な提案をしたつもりもないらしく、布巾を固く絞って流しの縁を拭いている。


「またって、私だけ?」


「ひとまず、あなたがよ。恒一さんは今の部屋に住めばいいじゃない。もともと別居婚だったんだから、元に戻るだけでしょう」


「夫婦なのに、家賃が上がったから別居するの?」


「六千円を馬鹿にしてはいけません。一年で七万二千円よ」


「七万二千円じゃないよ。更新月があるから、もっとかかる」


「だったらなおさらでしょう」


 母は得意そうに言い、流しの縁に落ちた水滴をもう一度拭いた。数字だけを見れば、文香にも反論する材料はなかった。実家へ戻れば、毎月五万円を入れるだけで済む。光熱費も食費もそこに含まれ、トイレットペーパーや洗剤をどちらが買うかで計算する必要もない。


「私の部屋、まだ使えるの?」


「もちろん。少し荷物は置いてあるけど、片づければ寝られるわよ」


「少し?」


「見てくればいいじゃない」


 文香は廊下の突き当たりにある、かつての自室へ向かった。白い扉には、中学生の頃に貼った猫のシールを剥がした跡が残っている。ドアノブを回すと何かが床に引っかかり、扉は三十センチほどしか開かなかった。


「お母さん、入れないんだけど」


「横になれば通れるでしょう」


「身体を?」


「身体以外に何を横にするのよ」


 文香は鞄を廊下へ置き、身体を斜めにして隙間から中へ入った。六畳の部屋には、古い扇風機、正月飾りの箱、父が買いだめした水、使わなくなった座布団が積まれていた。学生時代に使っていた机の上には新聞紙が敷かれ、その上で母が育てている三鉢のシクラメンが日を浴びている。空気には土と防虫剤の匂いが混じり、カーテンの裾には薄く埃がたまっていた。


「これのどこが、少しなの?」


「片づければ、すぐよ」


「扇風機が四台あるよ」


「二台はまだ動くの。残りは部品を取るために置いてあるのよ」


「お父さん、扇風機を修理できないでしょう」


「いつか覚えるかもしれないじゃない」


「何歳から始めるつもりなの?」


 母が廊下から顔をのぞかせ、机の上のシクラメンだけは動かさないでほしいと言った。文香は自分が使っていたベッドの端を探したが、冬用の布団袋が三つ重なっており、腰を下ろす場所さえない。壁には高校時代の時間割を留めた画鋲が一本残っていた。


 文香は窓を少し開けた。乾いた冷気が入り、シクラメンの丸い葉を揺らした。この部屋で暮らしていた頃は、月に五万円を渡せば母が夕食を作り、風呂を沸かし、洗濯物まで取り込んでくれた。給料から五万円を引いた残りは貯金と趣味に使えたため、文香はそれが最も合理的な生活だと思っていた。


「家賃だけで、今はいくら払ってるの?」


「管理費込みで十四万八千円。来月から十五万四千円」


「ほら。ここなら五万円ですむのよ」


「食費も光熱費も入って?」


「今までどおりでいいわ。お父さんと二人では、この家も広すぎるし」


「じゃあ、恒一は?」


「金曜日に会えばいいじゃない。前はそれでうまくいっていたんでしょう?」


 以前なら、その場で家賃の差額を計算していたはずだった。年間でいくら浮くか、五年でいくら貯金できるか、通勤時間が何分増えるかまで書き出し、感情を入れる前に結論を出していた。しかし今の文香の頭に最初に浮かんだのは、数字ではなかった。


 残業を終えて玄関を開けると、部屋着姿の恒一が台所から顔を出して「おかえり」と言う。冷蔵庫には文香が好きな固めのプリンが二つ入り、そのうち一つには「食べていい」と付箋が貼られている。休日には同じソファへ座り、文香は家計簿をつけ、恒一はイヤホンでゲームをする。二人とも別のことをしているのに、恒一が急に「カピバラって、どうして風呂に入るんだろう」と尋ね、文香が検索して答える。


「聞いてるの、文香?」


「聞いてる」


「だったら、戻ってくればいいじゃない。余計な家賃を払って、狭い部屋で暮らす必要はないでしょう」


「でも、ここも私の部屋だったところは狭いよ。荷物で」


「それは片づけます」


「お母さん、一年前にも同じことを言ったよね」


「今度は本当に片づけるわよ」


 文香は床に落ちていた古い消しゴムを拾った。角はすっかり丸くなり、表面には高校時代の自分が油性ペンで書いた「高瀬」という文字が残っている。結婚して名字は変わらなかったが、この部屋で暮らしていた自分と、今の自分まで同じではなかった。


「恒一さんだって、一人のほうが気楽でしょう。あの人、人に気を遣う性格だもの」


「気を遣うよ。私も気を遣う」


「だったら別々のほうがいいじゃない」


「それでも、一緒に住みたいの」


 声に出すと、文香自身がいちばん驚いた。母も口を開いたまま黙り、机の上のシクラメンへ目をやった。廊下の向こうでは、父がテレビのチャンネルを変える音が何度も続いている。


「前は、結婚しても一緒に住まなくていいって言っていたじゃない」


「前はそう思ってた。でも、一緒に住んだから分かったこともあるの」


「どんなこと?」


「味噌汁に入れるネギの大きさで揉めるとか、恒一が靴下を裏返したまま洗濯機に入れるとか」


「それは、別居したくなる理由でしょう」


「お母さんならね」


「私はお父さんの靴下を四十年も直しているのよ」


「直さないで、そのまま畳めばいいじゃない」


「裏返しのままでは気持ちが悪いでしょう」


 母が眉間にしわを寄せたため、文香は吹き出した。母もつられて笑い、シクラメンの枯れた花を一本だけ摘み取った。昔ながらの夫婦生活を続けてきた母と、契約書から結婚を始めた文香では考え方が違う。それでも、夫の靴下に腹を立てながら同じ家で四十年暮らした母なら、文香が帰りたい場所を持ったことも、いつか分かってくれるかもしれなかった。


「実家なら五万円ですむんだけどね」


「でしょう? それなら――」


「でも、戻らない」


 母の顔から笑みが消えた。文香は言い方が強すぎたかと思い、丸くなった消しゴムを机の端へ置いた。母を嫌っているわけでも、実家を捨てたいわけでもない。ここへ来ればホットケーキを三枚焼いてくれ、洗い物をすれば「しなくていい」と言いながら洗剤を差し出してくれる。


「どうして?」


「あの部屋に帰りたいから」


「家賃が高くても?」


「高いよ。来月から昼のお弁当は週三回作ろうと思ってる。恒一のサブスクも二つ解約させる」


「本人に相談したの?」


「これからする」


「勝手に解約したら駄目でしょう」


「分かってるよ。相談します」


 文香は自分の部屋だった場所を見回した。母が保管している季節用品も、父の壊れた扇風機も、窓辺のシクラメンも、この家で両親が暮らしてきた跡だった。そこへ自分の荷物を戻し、以前と同じ娘の場所へ収まることは、もう合理的とは思えなかった。


 帰り際、母は残ったホットケーキをアルミホイルで包み、煮物と一緒に紙袋へ入れた。袋の底には、実家で採れた柚子が三個転がっている。玄関でスニーカーを履く文香の背中へ、母が声をかけた。


「嫌になったら、いつでも戻ってきていいのよ」


「うん」


「部屋は片づけておくから」


「扇風機を一台は捨ててね」


「まだ使えるものは捨てません」


「じゃあ、私が帰る場所はないじゃない」


「横になれば入れるでしょう」


 文香は笑いながら実家を出た。空は晴れていたが、道路には午前中の雨が残り、湿った土の匂いがした。紙袋の中で保存容器が傾くたび、煮物の汁がこぼれていないか気になり、文香は何度も袋の底へ手を当てた。


 電車に乗ると、恒一からメッセージが届いた。「夕飯どうする?」という短い文章の下に、スーパーで半額になった豚肉の写真が添えられている。文香は「それ買って。冷蔵庫のキャベツと炒める」と返信したあと、「ホットケーキある」と付け加えた。


「甘いものは少しでいい」


「二枚あります」


「一枚を半分ずつでいい」


「残りの一枚は?」


「冷凍」


「冷凍庫、いっぱい」


「では文香が食べてください」


「やっぱりそうなるよね」


 画面を見ながら、文香の口元が緩んだ。向かいの席に座る幼い男の子が母親の膝へよじ登り、窓の外を走る電車を指さしている。先月までなら子どもの姿を見ただけで第17話の話し合いを思い出して身構えていたが、今日はただ、靴が母親のコートを汚しそうだと気になった。


 最寄り駅へ着く頃には、日が傾き始めていた。商店街の総菜店から揚げ油の匂いが流れ、八百屋では大根が一本百五十八円で積まれている。文香は値札の前で立ち止まり、恒一へ電話をかけた。


「大根、買う?」


「母さんの煮物に入ってなかった?」


「あれは今日食べる分。大根が安いの」


「冷蔵庫に入らないよ」


「葉を切れば入る」


「柚子も持って帰ってくるんだろ?」


「どうして知ってるの?」


「文香のお母さんは、この時期になると必ず柚子を持たせるから」


 恒一が笑う声の向こうから、換気扇の音が聞こえた。すでに台所へ立ち、夕食の準備を始めているらしい。文香は大根を棚へ戻し、代わりにもやしを一袋だけ籠へ入れた。


「恒一」


「なに?」


「家賃が上がるから、私だけ実家へ戻ったらどうかって母に言われた」


 電話の向こうが静かになった。商店街では自転車のブレーキが鳴り、総菜店の店員がコロッケの値引きを知らせている。文香は籠の取っ手を握り直し、恒一の返事を待った。


「文香は、どうしたい?」


「戻らないって言った」


「そう」


「それだけ?」


「いや、すごく嬉しい。でも、商店街で大声を出す話でもないと思って」


「私は商店街にいるけど、恒一は家でしょう」


「ベランダの窓が開いてる」


「閉めればいいじゃない」


「待って。今、閉める」


 受話口から足音と、窓を閉める音が聞こえた。しばらくして、恒一がわざと低い声で「お帰りをお待ちしております」と言った。文香は籠を持ったまま笑い、近くにいた店員から不思議そうに見られた。


 玄関の扉を開けると、キャベツと豚肉を炒める香ばしい匂いがした。恒一は黒い長袖シャツにチェック柄のエプロンを着け、フライパンを持ったまま台所から顔を出した。裸足の片方には、裏返しになった靴下が引っかかったままになっている。


「おかえり」


「ただいま。靴下、また裏返しだよ」


「脱いだら直す」


「そのまま洗濯機へ入れないでね」


「努力します」


「努力じゃなくて、直して」


 文香は紙袋を食卓へ置いた。恒一が中をのぞき、ホットケーキより先に柚子を一つ取り出して鼻へ近づけた。爽やかな香りが、豚肉の脂とソースの匂いに混じって部屋へ広がった。


「柚子風呂にする?」


「もったいない。皮は料理に使って、搾ったあとの残りを入れる」


「文香のお母さんと同じことを言うね」


「親子だからね」


 二人で夕食を食べたあと、文香は紙袋から家賃の更新通知を取り出した。恒一は焦げたキャベツを箸でつまみながら、サブスクなら三つ解約してもいいと言った。文香はそこまでする必要はないと答え、来月の予算を二人で計算した。


 数字だけを見れば、実家へ戻るほうが安かった。狭い部屋の家賃に十五万円以上払い、光熱費と食費を負担し、洗剤やティッシュまで自分たちで買う生活は、確かに効率が悪い。しかし食卓の向こうには、キャベツの芯だけを器用に残す恒一がいる。冷蔵庫には二人分の食べ物が入り、洗面所には色違いの歯ブラシが並んでいる。


「実家なら五万円ですむのになあ」


「今からでも戻る?」


「戻ってほしいの?」


「嫌だよ」


「じゃあ聞かないで」


「文香が帰ってこなくなったら、キャベツを一人で食べきれない」


「そこ?」


「プリンも二個買えなくなる」


「一個買えばいいでしょう」


「二個並んでないと、帰ってくる感じがしない」


 恒一はそう言って、文香の皿へ最後の豚肉を一枚のせた。文香は代わりに、自分の皿に残っていた焦げていないキャベツを恒一へ返した。五万円では買えないものが何なのか、文香はまだうまく説明できない。それでも、明日もここへ帰りたいと思える理由なら、目の前にいくつも並んでいた。


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