第17話 子ども、どうする?
第17話 子ども、どうする?
日曜日の午後、文香は薄い水色のスウェットに黒いジャージを合わせ、ダイニングテーブルで里芋の煮物を食べていた。煮物は午前中に訪ねてきた恒一の母が持参したもので、蓋を開けた瞬間から、醤油と砂糖の甘い匂いが狭い部屋に残っている。里芋の中心まで味は染みていたが、文香は箸で何度も転がすばかりで、なかなか口へ運べなかった。テーブルの端に、煮物と一緒に渡された子ども服のカタログが置かれていたからである。
「お母さん、どうしてこんなものまで持ってきたの?」
向かいに座る恒一は、休日用の灰色のパーカーの袖を肘までまくり、煮汁の染みた大根を食べていた。母が来ると聞いて朝から掃除機をかけたせいで、いつも床に転がっている充電ケーブルも、今日はテレビ台の横へ丸めて片づけられている。恒一はカタログの表紙で笑っている赤ん坊を見たあと、困ったように首の後ろをかいた。
「近所の人からもらったらしいよ。捨てるのはもったいないから、文香に見せてあげてって」
「私だけに?」
「俺にも見せるつもりだったと思う」
「恒一は玄関で受け取らなかったじゃない。お母さん、私の手に直接押しつけたよ」
「ごめん。あのとき俺、麦茶をこぼしてたから」
「知ってる。靴下までぬれてたものね」
文香はようやく里芋を口に入れた。少し冷めた里芋は粘りが強く、舌に甘さがまとわりついた。恒一の母に悪気がないことは分かっているし、帰り際にも「急がなくていいのよ」と笑っていた。それでも、急がなくていいと言いながら子ども服のカタログを渡す矛盾を、文香は飲み込めなかった。
「これ、捨ててもいい?」
「文香がいらないなら、いいよ」
「また私が決めるの?」
恒一の箸が止まった。冷蔵庫のモーターが低く鳴り、ベランダでは洗濯機から出したばかりのシャツが風に揺れている。さっきまで晴れていたのに、窓の外には灰色の雲が広がり始めていた。恒一は何か言おうとして口を開き、結局、麦茶を一口飲んだ。
「俺には関係ないという意味じゃないよ」
「でも、そう聞こえた」
「どう答えればいいか分からなかったんだ。母さんが持ってきたものだから、文香が嫌なら捨てていいと思っただけで」
「私だって、どうすればいいか分からないよ」
文香はカタログを裏返し、赤ん坊の顔を見えなくした。結婚して二年目に入ってから、子どもについて尋ねられる回数が目に見えて増えていた。恒一の母だけではなく、親戚、会社の同僚、学生時代の友人まで、天気の話でもするように聞いてくる。「そろそろ考えているの」「二人とも働いているなら早いほうがいい」「子どもができたら実家も頼れるでしょう」と言われるたび、文香は曖昧に笑って同じ答えを返してきた。
「まだ未定ですって、いつまで言えばいいのかな」
「決まるまでじゃない?」
「その決まるまでが、いつなのか分からないの。私たち、入籍するときからずっと未定だよ」
「そうだな」
「子どもは未定、財布は別、住む場所も最初は別。決めたくないことを全部、未定の箱に入れて蓋をしてきた気がする」
言い終えると、文香は急に喉が渇いた。麦茶の氷はほとんど溶け、薄い水滴がグラスの底を伝ってコースターへ染みている。結婚前に作った契約書には、家賃の負担や家事の分担、互いの一人時間について細かく書いたのに、子どもの欄にだけ「現時点では未定」と記していた。数字を扱う仕事をしている文香にとって、未定はゼロでも空欄でもなく、いつか処理しなければならない項目だった。
「恒一は、子どもが欲しい?」
「今、答えないと駄目?」
「駄目じゃない。でも、聞かないままにするのは、もう嫌」
「文香は?」
「質問に質問で返さないでよ」
「ごめん。先に聞かれると、文香の答えに合わせたくなるから」
恒一は眼鏡を外し、パーカーの裾でレンズを拭いた。いつもならテレビ台の引き出しから専用の布を出すのに、今日はそのことさえ忘れているらしい。人に気を遣いすぎる恒一は、文香が子どもを欲しいと言えば自分も欲しいと答え、欲しくないと言えばそれでもいいと答えるだろう。文香はそんな優しさに助けられてきたが、今だけは、自分に合わせた答えでは困ると思った。
「恒一の答えを聞きたいの。正解じゃなくて、本当のこと」
「分からない」
「欲しくないってこと?」
「違う。本当に分からないんだ」
恒一は眼鏡をかけ直し、残っていた大根を小さく切った。煮物の皿には、母が彩りに入れた絹さやが二枚だけ残っている。恒一はその一枚を文香の皿へ移そうとしたが、途中でやめて自分の皿へ戻した。
「子どもがいたら楽しいだろうなとは思うよ。公園で父親と子どもが遊んでいるのを見ると、いいなと思うこともある。でも、俺は仕事が忙しくなると家に帰っても話せなくなるし、一人になる時間がないと余裕がなくなる。そんな人間が父親になって、ちゃんと世話を続けられるのか分からない」
「私は、恒一は普通に欲しいんだと思ってた」
「俺は、文香は欲しくないと決めているんだと思ってた」
「どうして?」
「子どもの話になると、いつも話題を変えるから」
文香は自分の左手を見た。結婚指輪の周りに、食器用洗剤で荒れた白い筋ができている。結婚前に同棲した男は、子どもは二人欲しいと簡単に言いながら、自分が脱いだ靴下さえ洗濯かごへ入れなかった。夕食を作り、食器を洗い、散らかった服を拾い、翌朝には寝坊した恋人を起こす生活を送るうちに、文香は男と暮らすことより、誰かの世話係になることが怖くなっていた。
「私は、子どもが嫌いなわけじゃない。美優の子と遊ぶのも楽しいし、赤ちゃんを見ればかわいいと思う。でも、自分が産みたいかと聞かれたら、まだ分からない」
「うん」
「妊娠するのも、産むのも私でしょう。仕事を休むのも、身体が変わるのも私。二人で育てると言っても、最初から半分ずつにはできない」
「うん」
「もし生まれてから、私には向いていませんでしたって気づいたらどうするの。返品できないんだよ」
恒一は笑わなかった。励ますような言葉も、誰だって最初は不安だという決まり文句も口にしなかった。窓に雨粒が一つ当たり、それから間を置いて二つ、三つと増えていった。文香はベランダの洗濯物を思い出したが、立ち上がるきっかけを失ったまま、膝の上でスウェットの裾を握っていた。
「洗濯物、入れてくる」
「今?」
「雨が降ってきた」
「私も手伝う」
二人は急いでベランダへ出た。湿った風が吹き込み、恒一のシャツから柔軟剤の柑橘の匂いが立った。文香がハンガーを外し、恒一が受け取った服を腕へ重ねる。最後に取り込んだ文香の白いブラウスは、肩の部分だけ小さくぬれていた。
「これ、明日着るつもりだったのに」
「浴室乾燥を使おう」
「電気代が高いよ」
「一枚だけなら、アイロンで乾かす?」
「恒一が焦がしそうだから嫌」
「まだ一度しか焦がしてない」
「あれ、お気に入りのハンカチだったんだからね」
洗濯物をソファへ置くと、二人は少しだけ笑った。子どものことを話していた途中でも、雨が降れば洗濯物を取り込み、明日着る服の心配をする。大きな答えが出ない日にも生活は止まらず、二人の手にはぬれたハンガーが一本ずつ残っていた。
「文香が納得しないまま、子どもを持つことはできないと思う」
「それなら、私が全部決めるの?」
「二人で考える。でも、文香の身体に関わることを、俺が同じ重さで決められるとは思ってない」
「欲しいって言われたら、応えなきゃいけない気がする」
「俺のために産んでほしいとは言わないよ」
「じゃあ、いらないって言ったら?」
「それで文香を責めるつもりもない。ただ、すぐには答えを出せなくても、俺の気持ちは正直に話す」
文香はソファに積んだ洗濯物から恒一の靴下を一足拾い、左右を合わせて丸めた。以前なら、なぜ自分が恒一の靴下を畳まなければならないのかと分担表を確認していただろう。今はたまたま手に取ったから畳んだだけであり、恒一も隣で文香のブラウスをしわにならないようハンガーへ戻している。その程度の偏りなら、損得を計算せずに受け入れられるようになっていた。
「今日、結論を出さなくてもいい?」
「俺は出せない」
「私も出せない。でも、また未定にして逃げるのは嫌」
「じゃあ、話し続けよう。今までの未定は、話さないための未定だったけど、これからは考えるための未定にする」
「恒一、たまにいいこと言うね」
「たまに?」
「月に二回くらい」
「週二回会っていた頃と同じ頻度だな」
文香はスマートフォンを手に取り、夫婦の共有カレンダーを開いた。画面には、ゴミの日、電気料金の引き落とし、美優一家との食事といった予定が色分けされている。来月の第二日曜日を選び、「子どものことを話す」と入力すると、恒一が横からのぞき込んだ。
「毎月、会議をするの?」
「一か月で考えが変わるかもしれないでしょう。それまでに育休や保育園、必要なお金も調べる。知らないまま怖がるのと、知ったうえで迷うのは違うから」
「俺も会社の制度を調べるよ。規則に書いてあることだけじゃなくて、男性社員が実際にどのくらい育休を取っているか聞いてみる」
「議事録は作らないからね」
「経理なのに?」
「家まで会社みたいにしたくないの」
文香は予定の説明欄に、「結論を出す会議ではありません」と書き加えた。恒一はそれを読み、「了解しました」とふざけて頭を下げた。文香は資源ごみの袋を広げ、子ども服のカタログを入れたが、恒一がそっと手を伸ばして止めた。
「一冊くらい残しておく?」
「欲しくなったときのために?」
「いや。母さんに返して、今は持ってこないでって俺から言う。勝手に捨てるより、そのほうが伝わると思う」
「ちゃんと言える?」
「言うよ。次にまた持ってきたら、その場で持って帰ってもらう」
「じゃあ、任せる」
夕食は、昼の煮物の残りと焼いたアジの開きになった。恒一が魚焼きグリルの火を強くしすぎたため、皮の端が黒く焦げ、部屋に煙と魚の匂いが広がった。文香が窓を開けると、雨上がりの冷たい空気が入ってきた。二人は形の崩れたアジを半分ずつ皿に分け、大根おろしを多めにのせて食べた。
「子どもがいたら、焦げた魚を食べさせることになるね」
「黒いところは俺が食べるよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「じゃあ、火加減を覚える」
「覚える気はあるんだ」
「子どもがいてもいなくても、文香に毎回焼かせるわけにはいかないから」
文香はアジの骨を箸で外しながら、恒一の皿へ焦げていない身を少し分けた。今日の話し合いで、子どもを欲しいと思えたわけではない。持たないと決めたわけでもない。それでも、自分一人が答えを背負わなくていいことだけは分かった。
夜、文香は紺色のパジャマに着替え、枕元の小さな照明をつけた。恒一は洗った食器を水切りかごへ並べ、明日の朝食用に炊飯器の予約ボタンを押してから寝室へ入ってきた。炊飯器の電子音が居間から聞こえ、雨の残りがベランダの手すりから一定の間隔で落ちている。恒一は自分の布団へ入り、眼鏡を枕元へ置いた。
「文香」
「なに?」
「分からないって言ってくれて、ありがとう」
「そんなことで、お礼を言うの?」
「分かったふりをされるよりいい。俺も分からないって言えて、少し楽になった」
「来月もちゃんと話そうね」
「決めるためじゃなくて?」
「いつか二人で決められるようになるために」
恒一が照明を消すと、部屋の中に炊飯器の時計だけが青白く浮かんだ。二人の布団の間には、一人が横向きになれば手の届く程度の隙間がある。文香はその距離を無理に埋めず、掛け布団から片手だけを出した。
「恒一、手」
「はい」
「返事が犬みたい」
「握手だから」
恒一の手は食器を洗ったばかりで少し冷たく、石鹸の匂いが残っていた。子どもを持つことも、持たないことも、周囲に褒めてもらうための答えではない。二人に必要なのは、正解を急いで選ぶことではなく、相手の考えが変わったときにも、また同じ食卓で話せることだった。
「私たちのことは、私たちで決めよう」
「うん。分からないときは、分からないって言おう」
文香は恒一の手を握ったまま目を閉じた。明日の朝になれば、炊きたてのご飯をよそい、どちらが最後の納豆を食べるかで小さく揉めるだろう。答えの出ない話を抱えたままでも、二人の生活はいつもどおり続いていく。そのことを確かめるように、文香は恒一の指をもう一度握り直した。




