第16話 「美優の離婚危機」
第16話 「美優の離婚危機」
日曜日の午後、文香は洗濯物を畳みながら、テレビで流れている古いドラマをぼんやり眺めていた。薄いベージュのTシャツに黒いジャージという格好で、膝の上には乾いたタオルが三枚重なっている。柔軟剤の甘い匂いがまだ残っていて、窓の外からは蝉の声が聞こえていた。朝から晴れていたのに、午後になって急に雲が増え、ベランダに干した恒一のワイシャツが風にあおられている。
そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。文香は畳みかけのタオルを横へ置き、画面を見ると、美優からメッセージが届いていた。いつもなら絵文字や子どもの写真が一緒に送られてくるのに、今日は短い文章だけだった。
『文香、今どこ?』
文香はすぐに返信した。
『家にいるよ。どうしたの?』
しばらくして既読がついたが、返事は来なかった。文香はスマートフォンを裏返して洗濯物を畳み直したものの、三分もしないうちにまた画面を確認した。そのとき、着信音が鳴った。
「もしもし?」
『文香……』
「美優?」
『もう無理かもしれない』
電話の向こうから、鼻をすする音が聞こえた。文香は手にしていたタオルを膝の上へ置いた。リビングには洗濯機の脱水が終わったことを知らせる電子音が響き、キッチンには昼に作った焼きそばのソースの匂いがまだ残っている。
「何があったの?」
『旦那とまた喧嘩した』
「また?」
『昨日も喧嘩して、今日も喧嘩して……もう嫌』
「家事のこと?」
『家事も、子どものことも、全部』
美優の声は途中で途切れた。文香はスマートフォンを耳に当てたまま、テーブルに置いてあった麦茶を一口飲んだ。氷はもう溶けていて、少しぬるくなっている。美優とは何度も夫の愚痴を聞いてきたが、今日の声はいつもの不満とは違っていた。
「一度、別居してみたら?」
文香がそう言うと、電話の向こうが静かになった。
「少し離れて暮らしたら、お互い冷静になれるんじゃない?」
『……文香は、そう思うんだ』
「だって、毎日顔を合わせて喧嘩するなら、離れたほうがいいじゃん」
『別居すれば解決する問題じゃないよ』
美優の声が震えた。
『私がしんどいのは、旦那が家事をしないからだけじゃない。子どもが熱を出したとき、私が仕事を休むのが当たり前みたいになってることとか、夜中に子どもが泣いても旦那が起きないこととか、そういうのが全部積み重なってるの』
「……うん」
『別々に住んだら、もっと私が一人で全部やることになるじゃん』
文香は返事ができなかった。自分たちの別居婚なら、家事は二人で分けられた。財布も別で、生活時間も別だった。けれど美優には子どもがいて、夫婦が別々に暮らせば、今より負担が増えるかもしれない。文香は畳みかけのタオルを指先で何度も折り直した。
「ごめん、美優。私、簡単に言いすぎた」
『ううん。文香が悪いんじゃないよ』
「今日、会える?」
『……会いたい』
「じゃあ、駅前の喫茶店にしよう。子どもは?」
『実家に預けてきた』
「分かった。私も行く」
電話を切ったあと、文香はしばらくスマートフォンを見つめていた。すると仕事部屋から恒一が顔を出した。灰色のTシャツに黒いハーフパンツを穿き、眼鏡を少しずらしている。
「美優?」
「うん。夫婦喧嘩して、かなり参ってるみたい」
「大丈夫?」
「分からない。今から会ってくる」
「送ろうか?」
「駅まででいいよ」
「分かった」
文香は寝室へ行き、白いブラウスとカーキ色のパンツに着替えた。髪をひとつにまとめ、鏡の前で口紅を薄く塗る。出かける準備をしながら、頭の中ではさっきの美優の言葉が何度も繰り返されていた。
駅前の喫茶店は日曜日の午後ということもあり、かなり混んでいた。文香が窓際の席に座って待っていると、十分ほどして美優が入ってきた。薄い黄色のワンピースを着ていたが、髪はいつものようにきれいに巻かれておらず、片側だけ肩にかかっている。手には子どもの小さな巾着袋が握られていて、何度もそれを握り直していた。
「美優、こっち」
「ごめん、待った?」
「今来たところ」
美優は椅子に座ると、店員にアイスカフェラテを注文した。文香は自分の前にあるアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。氷がグラスの中でぶつかり、カランカランと音がする。
「何があったの?」
「昨日ね、旦那が休みだったの」
「うん」
「私も休みだった。でも、朝から子どもの朝ご飯作って、洗濯して、掃除して、買い物して、お昼作って……」
「うん」
「旦那は昼まで寝てた」
美優は両手でカフェラテのグラスを包んだ。冷たい水滴が指に伝わり、テーブルの上に小さな丸い跡がいくつもできる。
「午後になって旦那が起きてきて、『今日何する?』って聞いたの」
「……それは腹立つね」
「でしょ?」
美優は少しだけ笑った。けれどすぐに顔を伏せた。
「私が『子ども見ててよ』って言ったら、『じゃあ俺が見てるから買い物行ってくれば?』って」
「それならいいんじゃない?」
「違うの」
「違う?」
「私が欲しかったのは、そういうことじゃないの」
美優はカフェラテを一口飲んだ。口元についた泡を指で拭い、その指をナプキンで何度も擦る。
「私が毎日何してるか、見てほしかったの。『いつもありがとう』って言ってほしかったの」
文香は黙っていた。以前なら、「じゃあ家事を分担すればいい」「家事表を作ればいい」「外注すればいい」と、いくつも解決策を並べていたかもしれない。しかし今は、それだけでは足りないことが少し分かる。第十二話で自分が家事分担表を作ったとき、恒一が「文香が一人で抱え込まないことのほうが大事」と言ってくれたことを思い出した。
「美優」
「うん」
「私たちの別居婚が正解だったわけじゃないんだね」
「え?」
「私、ずっと思ってた。誰かと暮らすのが大変なら、別々に住めばいいって。でも、それだけじゃないんだね」
美優はしばらく文香を見ていた。それから小さく笑った。
「私、文香のこと羨ましいって思ってた」
「私を?」
「うん。好きなときに寝て、好きなときに出かけて、家事も旦那さんと分けてて。子どもがいないから自由でいいなって」
「そうだったんだ」
「でも文香も、いろいろ考えてたんだね」
「私もね、最初は結婚ってコスパ悪いと思ってた」
「出た。文香のコスパ」
「だって実家なら五万円で済んでたし」
「まだ言ってる」
二人は少し笑った。店内にはコーヒー豆を挽く音が響き、焼きたてのワッフルの甘い匂いが漂ってきた。美優はその匂いにつられたようにメニューを見た。
「ワッフル頼んでいい?」
「もちろん」
「朝から何も食べてない」
「え?」
「喧嘩して、食べる気なくしてた」
「それ先に言ってよ」
文香は店員を呼び、ワッフルを一皿追加した。しばらくすると、温かいワッフルに生クリームとバナナが添えられて運ばれてきた。美優はナイフで一口分を切り、フォークで口へ運んだ。
「……おいしい」
「よかった」
「なんか、食べたら少し戻ってきた」
「それならもう一口食べて」
「食べる」
美優は少しずつワッフルを食べた。文香はその様子を見ながら、同居と別居のどちらが正しいかを考えることをやめた。二人で暮らしても、別々に暮らしても、相手を思いやらなければ生活は苦しくなる。逆に、同じ家にいても自分の時間を尊重し、別々の家にいても困ったときに支え合えるなら、夫婦の形は一つではない。
「私、旦那ともう一回話してみる」
「離婚しないの?」
「分からない」
「うん」
「でも、離婚するかどうかを決める前に、私がどうしたいのか考えたい」
「それがいいと思う」
「今まで、旦那がどうするかばっかり考えてた。でも私がどういう結婚生活をしたいかって、考えたことなかった」
美優は残ったワッフルをフォークで小さく切った。
「私も、私の結婚を考えてみる」
「うん」
「文香の真似じゃなくて」
「それ大事」
「でも、週末だけ別居とかはちょっと興味ある」
「それは夫婦で相談してみたら?」
「そうする」
店を出ると、夕方の空気は少し涼しくなっていた。駅前では子ども連れの家族が歩き、焼き鳥屋から醤油の焦げる香りが漂っている。美優は駅の改札前で足を止め、文香の腕を軽く叩いた。
「ありがとう」
「何もしてないよ」
「話を聞いてくれた」
「それくらいならいつでも」
「今度は文香の話も聞くから」
「私?」
「結婚生活、どう?」
文香は少し考えた。恒一と一緒に暮らし始めてから、家賃の高さに文句を言ったり、家事分担で揉めたり、一人の時間が欲しいと伝えたりした。決して完璧ではない。それでも、家に帰れば恒一がいて、冷蔵庫には二人分のプリンがあり、洗濯物の中には自分のシャツと恒一のシャツが一緒に並んでいる。
「……まあまあ」
「その顔で?」
「どんな顔?」
「ちょっと嬉しそう」
「うるさい」
二人は笑って別れた。
家へ戻ると、恒一はリビングのソファでノートパソコンを開いていた。テーブルには湯気の立つ味噌汁と、スーパーで買ってきた焼き餃子が並んでいる。
「おかえり」
「ただいま」
「美優、大丈夫だった?」
「うん。たぶん、これから夫婦で話すと思う」
「そっか」
文香は椅子に座り、味噌汁を一口飲んだ。少しだけ味噌が濃かったが、今日はそのまま飲んだ。
「ねえ、恒一」
「ん?」
「私たちって、ちゃんと夫婦になってきたのかな」
恒一は少し考えてから、焼き餃子を一つ箸でつまんだ。
「最初よりは?」
「曖昧」
「じゃあ、明日も一緒に朝ご飯食べる?」
「食べる」
「洗濯も?」
「する」
「プリンも?」
「食べる」
文香は笑った。結婚が何なのか、まだ全部は分からない。それでも、誰かの正解を借りるのではなく、自分たちで少しずつ決めていけばいいのだと思えた。
「じゃあ、明日の朝は私がパン焼く」
「俺、コーヒー入れる」
「それでいいね」
「うん」
窓の外では、夜風に乗って遠くの電車の音が聞こえていた。文香は焼き餃子を一つ口に入れ、熱さに少し舌を出した。
「熱っ」
「大丈夫?」
「大丈夫。……でも熱い」
「水飲んで」
「分かってる」
二人の夕食は、いつものように少しだけ騒がしく続いていった。




