第15話 「結婚記念日、忘れてた」
第15話 「結婚記念日、忘れてた」
八月の終わりが近づいた金曜日、文香は会社のデスクで経理システムの画面を見つめていた。外資系メーカーの月末は忙しく、午後六時を過ぎても隣の席ではキーボードを叩く音が続いている。文香は白いブラウスの袖を肘までまくり、細い黒いパンツのポケットから目薬を取り出して目に差した。冷房の乾いた風で目が少し痛み、机の端に置いた紙コップのコーヒーはすっかり冷めていた。
「高瀬さん、今日の数字、確認終わりました?」
「あと少しです。八月分の仕訳が一件だけ残ってます」
「すみません、急ぎでお願いします」
「分かりました」
文香は画面へ目を戻した。数字を一つ確認して、もう一つ確認する。そんな作業を繰り返しているうちに、壁の時計は午後七時を回った。スマートフォンには恒一から「今日は少し遅くなる」とメッセージが届いている。文香は「了解」とだけ返し、そのまま仕事を続けた。
ようやく会社を出たとき、外はすっかり暗くなっていた。昼間の熱がアスファルトに残っていて、駅まで歩くだけでブラウスの背中に汗がにじむ。文香は駅前のスーパーへ寄り、冷蔵ケースの前で夕飯を何にするか考えた。鮭を焼く気力はなかったので、惣菜の唐揚げとポテトサラダ、それから冷やしトマトを買おうとしたところで、店頭の特設コーナーに目が止まった。
小さなホールケーキが並んでいた。ショートケーキ、チョコレートケーキ、フルーツタルト。色とりどりの果物が照明を受けてつやつや光り、透明なケースの内側に小さな水滴がついている。文香はケーキの値札を見て、それから今日の日付を思い出した。
「……今日?」
スマートフォンを取り出す。八月三十一日。文香は画面を二度見した。
「今日、結婚記念日だった」
思わず声が出た。周りの客が一人、こちらを見たので、文香は慌てて口を閉じる。去年の今日、二人で婚姻届を提出した。役所を出たあと、ファミレスへ行って、婚姻届の控えをテーブルに置いた。あの日も今と同じように暑かったはずなのに、文香はすっかり忘れていた。
文香はすぐに恒一へメッセージを送った。
『今日って結婚記念日だよね?』
既読がつくまで、十秒もかからなかった。
『そうだった』
『忘れてた?』
『俺も今気づいた』
文香はスーパーのケーキ売り場で吹き出した。スマートフォンを片手に笑っていると、隣で買い物をしていた女性が不思議そうにこちらを見る。文香は慌てて顔をそむけ、もう一度画面を確認した。
『どうする?』
『何が?』
『記念日』
『ケーキ買って帰る?』
『それでいい』
『じゃあ俺も惣菜買う』
『もう私が買ってる』
『じゃあプリン』
『それは必要』
文香はショートケーキを一つ、買い物かごへ入れた。値段は千二百八十円だった。家計簿を考えれば少し予定外の出費だったが、今日はいいことにした。隣の惣菜コーナーから揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきて、文香は唐揚げも追加した。
家に帰ると、恒一はまだ帰っていなかった。文香はバッグをソファへ置き、ブラウスのボタンを外して薄いグレーの部屋着へ着替えた。冷蔵庫へ買ってきたケーキを入れ、惣菜のパックをテーブルへ並べる。炊飯器を開けると朝の残りのご飯が少しだけ残っていて、文香はそれをラップに包み直した。生活感のあるキッチンを見回しながら、去年の今日にはこんな場所に自分の歯ブラシも部屋着も置いていなかったのだと思った。
午後八時半を過ぎて、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おかえり」
恒一は黒いワイシャツの襟元を緩め、疲れた顔でリビングへ入ってきた。右手にはコンビニの袋がぶら下がっている。
「プリン買ってきた」
「やっぱり」
「何が?」
「私も買おうと思ってた」
「じゃあ、明日食べよう」
「うん」
恒一はテーブルの上を見て、少し笑った。
「唐揚げ?」
「今日は料理したくなかった」
「俺も」
「だから記念日なのに惣菜」
「記念日だから惣菜でもいいじゃん」
二人は向かい合って座った。唐揚げを電子レンジで温めると、醤油と生姜の匂いが部屋いっぱいに広がる。文香はポテトサラダを小皿へ移し、恒一は冷蔵庫から麦茶を取り出した。高級なワインも、予約したレストランもない。ただ、いつもの食卓に少しだけ高いケーキがある。
「一年か」
「一年だね」
「早かった?」
「私は長かったような、短かったような」
「俺は早かった」
「なんで?」
「一緒に住み始めたのが最近だから、結婚して一年って感じがしない」
「確かに」
文香は唐揚げを箸で半分に割った。中から湯気が上がり、まだ熱い肉汁が皿に落ちる。文香は一口食べてから、去年のことを思い出した。
「ねえ、覚えてる?」
「何を?」
「婚姻届出したあと、ファミレス行ったじゃん」
「ああ」
「あのとき、私たち何食べたっけ?」
恒一は腕を組んで考えた。
「俺はハンバーグ」
「私はパフェ」
「昼から?」
「結婚した日だからいいの」
「それは覚えてる」
文香は笑った。去年の二人は、婚姻届を提出したことだけが大きな出来事で、その後の生活については深く考えていなかった。実家と賃貸、それぞれの家を残したまま、戸籍だけを一緒にする。週二回会い、財布も別。子どものことも未定。二人にとっては、それで十分だった。
「最初は戸籍だけだったのにね」
文香がそう言うと、恒一はケーキの箱を開けながら答えた。
「今は、戸籍だけじゃないと思う」
文香は手を止めた。
「どういう意味?」
「一緒に住んでるし」
「それだけ?」
「家事も一緒にやってる」
「それも?」
「プリンも買ってくる」
「それ、結婚じゃなくてもできるよ」
「じゃあ……」
恒一は少し考えた。箱の中のショートケーキを見ながら、フォークを持った手を止める。
「困ったときに、一番に話したいと思う相手がいることかな」
文香は何も言わなかった。冷房の風が首筋に当たり、テーブルの上の紙ナプキンが少し揺れた。恒一は照れたようにケーキを切り分けている。
「それ、ちょっと反則じゃない?」
「何が?」
「そういうこと急に言うの」
「文香だって聞いたじゃん」
「聞いたけど」
文香はショートケーキを一口食べた。スポンジはふわっとしていて、生クリームは思ったより甘かった。苺の酸味が口の中に広がり、文香はフォークを置いて恒一を見た。
「じゃあ、私も一つ言っていい?」
「どうぞ」
「最近、会社で嫌なことがあったとき、早く帰って恒一に話したいって思うことがある」
「うん」
「それって、結構すごいことだと思う」
「俺もそう思う」
「何、その自信」
「俺も文香に話したいこと多いから」
「例えば?」
「今日、上司にめちゃくちゃ怒られた」
「それ、今初めて聞いた」
「だから話したかった」
「じゃあ聞くよ」
恒一は仕事の話を始めた。文香はケーキを食べながら、それを聞いた。途中で恒一が話を脱線させ、文香が「それ結局どうなったの?」と突っ込む。二人は去年の婚姻届の話から、今日会社であったこと、明日の買い物の予定まで、次々と話題を変えていった。
気づけばケーキはほとんどなくなっていた。テーブルには唐揚げの空きパックとポテトサラダの容器、それから二人分の麦茶のグラスが残っている。文香は食器を重ねながら、去年の今日とは違う夜を過ごしていることを考えた。あの日は「結婚した」という事実を眺めていた。今は、目の前にいる人の一日の話を聞きながら、明日の朝の洗濯物のことまで考えている。
「恒一」
「ん?」
「結婚記念日、忘れてたけど」
「うん」
「来年は覚えてようか」
「努力する」
「努力なの?」
「文香も忘れてたじゃん」
「……それはそう」
二人はまた笑った。文香は皿を洗いながら、キッチンの隅に置かれた二人分の歯ブラシを見た。冷蔵庫の中にはプリンが二つあり、洗濯機の上には明日洗う予定のタオルが積まれている。家賃も高いし、光熱費も増えた。家事だって、ときどき揉める。それでも、この部屋には去年の今日にはなかったものが少しずつ増えていた。
洗い物を終えた文香がリビングへ戻ると、恒一がソファから手招きした。
「文香」
「何?」
「こっち来て」
「何するの?」
「テレビ見る」
「それだけ?」
「それだけ」
文香は隣に座った。恒一がリモコンを操作すると、テレビからバラエティ番組の笑い声が流れてきた。文香は少しだけ恒一の肩へ寄りかかった。去年の今日なら、こんなふうに同じソファへ座ることもなかった。
「……一年か」
「うん」
「結婚して一年」
「うん」
文香はテレビを見ながら、小さく笑った。
「来年も、こんな感じかな」
「たぶん」
「それならいいね」
「俺も」
冷蔵庫の中では、明日の朝食べるプリンが二つ、静かに冷えていた。




