第14話 「家族に紹介してください」
第14話 「家族に紹介してください」
土曜日の朝、文香はキッチンで味噌汁の鍋をかき混ぜながら、何度目か分からないため息をついた。今日は恒一の母が新居へ来る日だった。文香は薄いピンクのブラウスに紺色のロングスカートを合わせ、髪を後ろでまとめているが、いつもなら気にしない前髪まで鏡の前で何度も直していた。テーブルには買ってきた羊羹と最中、それから麦茶を入れたガラスのポットが並んでいる。
「そんなに緊張する?」
味噌汁を味見していた恒一が、キッチンの入口から文香を見た。恒一は白いシャツに濃紺のパンツという、会社へ行くときより少しだけきちんとした格好をしている。文香は味噌汁の火を止め、菜箸を置いた。
「するよ。お義母さんに会うの、結婚してからちゃんと会うのは初めてだし」
「前に一度会ったじゃん」
「婚姻届を出す前に駅前で挨拶しただけでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ。しかも五分くらい」
恒一は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップへ注いだ。氷がぶつかってカランと音を立てる。その音を聞きながら、文香は玄関の靴を確認した。二人のスニーカーと文香のパンプスが並んでいる。以前は一人分だった玄関に、今は二人分の靴がある。それを見ていると、今日来るのが恒一の母親なのだという実感が少しずつ増してきた。
「お母さん、別居してたときは何て言ってたの?」
「最初は『結婚したのに別々に住むの?』って」
「やっぱり」
「でも今は一緒に住んでるから、たぶん安心してると思う」
「安心って……」
「母さんからすると、夫婦は一緒に住むものだから」
文香は小さく頷いた。分からなくはない。自分だって以前は、結婚したら一緒に暮らすのが普通だと思っていた。だからこそ、今の生活が普通ではないことを何度も説明するのが少し面倒だった。だが今日は、説明するだけでは済まないような気がして、文香は味噌汁の味をもう一度確認した。
「ちょっと濃いかな」
「俺は好き」
「お母さんは?」
「知らない」
「もう……」
昼前、インターホンが鳴った。文香はエプロンを外し、ブラウスの袖を整えてから玄関へ向かった。ドアを開けると、薄いベージュのカーディガンに花柄のスカートを合わせた恒一の母が立っていた。手には紙袋が二つあり、その中から出汁の香りと、焼き菓子らしい甘い匂いが漂っている。
「こんにちは。文香さん、久しぶりね」
「お久しぶりです。今日は来てくださってありがとうございます」
「まあ、そんなにかしこまらなくていいのよ。これ、家で作った梅干し。こっちはお菓子」
「ありがとうございます」
文香が紙袋を受け取ると、思ったより重かった。中には瓶詰めの梅干しと、密封された煮物まで入っている。母親は玄関から中を覗き込み、靴を脱いだ。
「まあ、きれいにしてるじゃない」
「まだ段ボールが残ってて……」
「それくらい普通よ。引っ越したばかりなんだから」
母親はリビングへ入り、部屋を見回した。ソファの横には読みかけの本が積まれ、テレビ台の下には恒一のゲーム機が置かれている。ベランダには洗濯物が干され、室内には洗剤の柔らかな香りが残っていた。
「本当に一緒に暮らしてるのね」
「はい」
文香が答えると、母親はほっとしたように笑った。以前、別居婚だと聞かされたときには、電話の向こうで何度も「それで大丈夫なの?」と言われた。だから今の部屋を見てもらえば、少なくとも心配は減るだろうと文香は思っていた。
昼食は文香が作った。炊きたてのご飯、豆腐とわかめの味噌汁、鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし、それから恒一の母が持ってきた煮物を小皿に盛った。味噌汁の湯気が上がり、鮭の皮を焼いた香ばしい匂いが部屋に広がる。母親は箸を取ると、まず味噌汁を一口飲んだ。
「おいしいわね」
「ありがとうございます」
「文香さん、料理するのね」
「はい。平日は簡単なものですけど」
「恒一は?」
「俺も作ります」
恒一が答えると、母親は少し驚いた顔をした。
「あなた、料理なんてしてた?」
「一人暮らし長かったから」
「そうだったわね。でも結婚したら、文香さんが作ることが多いんでしょう?」
文香の箸が一瞬止まった。鮭の身をほぐしていた箸先が皿の上で止まり、文香は母親の顔を見た。悪気があるわけではないことは分かる。昔からそういう家庭で育ったのだろう。それでも、以前の自分なら「はい」と笑って終わらせていたと思う。
「うちは、決めてないです」
「決めてない?」
「料理も洗濯も、できるほうがやることにしてます」
「でも、女の人のほうが家事は得意じゃない?」
「人によると思います」
母親は「そうかしら」と首を傾げた。恒一は黙ってご飯を食べていたが、文香の手元をちらりと見た。文香は箸を置き、麦茶を一口飲んだ。冷たい麦茶が喉を通り、少しだけ口の中がさっぱりした。
食事が終わると、母親はテーブルの食器を見ながら、また質問を始めた。文香が皿を重ねようとすると、「私がやるわ」と母親が立ち上がったので、文香は慌てて首を振った。
「大丈夫です。いつものことなので」
「いつものこと?」
「はい」
「じゃあ、恒一は?」
「俺もやるよ」
恒一が皿を持ち上げた。
「ほら」
「あなたが洗うの?」
「洗うよ」
「まあ……」
母親は息子の後ろ姿を見ながら、少し口を開けたまま立っていた。恒一がシンクで水を流し始めると、食器同士が触れる小さな音が響く。文香も隣に立ち、布巾で皿を拭いた。
「じゃあ、子どもはまだなの?」
その言葉で、文香の手が止まった。
恒一も水を止めた。シンクには泡のついた皿が一枚残っている。文香は布巾を握ったまま、以前ならどう答えていただろうと考えた。笑ってごまかすか、「まだです」と短く答えるか。それで済ませてきたことが多かった。しかし今は、二人で暮らし方を決め、少しずつ生活そのものを作っている。子どものことまで周りの基準で決める必要はないと思った。
「まだ、決めてないです」
「そうなの?」
「はい。私たちは、私たちのペースで決めます」
母親は黙った。文香の手の中で布巾が少しずれ、濡れた指が冷えた。恒一が隣で皿を一枚すすいだあと、ゆっくりと母親のほうを振り返った。
「母さん」
「何?」
「文香に普通の妻を求めないでほしい」
母親の顔が変わった。文香も恒一を見た。恒一はシンクの水を止め、濡れた手をタオルで拭いている。
「普通の妻って……私はそんなつもりじゃ」
「分かってる。母さんが悪いって言ってるんじゃない。でも、文香と俺は最初から普通の結婚じゃなかったし、それでうまくいってる」
「でも、あなたたちは一緒に住んでるじゃない」
「一緒に住むことと、文香が家事を全部やることは別だよ」
「……そうね」
「子どものことも、俺たちが決める。母さんに決めてもらうことじゃない」
母親はしばらく黙っていた。文香は自分が何か言わなければと思ったが、恒一の横顔を見て、そのままにした。恒一は普段、母親の言葉を否定することが少ない。実家へ帰ったときも、何か言われれば「そうだね」と笑って流すことが多かった。その恒一が、今日は自分の言葉で話している。
母親はやがて椅子へ座った。テーブルには食べ終わった皿と、少しだけ残ったほうれん草のおひたしがある。窓から入った風でレースのカーテンが膨らみ、テーブルの上の紙ナプキンが一枚だけ床へ落ちた。母親はそれを拾い上げると、指先で折り目を整えながら息子を見た。
「恒一」
「うん」
「あんた、前よりよく喋るようになったわね」
「そう?」
「昔は何を聞いても『別に』しか言わなかったじゃない」
「そうだったかな」
「そうよ。仕事から帰ってきても、自分の部屋に入ったら出てこなかったし」
文香は黙って聞いていた。恒一は少し困ったように笑った。
「今も一人の時間は必要だけどね」
「そういうところは変わらないのね」
「変わらないよ」
母親は文香のほうを見た。文香は何となく背筋を伸ばした。
「文香さん」
「はい」
「この子、家でちゃんと喋ってる?」
「喋りますよ」
「どんなこと?」
「昨日はゲームの話をずっとしてました」
「ゲーム?」
「あと、プリンの話も」
「プリン?」
文香は笑ってしまった。
「恒一、私の好きなプリンを覚えてて、よく買ってきてくれるんです」
「へえ」
「私も買ってきますけど」
「なんだ、二人ともプリンが好きなのね」
「はい」
母親は小さく笑った。文香はその表情を見て、最初に玄関へ入ってきたときよりも肩の力が抜けていることに気づいた。
午後三時を過ぎると、母親は帰る準備を始めた。持ってきた梅干しの瓶は冷蔵庫へ入れ、煮物の容器は洗って返した。玄関では母親が靴を履きながら、何度も部屋の中を振り返っている。恒一は「駅まで送るよ」と言ったが、母親は手を振った。
「いいわよ。近いから」
「でも」
「大丈夫」
母親は玄関のドアへ手をかけたところで、振り返った。文香は隣に立つ恒一を見た。恒一は少し照れたように母親を見ている。
「じゃあ、また来るわ」
「うん」
「今度はお父さんも連れてくる」
「分かった」
母親は一度、文香を見た。それから息子へ視線を戻し、ほんの少し笑った。
「あんたが幸せなら、それでいい」
恒一は何も言わなかった。母親はそのまま階段を下りていった。
ドアが閉まると、文香は玄関に残った二人分の靴を見た。恒一の黒いスニーカーと、自分の白いスニーカーが並んでいる。以前なら、二人分の靴があることさえ少し不思議だったのに、今ではそれがこの家の日常になっていた。
「……お母さん、優しいね」
「うん」
「ちょっと怖かったけど」
「俺も」
「恒一も?」
「母さん、昔からああいう質問多いから」
「じゃあ、今日頑張ったね」
「文香も」
「私?」
「うん」
文香は少し笑った。キッチンから、朝作った味噌汁の出汁の香りがまだわずかに残っている。テーブルには食後の湯飲みが二つ置かれ、洗濯物を取り込む時間も近づいていた。
「ねえ、恒一」
「何?」
「今度、お母さんが来たら一緒にプリン食べようか」
「いいね」
「三個買わないと」
「四個」
「なんで四個?」
「文香が二個食べるから」
「食べないよ」
「前に二個食べたじゃん」
「それは……」
二人は顔を見合わせて笑った。恒一の母が帰ったあとの家は、来る前より少しだけ広く感じられた。けれど文香は、その広さの中に自分たちの生活がちゃんとあることを知っていた。




