第13話 「夫婦なのに、一人になりたい」
第13話 「夫婦なのに、一人になりたい」
土曜日の朝、文香は目を覚ましてから三十分ほど布団の中にいた。カーテンの隙間から白っぽい夏の光が差し込み、エアコンの低い音が一定の間隔で聞こえている。隣では恒一がまだ眠っていて、枕元には昨夜途中まで読んでいた文庫本が開いたまま置かれていた。文香はスマートフォンを手に取ったものの、画面を見る気にもならず、布団の中で足を伸ばしたり縮めたりしながら、今日は一日誰とも話さずに過ごしたいと思っていた。
平日なら朝から着替えて会社へ行き、電車に乗って、人と話して、数字を追いかけている。休日くらいは、洗顔も着替えも後回しにして、古いドラマを流しながら漫画を読んでいたかった。実家にいた頃は、自分の部屋のドアを閉めればそれで済んだし、母が「お昼どうする?」と声をかけてきても、「あとで」と返して布団に戻ることができた。ところが今は、同じ家の中に夫がいる。
「文香、起きてる?」
「……起きてる」
恒一が布団の中で寝返りを打った。文香は反射的に上半身を起こし、髪を手ぐしで整えた。恒一は目をこすりながら時計を見ている。
「今日、どうする?」
「どうするって?」
「どこか行く?」
文香は一瞬、答えに詰まった。恒一は悪気なく聞いているだけだと分かっている。それでも「今日は一人でいたい」と言ったら、せっかく結婚して一緒に住んだのにと思われるのではないか。文香は口元を少し引き締め、ベッド脇に置いていた眼鏡を掛けた。
「……別に、どこでもいいよ」
「じゃあ、昼ご飯食べに行く?」
「うん」
本当は行きたくなかった。けれど文香はそう言わなかった。
午前十時を過ぎると、二人は近所の商店街まで歩いた。文香は白いTシャツに薄いブルーのロングスカート、恒一は紺色のポロシャツとベージュのチノパンを着ていた。八月の道路は照り返しが強く、日傘を持ってこなかった文香の腕にはじわじわ汗がにじんだ。商店街の八百屋からは青臭い野菜の匂いが漂い、魚屋の前では氷の上に並べられたアジから冷たい空気が流れてくる。
「暑いね」
「暑い」
「冷たいもの食べる?」
「いいね」
二人は商店街の小さな喫茶店に入り、文香はアイスコーヒーとナポリタンを頼んだ。恒一はアイスティーとミートソーススパゲッティを注文した。冷房の風が首筋に当たり、汗ばんだ肌が少しずつ冷えていく。文香は運ばれてきたナポリタンをフォークに巻きつけながら、目の前の恒一が楽しそうに今日の予定を考えているのを見ていた。
「このあと本屋行かない?」
「うん」
「そのあと家電量販店」
「うん」
「夕方になったらスーパー寄って帰ろう」
「うん」
文香は何度も「うん」と答えた。ナポリタンは少し甘く、ケチャップの酸味が舌に残った。食べれば食べるほどお腹は満たされていくのに、頭の中には「帰ったら一人になりたい」という言葉がずっと残っていた。
家に戻ったのは午後四時だった。買ってきた洗剤や野菜を片付け、冷蔵庫へ麦茶を入れ、恒一が買った漫画をリビングの本棚へ並べる。そのあと文香はソファに座り、足を伸ばした。テレビでは午後の再放送ドラマが流れていたが、隣には恒一が座っている。恒一は買ってきた新しいゲーム機の箱を開け、説明書を読んでいた。
「文香、これ見て。設定、意外と簡単」
「へえ」
「一緒にやる?」
「うん」
文香はテレビのリモコンを持ったまま、画面を見つめた。ゲームの画面には色鮮やかなキャラクターが動いている。恒一は楽しそうに説明を続けているが、文香は返事をするたびに少しずつ疲れていった。嫌いなわけではない。恒一と一緒にいることが嫌なわけでもない。ただ、何も話さず、誰にも気を遣わず、自分の好きなことだけをしていたかった。
その夜、文香は早めに風呂へ入った。シャンプーの柑橘系の香りが湯気と一緒に浴室へ広がり、熱いシャワーが肩に当たる。文香は髪を洗いながら、昼間から何度も「一人になりたい」と思っていたことを考えた。以前の同棲相手と暮らしていた頃も、同じ部屋にいるのに一人になりたいと思ったことがあった。そのときは、「彼氏なんだから一緒にいるのが普通」と自分に言い聞かせていた。結局、それを繰り返しているうちに、自分が何をしたいのか分からなくなった。
風呂から出ると、文香は薄い水色のパジャマに着替えた。髪を乾かし、冷蔵庫から麦茶を出してグラスへ注ぐ。冷たい麦茶を一口飲むと、喉を通っていく感覚が心地よかった。リビングでは恒一がソファに座り、イヤホンを片耳だけつけてゲームをしている。
「恒一」
「ん?」
「ちょっと話したい」
恒一はゲームを止め、イヤホンを外した。文香はテーブルの前の椅子に座ったが、手元に何かないと落ち着かず、麦茶のグラスを両手で包んだ。冷たい水滴が指先について、文香は親指でそれを何度も拭った。
「私……」
「うん」
「一人の時間が欲しい」
言ってしまうと、部屋の中が急に静かになったように感じた。エアコンの風がカーテンを揺らし、冷蔵庫のモーターが低く唸っている。文香は恒一の顔を見られず、グラスの底に残った麦茶を眺めていた。
「……嫌になったわけじゃないからね」
「うん」
「恒一と一緒に住むのが嫌とかじゃなくて」
「分かってる」
「休日くらい、朝から漫画読んだり、昼寝したり、何も考えずにいたいの」
「うん」
恒一はしばらく黙っていた。文香は「やっぱり言わなければよかった」と思いかけた。そのとき、恒一が小さく息を吐いた。
「俺も」
「え?」
「俺も、一人の時間欲しい」
文香は顔を上げた。恒一は少し照れたように頭を掻いている。
「俺、今日ずっと文香に気を遣ってた」
「気を遣ってたの?」
「うん。せっかく一緒に住んでるんだから、休日に一人でゲームしてたら文香を放ってるみたいかなって」
「……私も」
「本屋行きたいって言ったのも?」
「付き合わなきゃ悪いかなって思ってた」
二人は顔を見合わせた。そして、ほとんど同時に笑った。
「何それ」
「お互い勝手に気を遣ってた」
「じゃあ、今日の外出、どっちも本当は行きたくなかったの?」
「俺は家電量販店だけ行きたかった」
「私は本屋だけ行きたかった」
「じゃあ、商店街まで行った意味ないじゃん」
「ナポリタンは美味しかった」
「それはよかった」
翌週の日曜日、二人は新しいルールを作った。朝から昼までは、それぞれ好きなことをして過ごす。文香は寝室で漫画を読むか、リビングでドラマを見る。恒一は仕事部屋でゲームをするか、ソファで本を読む。昼食だけ一緒に食べ、午後から予定が合えば二人で出かけることにした。
最初の日、文香は朝から薄い黄色のTシャツと短い部屋着のパンツに着替え、布団の上で漫画を読んだ。冷蔵庫には昨夜作ったポテトサラダが残っていて、電子レンジの上には食べかけのせんべいの袋が置いてある。恒一の部屋からはゲームの音が小さく聞こえていたが、文香はそれを気にせずページをめくった。誰かが同じ家にいるのに、自分の時間を自分のために使っていい。そのことが、思った以上に楽だった。
昼になって文香がキッチンへ行くと、恒一がチャーハンを作っていた。フライパンからごま油の香りが立ち上り、刻んだネギが熱で弾ける音がする。恒一はエプロン姿で、右手に木べらを持っていた。
「お昼できたよ」
「何チャーハン?」
「卵とハム」
「いい匂い」
「文香、ネギ入れていい?」
「多め」
「了解」
二人でテーブルに座り、チャーハンを食べた。文香は一口食べてから、少し目を細めた。
「美味しい」
「本当?」
「うん。でも塩がちょっと多い」
「また?」
「私たち、味噌汁もチャーハンも濃いね」
「水飲めばいい」
「そういう問題?」
二人で笑った。午前中に別々の時間を過ごしたからか、話したいことが自然に出てきた。文香は読んだ漫画の話をし、恒一はゲームで失敗した話をした。どちらも相手に合わせる必要がない時間を過ごしたあとだったので、会話が途切れても気まずくならなかった。
午後、文香が洗濯物を取り込んでいると、恒一がベランダへ出てきた。白いタオルには柔軟剤の甘い香りが残っていて、二人のシャツが風でぶつかっていた。恒一が文香のブラウスを受け取り、ハンガーから外す。
「これ、畳む?」
「お願い」
「じゃあ俺がやる」
「ありがとう」
文香は取り込んだタオルを抱えながら、ふと恒一を見た。少し前までは、一緒に住んでいるなら一緒に過ごさなければいけないと思っていた。でも今は、同じ家の中で別々に過ごしても、帰ってくれば相手がいることが分かっている。それだけで十分なのだと思えるようになっていた。
「恒一」
「ん?」
「来週、午前中は一人で映画見ていい?」
「いいよ」
「恒一は?」
「俺、ゲームする」
「じゃあ、昼ご飯は?」
「一緒に食べよう」
「うん」
文香は取り込んだ洗濯物を抱え直した。恒一もタオルを腕に乗せる。二人は別々の部屋へ向かったが、しばらくすると、恒一の部屋から声が聞こえた。
「文香!」
「何?」
「プリン食べていい?」
「私の?」
「違う。俺の」
「じゃあいいよ」
「ありがとう」
「……でも食べたら容器洗ってね」
「はいはい」
文香は笑いながら自分の部屋へ戻った。ドアを閉めると、静かな部屋の中でエアコンの音だけが聞こえた。文香はベッドへ腰を下ろし、読みかけの漫画を開く。さっきまで一緒にいたのに、今は一人でいられる。そして一人でいながら、同じ家のどこかに恒一がいる。
それは、以前の一人暮らしとも、昔の同棲生活とも違っていた。文香はページをめくりながら、次の休日には何をしようかと考えた。少ししてから、恒一の部屋からゲームの音が聞こえ、そのあと小さなくしゃみが一つ聞こえた。
「……風邪ひかないでよ」
文香は独り言のように呟いてから、また漫画へ目を戻した。




