第12話 「家事分担表を作りました」
第12話 「家事分担表を作りました」
日曜日の朝、文香はダイニングテーブルいっぱいに紙を広げていた。薄いグレーの部屋着に着替え、髪を後ろで一つにまとめた文香の前には、ノート、電卓、黒と赤のボールペン、それから昨日買ったばかりの付箋が並んでいる。窓の外では蝉が途切れず鳴いていて、開けた窓から湿った夏の風が入り、洗濯物の柔軟剤の匂いが部屋の中まで流れてきた。恒一はまだ寝室にいて、文香は一人で紙の中央に大きく「家事分担表」と書いた。
文香はペン先を止め、昨日までの生活を思い返した。二人暮らしを始めてから一週間、料理は交代、洗濯も交代、ゴミ出しも交代と決めていたが、細かいところまで決めてはいなかった。すると、いつの間にか文香が洗面台の髪の毛を拾い、トイレットペーパーを補充し、空になった調味料の瓶を洗っていた。以前の同棲相手も最初は「気づいたほうがやればいい」と言っていたが、その言葉の行き着く先が、文香だけが気づく生活だった。だから今回は、最初から曖昧にしないと決めていた。
「よし。全部書こう」
その声を聞きつけて、寝室のドアが開いた。恒一が寝癖のついた髪を手で押さえながら出てくる。白いTシャツに黒い短パンという姿で、眠そうに目を細めたままテーブルの紙を覗き込んだ。
「何してるの?」
「家事分担表」
「会社みたい」
「会社より重要」
「朝から?」
「朝だからできるの」
恒一は笑いながら冷蔵庫を開け、昨日買っておいたプリンを取り出した。文香がちらりと見ると、恒一はスプーンを持ったまま首を傾げる。
「食べる?」
「朝からプリン?」
「昨日、二人で買ったから」
「……食べる」
二人でプリンを食べながら、文香は項目を書き足していった。料理、洗濯、掃除、ゴミ出し、買い物、食器洗い、風呂掃除、トイレットペーパーや洗剤の補充まで細かく分ける。恒一はカラメルをスプーンですくいながら、文香が書く項目を一つずつ確認していた。
「風呂掃除、俺がやる」
「じゃあ月、水、金」
「多くない?」
「二人で住んでるんだから三回くらい普通でしょ」
「じゃあ火、木、土は?」
「私」
「日曜日は?」
「二人でやる」
「風呂掃除を二人で?」
「大掃除」
「なるほど」
文香は表の最後に「日曜:二人で家のリセット」と書いた。恒一がそれを見て、「リセットって何?」と聞くので、文香は「散らかったものを元に戻す」と答えた。テーブルの上にはプリンの空き容器が二つ並び、使い終わったスプーンもまだ置かれている。文香はそれを見て、「こういうのも自分たちで片付けるんだから」と思いながら、二人分の容器を重ねた。
最初の数日は、分担表がうまく機能した。月曜日は恒一が夕飯を作り、文香が洗濯をする。火曜日は文香が料理をして、恒一が食器を洗う。水曜日には恒一が風呂掃除をし、文香がゴミをまとめる。冷蔵庫の横に貼った表には、終わった家事に小さな丸がついていき、文香はその丸を見るたびに少しだけ肩の力が抜けた。これなら自分ばかりがやることにはならないと思えたし、恒一も「今日は俺の番」と言えば自然に動いてくれた。
ところが、木曜日の夜に予定が崩れた。午後八時を過ぎても恒一から帰宅の連絡がない。文香は仕事から帰ってきて、白いブラウスと黒いパンツのまま夕食を作り、炊飯器の蓋を開けた。炊きたてのご飯から湯気が上がり、冷蔵庫には昼間に買った豆腐と豚肉が入っている。時計を見ると午後八時四十分だった。
「今日、ゴミ出しの日……」
文香は冷蔵庫横の表を見た。木曜日のゴミ出し担当には、赤いペンで「恒一」と書かれている。玄関脇にはまとめた燃えるゴミの袋が置かれ、玉ねぎの皮と魚の骨の匂いが少しだけ漏れていた。指定された時間までに出さなければ、次の収集日まで家の中に置いておかなければならない。
「もう……」
文香はスマートフォンを確認した。恒一からのメッセージはまだない。仕事なら仕方ないと頭では分かっている。それでも、ゴミ袋を持ち上げた瞬間、以前の同棲生活で何度も同じことをしていた記憶が急に蘇った。相手はソファでゲームをしていて、「気づいたならやってよ」と笑っていた。文香は仕事帰りのスーツ姿のままゴミ袋を持って階段を下り、戻ってくると夕飯を作った。あのときも最初は一度だけだった。それが二度、三度と続いて、気づけば「やって当然」になっていた。
文香はゴミ袋の結び目を強く握った。
「……また私?」
声に出した途端、自分でも驚くほど低い声になった。結局、文香はゴミ袋を持って外へ出た。夜の道路は昼間より涼しく、アスファルトからまだ昼の熱が上がっていた。ゴミ置き場には近所の家庭の袋がいくつか並び、カラスよけのネットが風に揺れている。文香は袋を置き、マンションへ戻ったが、玄関を開けたところで靴を脱ぐ気にもなれず、その場に立ったまま大きく息を吐いた。
午後十時過ぎ、恒一が帰ってきた。ネクタイは緩み、シャツの肩には電車の中でついたらしい皺がある。玄関に入った恒一は、文香がリビングのソファに座ったまま動かないことに気づいた。テーブルにはすっかり冷めた味噌汁と、ラップをかけたままの豚肉炒めが置かれている。
「ただいま。遅くなってごめん」
「……おかえり」
「今日、ゴミ出しだったよね」
「うん」
「俺、会社出る直前にトラブルがあって……」
「分かってる」
文香はそう答えたが、声は固かった。恒一が上着を脱いでハンガーに掛ける間も、文香はテーブルの上の味噌汁を見ていた。味噌汁の表面には薄い膜が張り、さっきまで湯気を立てていた豆腐がすっかり冷えている。恒一は何も言わずに椅子へ座った。
「文香」
「何?」
「ゴミ、出してくれた?」
「私が出した」
「ごめん」
「うん」
「本当にごめん」
文香はそこで顔を上げた。
「私ばっかりやってない?」
恒一は黙った。文香は言葉を止められなかった。家事分担表を作ったこと、細かく決めたこと、今日は自分がゴミを出したこと、それだけではない。以前の同棲生活で積み重なったものまで、一気に胸の奥から出てきた。
「今日一回だけなのは分かってる。恒一が仕事だったのも分かってる。でも、こういうのが一回で終わるのか、続くのか分からないから、私、最初から表を作ったの。誰が何をやるか決めておけば、私が気づいたからやる、ってならないと思ったから」
「うん」
「前の人も最初はそうだった。忙しいからって言って、私がやって、それが当たり前になった。だから……」
文香はそこで口を閉じた。恒一は言い返さなかった。いつもなら「今日は仕方なかった」と説明するところだろうと思っていたが、恒一はテーブルの上に置かれた文香の手を見ている。指先には洗い物で荒れた小さな赤みがあった。
「……文香」
「うん」
「家事を半分ずつやることより、文香が一人で抱え込まないことのほうが大事だと思う」
文香は瞬きをした。恒一は少し考えてから、言葉を続けた。
「俺が忙しい日に文香がゴミを出してくれたなら、俺は別の日に別のことをやればいい。表の数字をぴったり半分にするより、困ったときに助け合えるほうがいいと思う」
「でも、それだと曖昧になる」
「曖昧にはなるね」
「また私が気づく側になったら?」
「そのときは俺が文香に言ってほしい。『今、私ばっかりやってる』って」
「……そんなこと言っていいの?」
「夫婦なんだから、言っていいんじゃない?」
文香は黙って恒一を見た。玄関から入ってくる風で、洗濯物を干していた部屋のハンガーが小さく揺れている。恒一は冷めた味噌汁を電子レンジへ入れ、温め直している間に豚肉炒めのラップを外した。レンジの低い音が部屋に響き、文香はその横顔を見ながら、家事分担表の赤い文字を思い出した。
「じゃあ、表はどうする?」
「残す」
「残すんだ」
「目安にはなるから。でも、絶対じゃない」
「……それならいいかも」
温め直した味噌汁を恒一がテーブルへ戻す。文香は箸を持ち、少し冷めた豚肉を一口食べた。生姜の香りが口の中に広がり、空腹だったことに気づいた。恒一も隣に座り、遅い夕食を始める。
「ねえ、恒一」
「ん?」
「明日の洗濯、私の担当だけど」
「うん」
「今日、恒一が遅かったから、私がゴミ出ししたでしょ」
「うん」
「明日の洗濯、やってくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、私、寝る」
「おやすみ」
「まだ食べてるでしょ」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
文香は立ち上がり、寝室へ向かった。途中で振り返ると、恒一が豚肉を頬張りながら片手で小さく手を振っている。文香は何も言わずに笑い、寝室のドアを閉めた。
翌朝、文香が起きると、洗面所から洗濯機の音が聞こえた。寝ぼけたままリビングへ行くと、恒一がベランダで洗濯物を干している。白いシャツ、タオル、文香の薄いピンクのブラウスが、夏の朝の風に揺れていた。
「おはよう」
「おはよう。洗濯、やっといた」
「ありがとう」
「昨日の分」
「昨日の分?」
「ゴミ出し」
文香はベランダに出て、干された洗濯物を見た。洗剤の柔らかな香りがして、タオルの端が風で頬に触れる。家事分担表は冷蔵庫に貼られたままだったが、その横には新しく小さな付箋が貼られていた。
『困ったら助ける』
文香はその文字を指でなぞった。
「これ、恒一が書いたの?」
「うん」
「字、汚い」
「朝からひどいな」
「でも、いいかも」
文香は笑って、冷蔵庫を開けた。中には昨日のプリンが一つ残っている。文香はそれを取り出し、半分に分けようとしてから、やめた。
「ねえ、プリン食べる?」
「食べる」
「じゃあ、半分こね」
「いいよ」
二人は小さなプリンを半分ずつ食べた。家事分担表の丸印は昨日から増えていない。それでも文香は、前より少しだけ、この家の中で誰かと暮らすことが分かってきた気がした。




