第11話 「家賃、高すぎない?」
第11話 「家賃、高すぎない?」
引っ越して三日目の朝、文香は段ボール箱をテーブル代わりにして、ノートパソコンを開いていた。まだカーテンの取り付けが終わっていない窓から八月の強い日差しが差し込み、床に置いた扇風機が首を左右に振るたび、洗濯したばかりの白いシャツの裾がかすかに揺れている。文香は薄いベージュのブラウスに紺色のスカートという出勤用の服を着たまま、電卓を叩いていたが、表示された数字を見るたびに眉間へ細い皺が寄った。テーブルの端には、昨夜食べた冷やし中華の容器が洗われないまま置かれており、胡麻ドレッシングの甘酸っぱい匂いがまだ少し残っている。
「……家賃、高すぎない?」
文香が呟くと、キッチンでコーヒーを淹れていた恒一が振り返った。恒一は黒いTシャツにグレーのスウェットという格好で、寝癖の残った髪を片手で押さえながら、紙コップではなく新しく買った白いマグカップへコーヒーを注いでいる。二人で暮らすために借りた部屋は、駅から徒歩十二分、築十八年の二DKだった。広さだけを見れば一人暮らしのワンルームよりずっと快適なのだが、家賃は二人合わせて払うとなると、文香の実家暮らし時代の負担額とは比較にならない。
「今さら?」
「今さらだから言ってるの。家賃だけで月十三万円。それに光熱費、ネット、食費、日用品。ざっくり計算しても、私一人だった頃より毎月かなり増える」
「でも、文香がいる」
恒一はそう言って、コーヒーのマグカップを文香の前に置いた。文香は画面から顔を上げ、恒一の顔を見た。恒一は特に照れた様子もなく、自分の分のコーヒーを飲んでいる。そのあまりに普通の顔がおかしくて、文香は鼻から小さく息を吐いた。
「それ、家賃の話の答えになってないから」
「そう?」
「そう。むしろ、その言い方だと私が家賃みたいじゃない」
「いや、違う。文香がいるから、この部屋を借りてよかったっていう意味」
「……朝からそういうこと言うの、やめて」
文香は視線をノートパソコンへ戻した。けれど、口元だけは少し緩んでいた。コーヒーを一口飲むと、いつも一人で飲んでいたインスタントとは違う、少し苦い香りが鼻へ抜けた。自分で淹れたわけでもないコーヒーを飲むことに、文香はまだ慣れていなかった。
「じゃあ、計算続けるね」
「どうぞ」
「家賃は折半。電気もガスも水道も折半。ネットも折半。食費も折半。日用品も折半」
「うん」
「これなら公平」
「公平だけど、面倒じゃない?」
「面倒でも、揉めるよりいいでしょ」
文香はそう言いながら、ノートの中央に縦線を引いた。左側に「文香」、右側に「恒一」と書き、それぞれの負担額を記入していく。実家にいた頃は、母親に毎月五万円を渡して、それ以外の食費や光熱費を細かく計算したことなどなかった。それでも生活は回っていた。だからこそ文香には、結婚した途端に増えた数字が妙に重たく見えた。隣では恒一がマグカップを両手で持ち、窓の外を眺めている。ベランダにはまだ段ボールが一箱残っていて、その上に二人で買った小さな観葉植物が置かれていた。
最初の問題が起きたのは、その日の夜だった。仕事から帰ってきた文香は、パンプスを脱ぐと玄関の端へきちんと揃え、汗で少し湿ったブラウスを脱いでハンガーへ掛けた。キッチンから醤油と焼いた魚の匂いがして、文香は腹のあたりを手で押さえながら、「今日はちゃんとしたものを食べられそう」と思った。テーブルには白いご飯と味噌汁、それからスーパーで買ってきたサバの塩焼きが並んでいた。
「おかえり」
「ただいま。これ、恒一が作ったの?」
「焼いただけ。味噌汁はインスタント」
「十分じゃない?」
文香が椅子に座ると、恒一が箸を渡した。味噌汁から湯気が上がり、わかめの匂いがする。文香は一口飲んでから、少しだけ首を傾げた。
「ちょっと濃い」
「やっぱり?」
「でも、疲れてるからこれくらいでいい」
二人でサバを食べながら、文香は昼間の計算について話した。食費については月四万円を目標にしようと決め、日用品は月一万円までにすることにした。恒一は「了解」と言いながらご飯を口に運び、文香は骨を箸で丁寧に外していた。
「じゃあ、洗剤とかトイレットペーパーも折半ね」
「うん」
「ティッシュも」
「うん」
「ラップも」
「そこまで?」
「そこまで」
恒一が吹き出した。
「文香、経理部って家でも経理部なの?」
「家だからこそでしょ。会社のお金ならもっと細かいよ」
「夫婦のティッシュまで管理する経理部は初めて見た」
「笑わないでよ。こういうところから曖昧になるんだから」
翌朝、文香は洗面所で歯を磨きながら、昨日買ったティッシュ箱が妙に小さくなっていることに気づいた。箱を持ち上げてみると、残りは半分ほどしかない。文香は鏡に映った自分の顔を見ながら、昨日までなら気にもしなかったことが気になっている自分に気づいた。
「恒一、ティッシュ使った?」
「使ったよ」
「昨日、新しいの開けたばかりなのに」
「花粉症じゃないけど、鼻かんだ」
「……一日でそんなに?」
「三回」
「三回なら別にいいじゃん」
「じゃあ、何が問題なの?」
恒一の声が背後から聞こえ、文香は歯ブラシを口に入れたまま振り返った。恒一は寝室から出てきたところで、白いシャツのボタンを留めながらこちらを見ている。
「問題じゃない。確認しただけ」
「文香、俺がティッシュを使った回数を数える夫婦生活は嫌だな」
「……私だって嫌だよ」
言ってから、文香は黙った。確かにそうだった。家事を押し付けられるのが嫌で、生活を細かく管理すれば安心できると思っていた。しかし今やっていることは、相手を疑っているわけではないのに、まるで一緒に暮らす相手の行動を監査しているようだった。洗面所の小さな窓から入ってくる朝の風が、湿ったタオルを揺らしている。文香は口をゆすぎ、白い泡を洗い流した。
「……ごめん」
「俺もごめん」
「何で恒一まで謝るの?」
「なんとなく」
「そこは謝らなくていいと思う」
「じゃあ、二人とも謝らない」
「それでいい」
その夜、二人は食後に家計簿をつけていた。文香のノートには、家賃、電気代、水道代、ガス代、食費、洗剤、トイレットペーパー、ゴミ袋と細かな項目が並んでいる。恒一がスマートフォンを見ながら「スーパーで買った豆腐、俺が食べたから三十円払おうか」と言うと、文香は思わず顔を上げた。
「三十円?」
「だって俺が食べた」
「じゃあ、その前に私が食べた卵一個は?」
「いくら?」
「二十円くらい」
「じゃあ二十円もらおうかな」
二人はしばらく黙った。
それから、同時に笑った。文香はペンを机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。窓の外では、近所のマンションから子どもの笑い声が聞こえ、そのあと自転車のブレーキがキュッと鳴った。テーブルの上には食べ終わったヨーグルトのカップと、スーパーでもらった小さなレシートが置かれている。
「なんか変だね」
「うん」
「結婚したのに、卵一個二十円を請求しようとしてる」
「合理的ではある」
「合理的だけど、楽しくない」
「じゃあ、やめる?」
恒一が尋ねた。文香はしばらく考えたあと、家計簿を閉じた。
「全部折半じゃなくて、生活費用の口座を作ろう」
「それがいい」
「毎月二人で決まった金額を入れる。そこから家賃とか食費とか払う。余ったら翌月に繰り越す」
「文香らしい」
「何よ」
「ちゃんと現実的なのに、さっきより少し柔らかい」
「……褒めてる?」
「褒めてる」
翌日の帰り道、文香は駅前のスーパーに立ち寄った。仕事帰りの店内には冷房が効いていて、汗ばんだ首筋に冷たい空気が当たる。惣菜売り場から揚げ物の香ばしい匂いが漂い、文香のお腹が小さく鳴ったが、今日は夕飯を作る約束だったので、焼き鮭と豆腐、それから小松菜を買った。レジを終えて袋を持ち上げたとき、冷蔵コーナーの端にある小さなプリンが目に入った。
文香は足を止めた。子どもの頃から好きだった、昔ながらのカスタードプリンだった。蓋の端に小さなカラメルソースの絵が描かれている。値段を見ると、一個百三十八円だった。
「……百三十八円か」
文香は少し迷ってから、それを一つ買った。家に帰ると、恒一はまだ帰っていなかった。文香は米を研ぎ、味噌汁を作り、鮭を焼いた。炊飯器から立ち上る湯気に醤油の香りが混じり、狭いキッチンの窓が少し曇った。食事を終え、洗い物まで済ませたところで玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おかえり」
「疲れた……」
恒一はネクタイを緩めながらリビングへ入り、コンビニの小さな袋をテーブルに置いた。文香はそれを何気なく見た。恒一は靴下を脱ぎ、ソファに座ると袋から何かを取り出した。
「これ」
「何?」
渡されたのは、文香がさっきスーパーで買ったものと同じプリンだった。文香は一瞬、言葉が出なかった。
「今日、スーパーで見かけて。文香、好きだったよね」
「……覚えてたの?」
「前にファミレスで食べてたじゃん。結婚届出した日」
文香はプリンを受け取った。冷たい容器が手のひらに触れ、ほんの少し水滴がついている。あの日も二人で同じプリンを食べた。婚姻届の控えをテーブルに置いて、戸籍が変わったという事実だけを眺めながら、「なんか実感ないね」と笑ったことを思い出した。
「私も今日、買ってきた」
「え?」
文香は冷蔵庫を開け、自分が買ったプリンを取り出した。恒一が目を丸くする。
「じゃあ二個あるじゃん」
「二個じゃないよ」
「四個?」
「二人で二個ずつ」
「食べすぎじゃない?」
「今日はいいの」
文香は笑いながら、冷蔵庫へプリンを戻した。家計簿を考えれば、百三十八円のプリン二個はなくても困らない。実家にいた頃なら、母親が買ってきたプリンを冷蔵庫から勝手に取って食べていた。けれど今は、誰かが自分の好きなものを覚えていて、帰り道に買ってきてくれる。
それは家賃の明細には書けない。光熱費にも食費にも含まれない。文香は冷蔵庫の扉を閉めると、リビングへ戻った。
「恒一」
「ん?」
「……明日もプリン買ってきて」
「いいけど、毎日?」
「毎日は嫌。太るから」
「じゃあ、たまにね」
「うん」
恒一が笑った。文香も笑った。テーブルの上には閉じたままの家計簿があり、その隣には洗濯物を畳むための小さな籠が置かれていた。まだ片付いていない段ボールも一つ残っている。完璧とは程遠い部屋だったが、文香はその散らかった景色を見ながら、明日の朝もここで目を覚ますのだと思った。
「……家賃、高いけど」
「うん」
「まあ、今月は払ってみようか」
「何、その言い方」
「経理部だから」
「じゃあ俺は、プリン担当で」
「それは家計簿に入れなくていいよ」
恒一が笑い、文香もつられて笑った。二人の新生活は、まだ始まったばかりだった。




