第20話 結婚って、こういうことかもしれない
第20話 結婚って、こういうことかもしれない
文香と恒一が婚姻届を出してから、二年がたった。結婚記念日の朝、文香は白いブラウスに紺色のパンツを合わせ、台所で鮭を焼いていた。魚焼きグリルから脂の焦げる匂いが立ち、炊飯器からは白い湯気が上がっている。恒一は灰色のパーカーに黒いスウェット姿で食卓に座り、寝癖のついた髪を片手で押さえながら、二人の共有カレンダーを見ていた。
「今日、結婚記念日だね」
「知ってる。カレンダーに入れたのは私だよ」
「通知が三回も来るようになってる」
「去年、二人とも忘れたから」
「朝、昼、夕方か。忘れる隙がないね」
「去年はスーパーのケーキ売り場で思い出したでしょう。今年は同じ失敗をしません」
文香は鮭を皿へ移し、冷蔵庫から大根おろしを出した。昨夜のうちに恒一が作ったものだが、大根の水分を絞りすぎて、小さな雪玉のように固まっている。文香が箸で崩していると、恒一が味噌汁の鍋をのぞき込んだ。
「これ、昨日の?」
「昨日の夜に作ったから、まだ大丈夫」
「豆腐が少し黄色いよ」
「油揚げの色が移っただけ。心配なら恒一の分だけ沸騰させる」
「文香は?」
「私はそのままでいい」
「じゃあ、俺もそのままでいい」
「おなかを壊しても会社を休まないでね」
「結婚記念日に冷めた味噌汁で夫婦そろって休むのも、思い出にはなるよ」
「そんな思い出はいりません」
二人は冷めた味噌汁を電子レンジで温め直した。回転皿の端に昨夜のソースが一滴こびりついており、文香は扉を開けるたびに気になったが、平日の朝に掃除する余裕はない。恒一は鮭の皮を文香の皿へ移し、自分の皿から骨の少ない身を一切れ返した。
結婚して二年たっても、二人の財布は別だった。家賃と光熱費は収入に応じて負担し、食費は共有口座から出している。文香が買う高価な化粧水も、恒一が契約しているゲームの料金も、それぞれ自分の口座から払う。母からは「夫婦なのに面倒でしょう」と言われたが、二人にとってはその距離がちょうどよかった。
「今月、電気代が上がってる」
「俺のパソコンかな」
「先月より三千二百円高い」
「半分出すよ」
「恒一が全部使ったわけじゃないでしょう。私も浴室乾燥を二回使ったし」
「雨が続いたから仕方ないよ」
「だから、いつもどおりの割合でいい」
「了解。では、俺は今日、洗濯物を干します」
「電気代と関係ある?」
「ない。でも、昨日は文香が干したから」
家事も完全な半分ではなかった。恒一が残業した日は文香が食器を洗い、文香が早く出勤した朝は恒一がゴミを出した。忙しい週には二人とも掃除機をかけるのを忘れ、ソファの下から丸まった靴下が三足も見つかったことがある。以前の文香なら誰の仕事が一回多いか数えていたが、今は数える前に、自分にできるほうをする日が増えていた。
「今夜、何時に帰れそう?」
「六時半には出たいけど、月末だから分からない。恒一は?」
「在宅勤務だから、夕方には終わると思う」
「先に食べていていいよ」
「結婚記念日なのに?」
「待たれるほうが焦るから。帰る時間が分かったら連絡する」
「じゃあ、先に何か作っておく。希望は?」
「普通のものでいい」
「結婚記念日に普通のものって難しいね」
「カレー」
「ものすごく普通だ」
「ジャガイモを大きく切らないでね」
「努力します」
朝食を終えると、文香は玄関で黒いパンプスを履いた。恒一が寝癖のついたまま見送りに来て、曲がっていたブラウスの襟を指で直した。文香はその手を軽く払い、代わりに恒一のパーカーへついていた鮭の小骨を取った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。何かあったら連絡して」
「何もなくても連絡するよ」
「うん。待ってる」
会社では、午前中から月末の処理が続いた。文香の机には請求書と付箋が積まれ、飲みかけのほうじ茶は昼前には冷たくなっていた。先月発生した海外送金のトラブルは、取引先と銀行の協力で翌日に解決し、部品の出荷も止まらずに済んだ。現在は口座情報を変更すると自動で承認者へ通知が届く仕組みが作られ、文香だけでなく二人の担当者が申請書と照合することになっている。
「高瀬さん、これ、確認をお願いします」
佐藤が新しい送金一覧を持ってきた。青いカーディガンの袖には、昼食のカレーうどんで飛ばしたらしい黄色い染みがついている。文香は取引先名、金額、口座番号を申請書と照らし合わせ、確認欄へ印をつけた。
「大丈夫。佐藤さんも確認済み?」
「はい。三回見ました」
「三回は見すぎ。集中が切れるから、決めた手順で一回ずつ確認して」
「でも、また間違えたらと思うと」
「一人が絶対に間違えない仕組みを作るんじゃないの。誰かが間違えても、次の人が気づける仕組みにするの」
「高瀬さんも、もう気にしていませんか?」
「気にはしてる。でも、一人で全部防げるとは思わなくなった」
自分の口から出た言葉に、文香は少しだけ手を止めた。会社の仕事も、夫婦の生活も、一人で間違えないようにするより、間違えたときに誰かへ話せることのほうが大切なのかもしれない。文香は書類を佐藤へ返し、机の引き出しに入れていた小さなチョコレートを一つ渡した。
「今日は残業しないでね」
「高瀬さんもですよ。結婚記念日なんでしょう?」
「どうして知ってるの?」
「さっき、スマートフォンの通知に大きく出ていました」
「見えた?」
「『結婚記念日を忘れない』って」
「忘れないための通知だから、正しいの」
午後六時四十分、文香は会社を出た。恒一へ「今から帰る」と送ると、すぐに「カレー完成。ジャガイモは小さめ」と返ってきた。文香は駅前のスーパーへ寄り、酒売り場とケーキ売り場の間を二度往復した。
特別な夜らしい買い物をしようと考えたが、高価なワインは二人とも飲み切れない。生クリームの大きなケーキも、食べたあとで胸焼けするのが分かっていた。文香は結局、恒一が好きな塩味のポテトチップスと、箱入りの小さなチーズケーキを籠へ入れた。
冷蔵売り場を通ると、固めに焼いたプリンが並んでいた。いつも恒一が買ってくる商品で、今日は二個買うと三十円引きになっている。文香は手を伸ばしかけたが、「家にあるかもしれない」と思い直して戻した。
外へ出ると、春先の風が薄いコートの裾を揺らした。総菜店から揚げ物の匂いが流れ、仕事帰りの人たちが足早に駅へ向かっている。文香は紙袋の中でチーズケーキが傾かないよう、両手で持ち直した。
玄関を開けると、カレー粉と炒めたタマネギの匂いがした。恒一は緑色のチェック柄のエプロンを着け、洗濯物を一枚ずつ畳んでいる。ソファには白いシャツ、タオル、靴下が小さな山を作り、テレビでは天気予報が流れていた。
「ただいま」
「おかえり。予定より早かったね」
「途中でケーキを買ってきた」
「俺もデザートを買った」
「まさか」
文香は靴を脱ぎ、冷蔵庫を開けた。棚の中央に、固めのプリンが二個並んでいた。その隣には、恒一が昼に買ったらしい牛乳と、使いかけの福神漬けが置かれている。プリンの一つには「文香」、もう一つには「恒一」と黒いペンで書いた付箋が貼られていた。
「また買ったの?」
「文香、好きだろ」
「私も買おうとしたんだよ。でも、家にある気がしてやめた」
「どうして分かったの?」
「二年間も買い続けてるから」
「二年間、毎週買ってるわけじゃないよ」
「家計簿を見れば回数まで分かるけど、調べる?」
「怖いからいい」
食卓には白い皿とスプーンが二組並び、鍋の中ではカレーが温められていた。恒一が切ったジャガイモは確かに小さかったが、ニンジンは妙に大きく、厚さもばらばらだった。文香が一つをスプーンで割ると、中心が少し硬い。
「ニンジンは大きいね」
「ジャガイモだけを小さくと言われたから」
「普通、ほかの野菜も合わせるでしょう」
「仕様書にありませんでした」
「結婚三年目の目標は、言われていないことも考える、にしようか」
「難易度が高いな」
恒一は福神漬けを自分の皿へ多めにのせた。文香はカレーを一口食べ、少し辛いと思ったが、水を飲めばちょうどよかった。タマネギは形がなくなるまで煮込まれ、豚肉は底へ沈んでいる。
「これ、いつから作ってたの?」
「昼休みにタマネギだけ炒めた」
「仕事は?」
「ちゃんとしたよ。会議中は煮込んでただけ」
「火をつけたまま会議したの?」
「弱火です」
「そういう問題じゃないよ」
「次からは電気圧力鍋を使います」
結婚記念日の夕食は、高級なレストランでも手の込んだ料理でもなかった。少し硬いニンジンの入ったカレーを食べ、途中で恒一が洗濯物の靴下を片方なくしたと言い出した。二人でソファの下をのぞくと、なくした靴下ではなく、先週から探していたテレビのリモコンが見つかった。
「どうしてこんなところに入ったの?」
「文香が落としたんじゃない?」
「最後に使ったのは恒一でしょう」
「俺はテーブルへ置いた」
「そのテーブルから物を落とすのも恒一だよ」
「では、共同責任で」
「便利な言葉を覚えたね」
食後、二人はチーズケーキを半分ずつ食べ、プリンは翌日に残した。恒一が食器を洗い、文香は乾いた洗濯物を畳んだ。恒一の靴下を丸めようとすると、片方が裏返しになっている。
「また裏返し」
「ごめん。今、直す」
「もう私が直した」
「ありがとう」
「次は自分でやってね」
「はい」
以前の文香なら、家事を一回多くしたことを頭の中の帳簿へ記録していた。けれど今日は、恒一が昼休みにタマネギを炒めた時間も、駅前でプリンを選んだ数分も、数字にして比べる気にはならなかった。文香が洗濯物を一枚多く畳み、恒一が食器を一枚多く洗う。その日ごとに傾く天秤を、毎晩きっちり水平へ戻さなくても、二人の生活は続いていた。
午後十時を過ぎると、恒一は仕事で使う資料を読むため、小さな机へ向かった。文香はソファに座り、会社から持ち帰った経理の専門誌を開いた。テレビでは二人とも興味のない動物番組が流れ、温泉につかるカピバラが映っている。
「カピバラって、どうしてお風呂に入るんだろう」
「前にも同じこと聞いたよ」
「答え、何だった?」
「寒さに弱いから。南米の暖かい地域に住む動物だから、日本の冬は寒いんだって」
「よく覚えてるね」
「同じソファで検索したからね」
恒一は机から立ち上がり、文香の隣へ座った。二人の間には、クッション一つ分の隙間が空いている。別々の本を読み、別々の飲み物を飲み、ときどき同じテレビを見る。毎日同じ時間に帰るわけでも、必ず同じ部屋で眠るわけでもないが、二人はそれを夫婦らしくないとは思わなくなっていた。
「この前、母にまた言われたよ。実家へ戻れば五万円ですむって」
「まだ諦めてなかったの?」
「私の部屋だったところを片づけ始めたらしい」
「扇風機は?」
「四台から三台になった」
「一台は捨てたんだ」
「近所の人にあげたって。壊れているのに」
「もらった人、困ってないかな」
「お父さんがコードだけ直したらしいよ」
「急に働いたね」
文香は笑い、冷蔵庫のほうを見た。中には明日食べるプリンが二つあり、冷凍庫には鮭とシイタケが入り、野菜室には使いかけのキャベツが残っている。玄関には二人分の傘があり、洗面所には色違いの歯ブラシが並んでいる。どれも高価なものではないが、この部屋で二人が暮らしてきた時間を示していた。
「実家なら五万円ですむのになあ」
「じゃあ、五万円じゃ買えないものをここで作ろう」
「何それ。記念日に言うために考えてたの?」
「今、思いついた」
「ちょっと格好つけたでしょう」
「少しだけ」
「五万円じゃ買えないものって、何?」
「プリンを二個並べておく習慣とか」
「プリンは六百円くらいで買えるよ」
「帰ってきたときに『おかえり』と言う人」
「実家でも言ってくれる」
「焦げた鮭の黒いところを食べる係」
「それは恒一しかいないね」
文香は少し考えてから、二人の間にあったクッションを床へ下ろした。身体を寄せ、恒一の肩へ頭を預ける。恒一は驚かず、テレビの音量を一つ下げた。
婚姻届を出した日、二人は同じ家に住むことさえ望んでいなかった。財布を一つにしなくても、毎日会わなくても、戸籍だけ共有すれば十分だと考えていた。その選択が間違っていたわけではない。二人には、誰かと暮らす前に、自分の部屋と時間を守る期間が必要だった。
別居婚から始めたからこそ、同居を当たり前と思わず、自分たちで選ぶことができた。家事の負担に偏りが出れば話し、一人になりたければ別の部屋へ行き、子どものことは結論が出なくても話し続ける。どちらかが仕事で失敗した日は、解決できなくても温かいうどんを作り、駅まで迎えに行く。それが正しい夫婦の形なのかは分からなかったが、二人に合った形ではあった。
「結婚って、こういうことかもしれないね」
「どういうこと?」
「一緒に住むことでも、財布を一つにすることでもない。毎日、同じことをすることでもない」
「では、何でしょう」
「この人となら、明日も一緒に考えていけるって思えること」
「いいこと言うね」
「月に二回くらいは言うよ」
「週二回会っていた頃より減ってない?」
「回数より中身が大事なの」
恒一は笑い、文香の頭が落ちないよう肩の位置を少し変えた。テレビの中では、温泉から上がったカピバラが身体を震わせ、水滴を周囲へ飛ばしている。テーブルには食べ終えたチーズケーキの皿が残り、流しには洗ったばかりのカレー鍋が伏せてあった。
「……まあ、悪くないかもね」
「何が?」
「結婚」
「最初はコスパが悪いって言ってたのに」
「今でも悪いよ。家賃は高いし、食費も光熱費もかかるし、恒一はニンジンを大きく切るし」
「それは次から改善します」
「洗濯物も裏返しのまま出す」
「そちらも努力します」
「でも、帰りたいと思う家になった」
恒一はすぐには答えず、文香の手へ自分の手を重ねた。指先には、食器用洗剤の匂いがわずかに残っている。文香はその手を握り、明日の朝食に何を食べるか考えた。
「明日、プリンを食べよう」
「朝から?」
「結婚記念日の翌日だから、特別」
「記念日を一日延ばすの?」
「二個あるからね」
「では、コーヒーを入れます」
「牛乳、多めにして」
「了解しました」
二人の生活は、これからも合理的ではない。家賃が上がれば何を削るか相談し、家事が偏れば分担を変え、答えの出ない問題は何度でも食卓へ持ち出すだろう。それでも二人は、五万円では買えないものを、この狭い部屋で一つずつ作っていく。
文香は恒一の肩へもう少し深く寄りかかった。テレビのの音、冷蔵庫のモーター、ベランダで揺れる洗濯物の音が、いつもの夜を作っている。戸籍だけだった二人の結婚には、もう書類の余白へ収まらないほどの中身が詰まっていた。




