余話第1話 理の来訪者
龍谷山の奥深く。かつて人族に“捨てられた場所”だったこの地は、今や龍族の里として息づいている。
人の声はない。笑いも、喧騒も、浅ましい争いすらも、ここでは希薄だ。ただ、風の音と、穏やかな呼吸と、個としての存在だけがある。
───静寂。
それは安らぎであり、同時に、外界からの逃避でもあった。更紗は、鏡のような水面を見つめていた。白銀の光は、もう完全に制御下にある。あの夜のように、怒りに任せて暴走することはない。だが───。
(……静かすぎる)
心の奥底、澱のように沈殿した何かが、時折、微かに軋む。それが何なのか、彼女は決して言語化しない。する必要がないからだ。
隣には、馨尚がいる。それで十分だった。言葉を交わすことは少ない。互いの領域に干渉もしない。ただ、あの地獄のような夜を共有したという一点のみが、鋼のような繋がりとなって二人を縛っている。
───共犯者。
それ以上でも、それ以下でもない。それで良かった。それで、完成していたはずだった。
異変は、風の温度でわかった。肌を刺すような、異質で、絶対的な冷気。次の瞬間、里の中央に“それ”は立っていた。
白。ただ、白。透き通るような白髪に、焦点の合わぬ淡い銀の瞳。すべてを見透かしているようでいて、何者にも興味を抱いていない、空虚な視線。
「……誰」
更紗が問う。だが、男は答えない。代わりに、検品でもするかのように更紗を凝視し、ゆっくりと口を開いた。
「確認する。貴殿が現存する唯一の光龍個体か」
声には感情がない。抑揚も、温度も、何一つ。ただ“事実”を並べるためだけの音。
「……そうよ。それが何」
「了解した」
それだけで納得したかのように、男───皓は、わずかに首を傾げた。そして、呼吸をするのと同じ自然さで、断言した。
「では、交配を提案する」
空気が、一瞬で凍りついた。
「……何を、言っているの」
更紗の声が、怒りとは別の、理解不能なものへの拒絶で低くなる。
「説明が不足していたか」
皓は、淡々と言葉を継いだ。
「光龍は絶滅危惧種である。貴殿と私以外の生存個体は確認されていない。ゆえに、因子の保存は最優先事項となる。貴殿の個としての意思に興味はない。ただ、次代へ繋ぐこと。それが我々に課された唯一の機能だ」
その瞬間、更紗の脳裏にあの村の景色が蘇る。
───供物。
───生贄に選ばれた“理由”。
───押し付けられた“役割”。
似ている。あまりにも。形を変えただけで、本質は同じだ。目の前の男は、更紗を「一柱の龍」ではなく、ただの「媒体」として定義している。
「……そう」
更紗は静かに目を伏せた。拒絶もしない。否定もしない。だが、受け入れることもしない。その冷ややかな沈黙を、皓は「合理的判断への移行」と解釈したのか、装置のようにその場に佇み続けた。
同じ頃。里の外縁で、大地を力任せに踏み砕く音が響いた。重い衝撃。そして、獲物を追い詰めた獣のような笑い。
「───随分と、湿った空気だな」
振り返った馨尚の前に立っていたのは、黒。黒曜石のような髪。燃え上がるような金色の瞳。その立ち姿だけで、生存本能の塊であることがわかる。
「……誰だ、貴様は」
馨尚の問いに、女は愉しげに口角を上げた。
「忘れたか? それとも、奪われた拍子に知能まで失ったか」
一歩、間合いを詰める。
「貴様と同じ血だ、馨尚」
名を呼ばれた瞬間、馨尚の周囲に殺気が渦巻いた。
「……黒龍か」
「そうだ。熾だ」
名乗りながら、彼女は馨尚を上から下まで、剥き出しの視線で値踏みする。
「なるほど。確かに“形”は残っているようだな。だが……」
「……何をしに来た」
「簡単だ。種を残しに来た」
あまりに直球。そして、剥き出しの挑発。
「黒龍が減っている。貴様も知っているだろう。だが、問題はそこじゃない」
熾はさらに踏み込み、馨尚の胸元に指先を突き立てた。
「一度、人に屈し、逆鱗を奪われた個体が、まだ“雄”として機能するのか。私はそれを見極めに来た」
空気が爆ぜるような緊張。
「……言いたいことは、それだけか」
低く、地這うような馨尚の声。怒りは確かにある。だが、噴火しない。それが、熾にはひどく滑稽に見えたらしい。
「いいや、これからだ」
彼女は獣のように笑う。
「貴様のその“淀み”。あの白い女との、傷の舐め合いだろう? 共犯者の匂いだ。だが───それだけだ。それは停滞だ。腐るぞ、そのままでは」
そして、馨尚の耳元で残酷に囁いた。
「私が、新しい逆鱗になってやる。誇りも、本能も、全部叩き込んでやる。───黒龍としてな」
その夜。里の静寂は、音を立てて崩れ始めていた。
皓と熾。
理と本能。
冷たい義務と、剥き出しの生。
更紗と馨尚は、互いに何も言わなかった。視線すら交わさない。だが、わかっている。これは“選択”を迫るものだと。
かつて更紗は“供物”として選ばれた。
馨尚は“奪われた側”だった。
そして今、二人は再び“役割”を突きつけられている。
今度は───人としてではなく、龍として。静寂は、もう戻らない。理が、ここに来た。それだけで、十分だった。




