後日譚:比良坂 ~神罰を観測する者~
その村の名を、最初に聞いたのは冬の終わりだった。人が出入りできない村がある、と。結界ではない。呪詛でもない。境界を越えようとした者が、熱も持たぬ青白い炎に焼かれ、音もなく炭になる───ただそれだけの現象。安倍晴明の術系を継ぐ比良坂の名において、解けぬ呪いなど存在しないと信じ、私は地獄へ足を踏み入れた。
村の外縁に辿り着いたとき、最初に感じたのは「静けさ」だった。遠目には稲穂の揺れる穏やかな農村。だが、一歩境界へ近づいた瞬間、私は息を呑んだ。
地面には、幾重にも重なった黒い輪郭が焼き付いている。逃げようと手を伸ばした姿勢のまま固まった焦げ跡。膝から崩れ落ちた形。そして、親の足元に転がる、あまりに小さな、幼い体躯の影。土に染み込んだ炭の匂いが、風に乗って鼻腔を刺した。
「……結界ではないな」
霊視を開く。術式構造、なし。怨霊反応、皆無。代わりに見えたのは、世界そのものが「ここまで」と線を引いている『理』だった。
「やめときな、陰陽師さん」
背後から、隣村の老人が吐き捨てるように言った。
「中の連中はな、神罰を受けてる最中なんだよ。更紗という娘を理不尽に追い詰めた、報いさ。あそこは隔離された地獄なんだ」
私は迷わず答えた。「必ず、助けてみせます」そのとき、老人は初めて私を哀れむ目で見た。
村へ入った私を、村人たちは「仏様」と崇め、跪いた。その中で、一人の少女が前へ出た。赤ん坊を抱いた楓だった。
「私は何もしてないの。……私は巻き込まれただけ」
彼女の涙は美しかったが、その瞳の奥にはどろりとした他罰の念が渦巻いていた。
「更紗が、あの生意気な女が勝手に私たちを恨んでるだけ。私はあの子に優しくしてあげた『こともある』のに……!」
彼女が抱く赤ん坊を霊視し、私は戦慄した。その子は生命の輝きを持たず、ただ母の負の感情を吸い上げるための「泥留め」として扱われていた。母が悔い改めぬ限り、長くは生きれぬ。
七日。ありとあらゆる秘術を尽くしたが、すべては無効。
村の中央、花が手向けられた場所で、私は核心に触れた。これは呪いではない。過不足のない均衡だ。村人が積み重ねた欺瞞と、焼失する命の価値が完全に一致している。歪みがないからこそ、術で干渉する余地がない。「正しい結果」を、人間が覆せるはずもなかった。
「この現象は、私の力では解けません。皆が罪を認め、悔い改めない限り……」
私が告げた瞬間、楓の表情から光が消えた。
「……は? 役立たず」
露骨な嫌悪。背後で村人たちの崇拝が凍りつく。
「結局あんたも更紗と同じ。期待させて裏切って、私をここに閉じ込めて楽しんでるんでしょ! 私の人生が台無しよ!」
彼女は私を一瞥もせず、赤ん坊を一層強く抱き、去っていった。
「全部、あの陰陽師が役立たずなせいだわ」
それから、私は村の片隅で座るだけの存在になった。毎日、誰かが境界へ走り、青白い炎に焼かれて炭になる。
隣村の人々はそれを当然の景色として眺め、楓は「あーあ、今日も死んだ」と欠伸をする。その言葉は私を呪った。私はこの場を離れることは叶わなくなったのだ。
私は懐から紙を取り出し、筆を走らせた。この絶望的な均衡を、神罰の記録を、後世に残さねばならない。ふと、外に置いてきた妻と子の顔が浮かぶ。
「……ああ、よかった」
この「理」は、罪なき彼女たちには決して及ばない。それが唯一の救いだった。───いつか、この村から一歩を踏み出し、自らの業を認め、炎に焼かれながらも他者のために祈れる者が現れることを願って。私は手記を石の下に隠し、静かに目を閉じた。
おおよそ百年後、かつて村があった場所は、今や草木も生えぬ荒野となっていた。幕府から派遣された役人・小野寺は、立ち入り禁止区域となっていたその場所で、風化した石積みの下から一冊の腐食した手記を発見する。
「……これは、忽然と消えたという、希代の陰陽師比良坂殿の……?」
手記には、当時の凄惨な記録と、更紗という少女の悲劇、そして村人たちの歪んだ心が克明に記されていた。小野寺は周囲を見渡す。そこには今も、不自然に地面に焼き付いた「人の形の焦げ跡」が残っている。
「村人全員が死に絶えるまで、神罰は止まなかったということか……」
最後の一人が、自分の罪を認めることはついに無かったのだ。小野寺がふと境界の跡に目を向けると、陽炎の向こうに、青白い炎が一瞬だけ揺れた気がした。それは、百年経っても消えることのない、清冽で残酷な「理」の残滓だった。




