前日譚:馨尚~奪われた名と偽りの神域~
雨は、祝福のはずだった。三百五十年前、若き黒龍だった俺───晏竜馨尚は、人の姿を取り、飢餓に喘ぐ山裾の村に降り立った。土は割れ、井戸は枯れ、子どもは泣く力すら失っていた。だから俺は、迷わずに自らの魔力を分け与えた。人は恩を知る生き物だと、疑いもせずに。
雨を降らせた夜、村人たちは泣いて感謝し、中心にいた男───征人は、誰より深く頭を下げた。「あなたを、兄のように敬います」というその言葉を、俺は愚かなほどに信じてしまった。
土地は蘇り、人は笑った。征人は毎晩、酒を持ってきては「人と龍が共に生きる国」の夢を語った。俺はそれを、守るべき友の言葉として聞いていた。
───あの夜までは。
「旅立つのか?」と問う征人と杯を交わした。酒は妙に重く、次の瞬間、俺の喉は焼けた。力が抜け、視界が崩れる中で征人は笑っていた。
「龍よ。お前は優しすぎた」
背後から祈祷師・孤白が現れ、地面の術式が光る。身体が動かぬまま、刃が喉元へ差し込まれた。龍の絶対の急所───逆鱗。それを引き剥がされる瞬間、俺の魂は裂け、叫びは声にならなかった。
「この力は村のものだ」
征人は血に濡れた鱗を掲げ、宣言した。その傍らでは、強力な呪術の代償として、祈祷師の孤白は事切れていた。だが、征人はそれを気にも留めず、高笑いをしていた。
「今日より我らは晏竜。龍に選ばれし一族だ」
姓まで奪われ、名もなき龍へと突き落とされた俺は、その日、龍でも人でもなくなった。
洞窟に縛られた最初の百年。俺はまだ、いつか子孫が過ちに気づくと信じていた。だが、やってきたのは祈りではなく、泣きながら押し込まれた「娘」だった。事情を聞けば、飢饉の責任を負わされたという。俺はまだ情があり、横穴を教えて逃がしてやった。翌朝、恋人が迎えに来て二人は去った。人はまだ救えると、その時は思っていた。
二百年目、娘たちは増えた。不作の責任、不倫の隠蔽、村長の都合。俺を恐れ、利用するだけの「神」として扱う人間たち。ある娘には「あなたがいるから、私が捨てられるのよ」と石を投げられた。その時理解した。人間は救われても感謝などしない。ただ、新しい犠牲を探すだけだ。
三百年目。罰ゲームのように仲間に押し出された娘は、洞窟で首を吊った。俺はもう、助けなかった。助ける理由がなかった。その夜、初めて「滅びればいい」と願った。それから五十年、俺は何も期待しなくなった。人間は皆同じだ。
そして、あの日。また一人、捨てられた。泣き疲れ、泥のように眠る少女。
「……またか」
どうせ同じだ。迎えが来るか、絶望して消えるか。気まぐれに声をかけたのは、ただの退屈しのぎだった。
「おい、お~い……こんなところで死ぬ気か?」
少女───更紗は、涙に濡れた目で俺を見た。その瞳には、俺を虐げ続けた「晏竜」の濁りが一切なかった。恐怖よりも先に安堵を浮かべた彼女の姿に、わずかに胸がざわついた。
彼女は、自分を生贄にしてほしいと縋った。俺は自嘲と共に、これまでの「生贄」たちの真実を告げた。男が迎えに来て、二人で村を捨てて幸せに消えていったことを。だが、その言葉は彼女を救うどころか、絶望の底へ突き落とした。
彼女の恋人・秀人は、彼女を迎えに来る気などなかったのだ。自分だけが村に残るために、彼女を殺そうとしていた。糸が切れたように崩れ落ちる更紗を見て、俺は思わずその頭を撫でていた。
「俺の名は馨尚。お前の名は?」
「更紗……です」
三百五十年、誰にも呼ばれず、誰も呼ばなかった名前。その響きに、止まっていた時間が動き出す。
まさか、この少女が。奪われた逆鱗を取り戻し、晏竜の呪縛を断ち切り、俺の中に渦巻く憎悪さえも塗り替える「光龍」の化け身であるなど。この時の俺は、まだ知らなかった。漆黒の闇の中に落ちてきたその白銀の光が、俺たちを新しい運命へと導くことを。




