余話第2話 合理の隣人
里の空気は、数日で完全に行き詰まっていた。静寂は保たれている。だが、その質が変質した。以前のそれは、満ち足りた無音だった。今は、何か決定的な崩壊を待つ無音だ。呼吸の隙間に、鋭い剃刀の刃を差し込まれているような圧がある。
更紗の前に、皓は毎日現れた。時間は正確。言葉は最小限。動きには塵ほどの無駄もない。まるで、最適化された動作を繰り返すだけの精緻な機構だ。
「結論は出たか」
それが、彼の第一声だった。毎日、寸分違わぬトーンで。それは問いではない。確認ですらない。ただの“進捗管理”だ。
「……まだよ」
更紗は水面から視線を外さずに答える。
「合理的ではないな」
即座に、評価が下される。
「時間の浪費は、種の損失に直結する。貴殿は既に繁殖可能な成熟個体だ。私も同様。条件は揃っている。障害は何だ」
責める声音ではない。ただ、逃れようのない事実を突きつけているだけだ。それが余計に、更紗の肺を圧迫する。更紗は、ゆっくりと顔を上げた。
「……“私”よ」
一瞬、皓の瞳が揺れた。理解不能のバグに直面したかのような、微かな不協和。
「“私”という不確定な要素は、計算に不要だ」
「でしょうね」
更紗は微かに笑った。冷たい、諦めに似た笑みだ。
「昔もそうだったわ。私はいつだって“役割”でしかなかった。供物、条件、選定……。形が変わっただけ。食われるか、繋がれるか。それだけのこと」
「同一視は誤りだ」
皓は即座に断じた。
「人族の選定は非合理的だった。個体の意思や感情という無駄な要素を含んでいたからだ。我々は違う。純粋に、種の存続のみを目的とする。そこに貴殿への搾取も、悪意も存在しない」
その言葉は、あまりにも正しかった。正しくて、だからこそ、一切の救いがなかった。
一方。馨尚の周囲には、常に焦げ付くような熱があった。熾がいる限り、大気は剥き出しの本能に焼かれる。
「遅いな。いつまでそこに蹲っている」
岩に腰掛けた熾が、退屈そうに爪を研ぐ。
「何がだ」
「決まっているだろう。壊れるのが、だ」
彼女は、獲物の喉笛を狙う獣の目で笑った。
「貴様は中途半端だ。怒りきれず、忘れきれず、捨てきれない。だから淀む。その淀みが、黒龍としての血を腐らせている」
馨尚は何も言わない。だが、沈黙を肯定と受け取るほど、熾は甘くない。
「図星か。なぜだ? 人間に奪われ、縛られ、誇りを砕かれた。ならば、壊せばいい。全部だ。記憶も、感情も、無価値な関係も」
そして、熾は馨尚の背後に回り、その耳元で愉悦を孕んだ声を落とした。
「───あの白い女もな」
空気が、物理的に止まった。
「……それ以上、言うな」
地這うような拒絶。だが、熾は逃がさない。
「やはりな。そこだけは、切り離せないか」
彼女は、馨尚の髪を乱暴に掴み、顔を覗き込んだ。
「それは“弱さ”だ。だが同時に、貴様の唯一の“核”でもある。だからこそ、壊す価値がある。……私が、全部引き裂いてやるよ」
その夜。里の中心。約束したわけではない。だが、更紗と馨尚はそこにいた。沈黙が流れる。かつては心地よかったはずのそれが、今は重い空白として二人を分断していた。
「……来ているな」
馨尚が、先に口を開いた。
「ええ。理が、すぐ傍まで」
更紗が応じる。それ以上の言葉は続かない。皓と、熾。それぞれの隣に立つべき「正解」が、もう目の前に迫っている。
「……理に従うべきだわ」
更紗は、感情を完全に削ぎ落とした声で言った。
「光龍は私だけ。あの個体も同じ。生存のための、唯一の選択肢よ。……黒龍も、同じでしょう?」
視線は合わせない。合わせた瞬間に、何かが決壊することを知っているからだ。
「……ああ」
短く、硬い肯定。それで、全てが終わった。二人は、示し合わせたように背を向けた。更紗の隣には、無機質な皓が立つ。馨尚の隣には、猛々しい熾が寄り添う。それが、種として、神として、最も“正しい配置”だった。
翌朝、里には淡々と告げられた。光龍と黒龍、それぞれの「番の決定」と、儀式の執行。祝福も、歓声も、異論もない。ただ、絶対的な了承だけが広がっていく。
誰も反対しない。誰も疑問を持たない。なぜなら、それが“理”だからだ。ただ一人、更紗だけが、内側で一瞬だけ引き攣るように思った。
(あの時と、同じだわ)
供物として差し出された、あの絶望の夜と。唯一違うのは。今度は、誰のせいにもできぬよう、自分自身の声で頷いたこと。それだけだった。




