第9話 小さな破綻
それは、王城全体を揺るがすような事件ではなかった。
誰かが処罰されるほどの失態でもない。
だが――確かに、「起きてはいけないこと」だった。
*
午後の会議室。
地方第五区の税収報告をめぐり、文官たちが顔を突き合わせていた。
「……数字が合わない」
最初にそう言ったのは、年配の会計官だった。
「前期比で、帳尻は合っている。だが、内訳が噛み合っていない」
「二重計上では?」
「いや、それなら総額が狂う。
これは……調整不足だ」
室内が、静かになる。
本来なら、こういう場合――
誰かが「一度、全体を引き直そう」と言う。
そして、自然と一つの名前が浮かぶ。
だが、今日は誰も口にしなかった。
「……とりあえず、この形で提出しよう」
若い文官が、そう言った。
「大事にはならない。誤差の範囲だ」
誰かが反論しかけ、やめた。
時間がない。
責任を負いたくない。
そのまま、報告書は提出された。
*
翌日。
第一王子の執務室に、地方からの使者が呼び込まれた。
「第五区より、抗議文です」
「抗議?」
エドワードは眉をひそめる。
「税の徴収額が、実際の収入と合っていないとのことです」
「そんなはずはない」
即答だった。
「正式な報告書は確認した」
だが、使者は引かなかった。
「すでに商会からの問い合わせが相次いでおり……
このままでは、徴収の一時停止を求める動きが」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
「誰が、この処理をした」
低い声。
文官の一人が、恐る恐る答えた。
「……複数名で確認しました。
従来通りの手順です」
「従来通り?」
エドワードは、机を指で叩いた。
「これまで、同じ手順で問題が起きたことはない」
それは、事実だった。
――正確には、
問題が表に出たことがなかった。
「……修正案を出せ」
「は、はい」
文官たちは慌てて部屋を出ていく。
エドワードは、苛立ちを隠さず椅子に背を預けた。
「つまらないミスだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
これが、国を揺るがすとは思っていない。
だが、違和感は残った。
*
その頃、レティシアは補助執務室で書類を整理していた。
今日は、自分から仕事を取りに行っていない。
昨日よりも、さらに一歩引いている。
そのはずだった。
「……第五区」
届いた報告の写しを見て、指が止まる。
税収の内訳。
配分。
時期。
ほんの数行で、原因が見えた。
「……調整が、抜けている」
口に出さず、ただそう思う。
本来なら、
この段階で修正されていたはずの箇所だ。
レティシアは、視線を落とした。
――今、手を出せば。
きっと、すぐに収まる。
誰も困らない。
だが。
昨日の言葉が、脳裏をよぎる。
『線を引く必要がある』
彼女は、書類を閉じた。
何もしない。
それが、初めての選択だった。
*
夕刻。
修正案は提出されたが、完全ではなかった。
地方への説明が遅れ、商会との調整も後手に回る。
「……小火だが、消し損ねている」
宰相は、報告を読みながらそう呟いた。
「誰かが、全体を見ていない」
その言葉に、アレクシスは何も答えなかった。
ただ、静かに窓の外を見ている。
「……彼女が手を引いたのだな」
宰相の声は、確信を帯びていた。
「ええ」
短く返す。
「これは、始まりに過ぎません」
*
夜。
レティシアは、自室で灯りを落とし、椅子に座っていた。
胸の奥が、ざわつく。
自分が動かなかったことで、
誰かが困っている。
それでも――。
「……回らなくても」
小さく、呟いた。
「それは……私の責任じゃない」
言葉にすることで、
ようやく、少しだけ線を引けた気がした。
その一方で。
王城の歯車は、
確実に、噛み合わなくなり始めていた。
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