第8話 いなくても回る、という幻想
翌朝の王城は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
表立った混乱はない。
だが、微細なずれが、あちこちで生まれている。
第一会計室では、文官たちが珍しく机に集まっていた。
「……この数値、誰が確認した?」
「え? 前回と同じ処理だが」
「いや、ここ。魔力補填費が二重計上されている」
一人が指摘すると、室内が静まり返った。
「そんなはずは……」
「いや、合っていない。
このまま通せば、来月の予算が歪む」
誰も、次の言葉を続けられなかった。
――いつもなら。
ここで、自然と一つの名前が浮かぶ。
だが、誰も口にしなかった。
*
騎士団詰所でも、同じようなことが起きていた。
「交代配置が噛み合っていない」
「どうしてだ? 前は問題なかったはずだ」
「……前は」
言葉が止まる。
修正役がいない。
それを、全員が薄々感じていた。
だが、それを認めることは、
これまでの判断が間違っていたと認めることでもある。
*
一方、レティシアは補助執務室にいた。
昨日、アレクシスに止められて以来、
意識的に仕事量を減らしている。
――減らしている、つもりだった。
「こちら、最終確認を……」
「これも、念のため……」
いつの間にか、机の上には書類が積み上がっている。
「……少しだけ」
そう言って、手を伸ばした瞬間。
「ダメだ」
低い声が、扉口から響いた。
顔を上げると、アレクシスが立っていた。
「殿下……」
「昨日の命令を忘れたか」
視線は鋭いが、責める色はない。
「これは、急ぎで……」
「急ぎでない仕事など、この城には存在しない」
淡々とした指摘だった。
「だからこそ、線を引く必要がある」
彼は机の上の書類を一瞥する。
「それらは、君でなければ処理できないものか?」
レティシアは、答えられなかった。
――できてしまう。
だから、回ってきてしまう。
「君が引き受けるから、他が育たない」
アレクシスは、静かに言った。
「そして、君が疲弊する」
言葉は、正確だった。
「……私は」
何か言おうとして、言葉が見つからない。
「いなくても、回ると思われている」
彼は続ける。
「だが実際は、回っていない。
ただ、破綻が先送りされているだけだ」
その事実を、
彼女はすでに、感じ始めていた。
*
その日の午後。
第一王子のもとに、複数の報告が集まった。
「予算の再確認が必要です」
「騎士団の配置に、再調整の要請が」
「地方から、細かい問い合わせが増えています」
エドワードは、眉をひそめた。
「大事には至っていないだろう」
「はい……ただ」
歯切れの悪い返事。
以前なら、
これらは会議に上がる前に整っていた。
「……文官の質が落ちたのか」
そう結論づける。
自分の判断に、疑問は向けない。
*
夕刻。
レティシアは、自室で一人、椅子に座っていた。
何もしない時間。
それは、奇妙な不安を伴う。
「……回って、いるかしら」
自分が手を出さなかった場所のことを考える。
不具合が出ていないか。
誰かが困っていないか。
その思考自体が、
彼女の役割意識の深さを示していた。
コンコン、と控えめなノック。
「レティシア様」
ミリアだった。
「皆さん……少し、慌てています」
言葉を選びながら、そう告げる。
「でも、誰も言わないんです。
レティシア様が手を引いたせいだなんて」
レティシアは、苦笑にもならない表情を浮かべた。
「そう。よかったわ」
それは、本心だった。
混乱が起きても、
自分の名前が出ないなら、それでいい。
だが――。
その夜、アレクシスが宰相と交わした会話の中で、
はっきりとした結論が出ていた。
「……もう、限界が近い」
「ええ」
宰相は、静かに頷く。
「彼女が完全に外れれば、
王城は三か月持たないでしょう」
その言葉が意味するのは、
単なる業務の問題ではない。
――断罪の日は、
思っているより、近い。




