第7話 噂は、静かに形を持つ
王城の中で、噂というものは風よりも早く広がる。
誰かが声高に語らずとも、囁きは自然と連なり、形を成す。
レティシアがそれを知ったのは、偶然だった。
昼下がり。
補助執務室へ向かう回廊で、前を歩く文官たちの会話が耳に入った。
「……正式な話らしいぞ」
「本当か? まだ婚約は――」
「近いうちに、発表があるとか」
足が、わずかに止まる。
声を潜めたまま、文官は続けた。
「第一王子殿下と、あの平民の少女だ」
「やはりな……最近の扱いを見ていれば」
「悪役令嬢は、どうなるんだ?」
その言葉で、話題が自分のことだと確信した。
レティシアは、何も言わずに歩き出す。
足音を立てないよう、いつも通りに。
胸の奥に、感情は浮かばなかった。
驚きも、怒りも。
ただ――。
来るべきものが、来た。
それだけだった。
*
執務室に入ると、侍女のミリアが慌てて立ち上がった。
「レティシア様……」
言葉に、迷いがある。
「何か、聞いた?」
レティシアがそう問うと、ミリアは一瞬躊躇し、やがて小さく頷いた。
「……皆さん、そう噂しています。
婚約破棄が、近いって」
「そう」
短い返事だった。
ミリアは、思わず声を荒げそうになるのを堪えた様子で言う。
「ひどすぎます! レティシア様が、どれだけ――」
「ミリア」
名前を呼ばれ、彼女は口を閉じた。
「ありがとう。でも、いいの」
「よくありません!」
珍しく、強い口調だった。
「皆さん、何も知らないだけです。
レティシア様がいなかったら――」
「それ以上は、言わないで」
レティシアは、静かに首を振った。
「知られなくていいことも、あるわ」
それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
*
その日の夕方。
第一王子の執務室では、エドワードと宰相補佐が向かい合っていた。
「婚約の件ですが……」
宰相補佐の声音は慎重だった。
「公表するのであれば、時期を選ぶ必要があります」
「引き延ばす理由はない」
エドワードは即答した。
「むしろ、曖昧な状態が混乱を招く」
「……レティシア様への説明は」
「必要だ」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
「だが、彼女は理解するだろう」
そう言い切った。
彼女は、いつもそうだった。
感情を出さず、従う。
だからこそ、決断を告げる役目を、自分が担う必要はないとさえ思っている。
「リリアも、覚悟はできている」
それが、最終的な決め手だった。
*
夜。
レティシアは、自室で一人、書類を整理していた。
不要になったもの。
引き継ぐべきもの。
無意識のうちに、手は「その後」を想定して動いている。
机の引き出しから、古い封筒が出てきた。
婚約が決まった日の記録。
そっと、閉じる。
「……準備は、しておかないと」
声は、ひどく落ち着いていた。
荷物を減らす。
引き継ぎの手順を書く。
誰かに迷惑をかけないように。
扉の外で、足音が止まる。
ミリアだろうか。
そう思ったが、ノックはない。
代わりに、低い声がした。
「入る」
第二王子、アレクシスだった。
「殿下……」
彼は室内を見渡し、机の上に広げられた書類と、まとめられた箱に視線を落とす。
「噂を聞いた」
それだけで、何を指しているのかは明らかだった。
「……はい」
否定はしなかった。
「君は、どうするつもりだ」
問いは、選択を促すものだった。
レティシアは、少し考えてから答える。
「求められない場所に、留まる理由はありません」
それは、彼女なりの誠実さだった。
アレクシスは、静かに息を吐く。
「まだ、正式な通告はない」
「でも、時間の問題です」
彼は否定しなかった。
代わりに、こう言った。
「……居場所は、用意できる」
その言葉に、レティシアは初めて顔を上げた。
「それは……」
「今すぐ答えなくていい」
アレクシスは、遮るように続ける。
「ただ、覚えておけ」
一歩、距離を保ったまま。
「君は、追い出される側ではない」
その言葉が、
静かに、確実に、
彼女の中で波紋を広げた。
レティシアは、何も答えられなかった。
ただ――。
噂が、
現実へと変わり始めていることだけは、
はっきりと感じていた。




