第6話 静かな限界
朝の光が、王城の高窓から差し込んでいた。
いつもと同じはずの時間。
いつもと同じはずの景色。
それなのに――レティシアは、椅子から立ち上がるのに一拍遅れた。
「……?」
ほんの一瞬、視界が揺れた。
めまい、というほど大げさなものではない。
ただ、体が重い。
彼女は小さく息を整え、何事もなかったかのように書類を抱え直した。
――寝不足ね。
そう結論づける。
それ以上、考えなかった。
昨夜は、地方魔法炉の追加報告が届いた。
想定外の魔力偏差。
放置すれば、来月には不具合が出る。
だから、修正した。
ただ、それだけのことだ。
「レティシア様」
回廊で声をかけてきたのは、侍女のミリアだった。
いつもより、少し心配そうな顔をしている。
「お顔の色が……」
「大丈夫よ」
即答だった。
「少し疲れているだけ」
それは、嘘ではなかった。
ただし、軽く見積もりすぎているだけで。
「本当に……?」
「ええ」
それ以上、会話は続かなかった。
レティシアは歩き出す。
今日も、やることがある。
*
午前の執務は、滞りなく進んだ。
文官たちが持ち込む案件を確認し、必要な修正を加える。
「こちらは、この数値を……」
指示を出す声は、いつも通り落ち着いている。
誰も、異変に気づかない。
だが、正午を過ぎた頃。
ペンを走らせていた手が、ふと止まった。
「……」
一瞬、文字が読めなくなる。
視界の端が白く霞む。
レティシアは、深く息を吸った。
――大丈夫。
自分に言い聞かせる。
この程度で、仕事を止める理由にはならない。
誰かに迷惑をかけるわけにはいかない。
再びペンを取った、その時だった。
「レティシア・フォン・アルヴァレス」
聞き覚えのある低い声。
顔を上げると、扉の前に立っていたのは、第二王子アレクシスだった。
「殿下……」
立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気づく。
それを見逃さなかったのか、アレクシスはすぐに言った。
「座ったままでいい」
近づいてくる足音。
机の向かいに立つ気配。
「顔色が悪い」
「そのようなことは……」
言い切る前に、言葉が途切れた。
視界が、また揺れる。
「……無理をしているな」
断定だった。
「いいえ」
反射的に否定する。
「私は……やるべきことを、しているだけです」
それが、彼女の基準だった。
アレクシスは、しばらく黙って彼女を見ていた。
責めるでも、詰問するでもなく。
「誰に言われた」
「……誰にも」
正直な答えだった。
「では、なぜやる」
問いは、静かだった。
レティシアは答えに詰まった。
なぜ。
考えたことが、なかった。
放っておけないから。
問題が見えるから。
それ以上の理由は、ない。
「……回らなくなりますから」
ようやく、そう口にした。
「私がやらなければ」
その瞬間、アレクシスの目が細くなる。
「違う」
一言で、切られた。
「この国が回っているのは、君がいるからだ」
レティシアは、言葉を失った。
「君がいなければ回らない。
だが、それは君の責任ではない」
彼は、淡々と続ける。
「支えが一つに集中している状態は、健全ではない」
理屈としては、正しい。
けれど――。
「……私は、大丈夫です」
レティシアは、視線を伏せた。
「これまで、そうしてきましたから」
それが、限界のサインだと、
自分では気づいていない。
アレクシスは、深く息を吐いた。
「今日は、ここまでにしろ」
「殿下」
「命令だ」
短い言葉に、逆らう余地はなかった。
レティシアは、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
席を立とうとして、ふらつく。
その瞬間、肩を支えられた。
「……っ」
驚いて顔を上げると、アレクシスがすぐそばにいた。
「歩けるか」
「はい」
そう答えたが、声に力はない。
彼は、それ以上何も言わず、
必要最低限の距離を保ったまま、出口まで付き添った。
廊下の光が、やけに眩しい。
「……すみません」
思わず、そう口にしていた。
何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。
「謝る必要はない」
即座に返される。
「君は、何も間違っていない」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
重く、静かに。
レティシアは、その意味を、
まだ正しく受け取れない。
ただ――。
初めて、
「止められた」ことだけは、
確かだった。
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