第3話 名前のない修正
文書庫の灯りは、夜になると最小限に落とされる。
高い天井の下、魔法灯が静かに光り、書棚の影を長く伸ばしていた。
レティシアは、机に向かい合ったまま、羽根ペンを走らせていた。
昼間に見つけた数値の違和感は、やはり気のせいではなかった。
地方第三魔法炉――稼働率、供給量、保守周期。
どれもが、表面上は問題ない。
だが、魔力の“癖”が考慮されていない。
「……このままでは、夏を越せない」
独り言は、誰にも届かない。
レティシアは一枚、また一枚と紙をめくり、過去の記録を照合する。
原因は単純だった。
炉心に使われている魔石の産地が、二年前に変わっている。
微細な違いだが、魔力の放出波形が合わない。
調整を怠れば、暴走は避けられない。
――でも、それを指摘しても。
脳裏に、会議室での光景が浮かぶ。
自分の提案が却下され、殿下の一言で話が終わった、あの空気。
レティシアはペンを止めなかった。
言われなかったから、やらない理由にはならない。
修正案は、簡潔に。
“殿下の方針を補強する形”で書く。
表現を整え、数値を丸め、言葉を選ぶ。
自分の名前は、どこにも入れない。
完成した書類を、そっと封筒に入れた。
「……これで」
翌朝、文官たちが気づくだろう。
気づかなくても、問題は起きない。
それでいい。
書類を提出箱に入れ、文書庫を出る。
外は、すでに夜明け前だった。
*
その日の午後。
王城中央会議室は、珍しくざわついていた。
「地方第三魔法炉の件ですが」
文官の一人が声を上げる。
「修正後の案で試算したところ、安定率が想定以上に――」
「当然だ」
エドワードが頷く。
「俺が指示した通りだろう」
誰も異を唱えなかった。
数字は結果を出している。
「殿下の判断は的確ですな」
宰相補佐がそう言い、会議はそのまま進んだ。
誰も、封筒の差出人を確認しなかった。
*
その頃、レティシアは別棟の小さな執務室にいた。
正式な部屋ではない。
使われなくなった補助室を、自分で整理して使っているだけだ。
扉をノックする音がした。
「失礼します」
入ってきたのは、若い文官だった。
どこか落ち着かない様子で、書類を抱えている。
「あの……この資料、確認をお願いできますか」
「はい」
レティシアは受け取り、目を通す。
地方第三魔法炉の試算結果。
――うまくいっている。
「問題ありません。このままで」
そう返すと、文官はほっとしたように息をついた。
「助かりました。殿下のご判断が正しかったと……」
言いかけて、言葉を止める。
「……失礼しました」
レティシアは、首を横に振った。
「構いません」
それが事実なのだから。
文官が去った後、部屋は再び静かになった。
レティシアは椅子に深く腰掛け、天井を見上げる。
胸の奥に、何も残らない。
達成感も、喜びも。
ただ、“終わった”という感覚だけ。
「……今日も、回った」
小さく呟く。
自分がいなくても、きっと同じ結果だった。
そう思い込もうとする。
その時だった。
廊下の向こうで、足音が止まる。
扉の外。
誰かが、立ち止まっている気配。
レティシアは顔を上げた。
だが、扉はノックされない。
数秒後、足音は遠ざかっていった。
気のせいだろうか。
レティシアは、再び書類に視線を落とした。
その背中を見ていた人物が、
今、ひとつ確信したことを、
彼女はまだ知らない。
――この国は、彼女に支えられている。
名前もなく、評価もなく。
それでも、確かに。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




