33
平常通りに戻った校庭で、帝は彼女の名を呼んだ。
「茉理」
その声に反応し、茉理は我に返って彼から離れる。
「あ、ご、ごめんなさい。いきなり」
顔を赤らめ、もごもごと謝罪の言葉を口にする彼女の姿があまりにも可愛らしく見えて、帝は一時呆けた。
あまりの恥ずかしさに、茉理は両頬を押さえてしゃがみこむ。
全校生徒と父兄の前で、帝に抱きついて好きと言ってしまったのだ。
謝罪の言葉を口にしながら身の置き所がなく縮こまっている少女の姿は、帝をいつもの精神状態に引き戻す。
立ち上がると、彼は茉理に近づいた。
片手を少女の頭に乗せる。
「大丈夫だ。むしろ礼を言うのはこっちだろう」
帝はそのままくしゃっと乗せた手を動かして、茉理の頭を撫でた。
「お前のおかげで正気に帰れた。助かったぞ」
彼がいつもの笑みを見せると、彼女も立ち上がり、やっと微笑み返してくれる。
「よくわからないけど、その、良かったです」
「ああ」
帝は強くそう言うと、再び直樹と雅人の方を向く。
「二人ともすまない。驚かせたな」
「まったくだ」
直樹が黒眼鏡のフレームを直しながら言った。
「今回は本当に駄目かと思ったよ。茉理姫のおかげだね、ありがとう」
雅人は彼女に持っていた薔薇の花を渡す。
「ほら、お姫様。ご褒美だよ」
「あ……どうも」
茉理は薔薇の花を受け取って、その香りを堪能した。
雅人の薔薇には精神を沈め、心をリラックスさせる効果が付与されている。
(先ほどの白い光は、おそらくこいつの力だろう)
何度か目にしたことのある奇跡のような力。
つい先日、彼の姉も茉理の持つ聖なる闇の白き光に救われた。
(やはりお前は、聖魔巫女の子孫だ)
魔族の伝承に伝えられる不思議な力を持つ一族。
その長は聖魔巫女と呼ばれ、特別な能力を持っていたとされる。
ただのおとぎ話でしかないと思っていたのだが、今こうして現実に存在していた。
クリスティ一族の先祖とされるアルツール・クリスティは言い伝えによれば、聖魔巫女の騎士だったと言われている。
帝は以前茉理と一緒にその伝承を書いた本の中に吸い込まれ、滅び行く聖魔一族と彼らのいた世界ユーフォリア、そして先祖たるアルツールに出会った。
一つの世界が滅び行く様を二人はその目に焼き付けて、また現実世界に戻ってきたのだ。
一瞬彼女と目を合わせたときに、そのことが走馬灯のように脳裏を過ぎる。
(あれはこれからの俺達にとって、意味のある事だったはず)
自分たちが進む未来のために、あの本は帝と茉理を過去のユーフォリアに送ったのだから。
(だが今はまだその時ではない。今すべきことは)
そう考えて、帝は茉理から視線を雅人と直樹に戻す。
「まったくなんてことでしょう」
朝礼台から、甲高い女性の声が響いた。
校庭中の視線が、藤ゆり子に向けられる。
手に持つ扇をばさりと振りながら、ゆり子は馬鹿にしたような顔で帝をねめつけた。
「こんなことぐらいで正気を失うなんて、本当に未熟ですこと。わたくしの孫に比べたら、なんて無能なんでしょうね。伊集院家を継ぐにふさわしいとは思えないわ」
帝は何も言い返さない。
(確かに今の俺は未熟だった。そこの怪物のような婆の言うとおりだな)
一瞬何もかも放棄して、魔力を闇に染めてしまった。
(総裁が俺を後継者からはずすというのも、無理からぬことかもしれないな)
それならそれで受け止めよう。
今の彼にとって次期総帥の座は、そこまで大切なものではなくなっていた。
(どうしてかはわからんが、俺のもう一つの人格は、むしろ今、それを望んでいるような気がする)
家とか財閥の総帥とかいう肩書きを全部捨てて、ただ一人の少女のためにありたい。
今の彼の心の奥は、自分を闇から救い出してくれた彼女で満たされていた。
もし雅人や直樹、クリスティ一族が自分を総帥にしなかったとしても、今まで修行し、培ってきた魔法の力は変わらずこの身にある。
世界中の誰も、伊集院帝からそれを奪い取ることは出来ないのだ。
しっかりと心を落ち着け、帝はゆり子と相対する。
自分の気持ちを口にしようとした時、それより先にゆり子に言葉を放つ存在があった。
「うるさいよ、そこの歌劇狂いのお婆様」
雅人は彼にしてはめずらしく、女性に対して声を荒げる。
(いつも世界中の女性たちは、かよわく守らなければならない存在だ。王子たるもの、常にレディ・ファーストだと言ってた奴が、どうしたんだ)
帝は彼の怒りに満ちた表情を見て驚いた。
彼だけではない。
いつも冷静で滅多に感情的にならない直樹も、低い声に怒りを滲ませた。
「そちらこそ随分卑怯な手を使ってくれる。総帥に孫娘を使って色仕掛けとは、藤家も落ちたものだな」
直樹は、侮蔑の眼差しを昇に向けた。
「藤咲子だったか。貴様の妹だな、藤昇」
「……」
昇は顔をしかめる。
(藤咲子……藤家にいるもう一人の俺の従姉妹か)
彼女がどうかしたのか、何故今ここで昇の妹の名が出たのか。
横にいる茉理も怪訝そうな顔をした。
そんな彼女に気付き、雅人が説明する。
「藤には咲子という妹がいるんだけどね。黙って立ってるだけならユリの花のように美しいお嬢様なんだけど」
「その妹がここ数年、別邸で暮らしている総帥に、おじいさまと言ってベタベタまとわりついてる話は有名だ。総帥は彼女の色仕掛けにはまって、我侭を色々聞いてやってるらしい」
(そういうことか)
帝は事のあらましが分かり、苛立つ心を抑えることが出来なかった。
「つまりその女が兄の出世のために、総帥にねだったというわけか。俺を排除して、兄を伊集院財閥の跡取りにと」
「あきれた話だよねえ、実力で勝負するなら僕達もわかるけど、妹使って小細工してくるとは。そうまでして君、伊集院財閥の総帥になりたいわけ? 僕なら絶対そんなみっともないまねはごめんだね」
雅人は口元に笑みを浮かべて藤昇を見る。
だが口調とはうらはら、瞳の奥には完全に軽蔑の光が宿っていた。
「僕は、僕は何もしてないぞ。財閥の跡取りなど、望んだことは一度も」
強く叫んだ昇の言葉を、直樹はさえぎった。
「ふざけるな。何もしてないから許せないんだろうが」
「えっ」
「お前は知っていたはずだ。祖母ゆり子がどんな野望を抱いていたか、お前の妹が総帥の側で何をしていたか」
「それは……」
「君の実力はさっき見せてもらったよ。でもさ、あれだけの力があるんだから、おばあさまを抑えて妹の行為をやめさせることだって、君には出来たはず。違うかな」
雅人の言葉に、昇は反論出来ずに唇を噛みしめる。
「お前は何もしなかった。知っていながら、抗う力を持ちながらも放置するという事は、お前もその行為に対して同意し、加担したに等しいと俺は思う」
直樹はきっと前を向き、朝礼台を睨みつけた。
「今ここにいるすべての魔族の前で宣言する。クリスティ一族第三の分家代表森崎直樹の名において、第三の分家は藤昇を次期一族の長とは絶対に認めない。第三の分家が認める者は伊集院帝ただ一人だ」
「同じく第二の分家代表伊集院雅人、第二の分家も藤昇を認めない。第二の分家も認めるのは伊集院帝だけだ」
直樹と雅人はそう言うと、帝に向かって笑みを浮かべる。
二人の視線を受け、帝は瞳の奥が熱くなった。
彼らのゆるぎない信頼と、彼への想いに包まれ、正直どうしてよいかわからないぐらい心臓が早鐘を打つ。
「俺も認めません」
いつの間に横にいたのか、英司と斎も帝の側にいる。
「第四の分家代表山下英司、第四の分家も藤昇を次の一族の長とは認めません。第四の分家も認めるのは伊集院帝です」
英司がそう言ったあと、斎が動いた。
指を動かし、校庭の砂を指先に集めて空中で文字にする。
そこにははっきりと書いてあった。
『第五の分家代表 遠野斎 第五の分家も藤昇を認めない。次の長は伊集院帝です』
校庭中がざわめいた。
皆、この光景を見て、驚きが止まらない。
「お前ら……」
帝は自分を肯定してくれる仲間たちの顔を見て、いつもの強気の笑みを漏らす。
「ふざけないでっ」
ダンっと朝礼台をハイヒールで踏みしめる音。
ゆり子が全身憤怒の気をまとわせながら叫ぶ。
「所詮子どものお前達に何が出来るというの。代表ですって? そんなもの雷導様に咲子がお願いすれば、すぐにお払い箱よっ。身の程をわきまえなさい」
「その言葉、そっくり返しますよ、ゆり子様」
雅人はやれやれと肩をすくめた。
「おじいさまがどう言おうと、僕達の意思を動かすことは出来ない。帝を排除なんてさせません」
「そもそも本家が権威を誇っているのは、四つの分家が忠誠を誓っているからだ。その分家すべてが結束するなら、雷導様に抗う力はない」
直樹も冷ややかな声でゆり子に告げる。
「四分家代表の名をもって、本家に進言する。藤家を一族の傘下からはずすことを」
「なんですって」
「咲子嬢を使って、どうぞおじいさまに泣き付いてください。無駄でしょうけどね」
雅人は皮肉たっぷりに言った。
「あの人は今まで沢山の孫がいながら、一人も可愛がったことのない人ですよ。実の息子や娘たちでさえ愛情を注がなかった。あなただって身をもって知ってるでしょう」
「さ、咲子は違うわ」
「可哀想に。愛されてると勘違いさせて捨てる。それがおじいさまのやり方です。ま、いくらでも試してごらんなさい。咲子嬢が傷つくだけですし」
雅人はそう言うと、理事長に向き直った。
「すみません、一族のゴタゴタで時間を取らせてしまいました。閉会式をお願いします」
「あ、ああ、そうだな」
我に返った理事長はポケットから出したハンカチで汗を拭きながら、放送席にアナウンスの指示を出す。
すぐに放送部の軽やかな声が校庭に響いた。
「本日すべての競技が終了しました。これより閉会式を行います。生徒の皆さんは、全員校庭に整列してください」
朝、入場行進で使った軽快な行進曲が流れ、皆クラス席から校庭に整列する。
「それではこれより閉会式を行います」
朝礼台に藤家の有能な執事が近づくと、そっと呪を唱え、彼らの大事な女王陛下をその場から瞬間移動させた。
昇も誰も気付かないうちに校庭から姿を消す。
このまま閉会式を迎えれば、優勝したE組がトロフィーと優勝旗を受け取ることになるだろう。
言わずもがな体育祭で一番活躍した彼が、クラスの代表として前に出なければいけない。
だが今、こんな事が起こった後で、どの面下げて優勝旗を受け取ることが出来るというのだ。
閉会式に彼の姿はなかったが、誰も彼を探す者はいなかった。
――だった一人を除いては。
屋上の風に吹かれながら、るいとれいは校庭を眺めた。
先ほどまで自分たちが守り抜いた姫は、もういない。
自ら王様の下へ行ってしまった。
るいはぽつんと口から言葉をこぼす。
「なあ、これって……もしかして俺達の負け?」
「結果的にはそうなるな。過程はともかく」
れいは相変わらず無表情で、自分達の敗北を肯定した。
「王様チームは体育祭が終わるまでに姫を見つけ出した。その時点で、あっちの勝利だ」
「あーあ、こんな終わり方なんて、すっごく悔しいっ」
るいはじたばたと手足を動かす。
「最悪だ。何だよ、それ。あっちって結局俺達にやられてばっかで、自力で姫を取り戻したわけじゃないじゃないか」
「ああ、そうだな」
「それなのに俺達が負けなわけ? 納得いかないよ、もう」
「そう言うな、るい」
れいは、兄を静かな瞳で見つめる。
「僕達の目的は勝ち負けじゃない。そういう意味では、もう目的を達成してる」
「それはそうかもしれないけどさ」
「こうなったら最後の最後まで、あの先輩達に僕達の優秀さを見せ付けてやればいい。例えあちらは勝ち組だとしても、決して良い気分ではないはずだ」
「うーっ、そうかなあ。王様なんてふんぞり返って、運も実力のうちだとか言いそうだけど」
「それならそのお笑いな姿を、たっぷりと他の四人に見せつけてやればいい。誰にも僕達を支配することは出来ないことを、しっかりとわからせてやろう」
「どうするの?」
「いつもどおりの僕達でいればいい」
れいは薄っすら微笑んだ。
「これから姫は、僕達が守るんだろ。あの王様からもさ」
「あ……ふふっ、邪魔すんの?」
るいはにやりと笑う。
「もちろん」
れいは表情は変えなかったが、不敵な光を瞳に宿す。
「誰にも手は出させないよ。あの五人の誰にもね」
「やるからには完璧に、だもんね」
るいはすっかり機嫌を直して、明るく笑う。
「これから先が楽しみだなあ」
眼下では、粛々と優勝旗の授与が行われていた。
それを見ながら、れいはつぶやく。
「あの旗ってさ、結局このあとまた理事長室に戻るんだろ。どこが勝っても負けてもさ」
「そうだねえ」
「なのになんて授与なんてするんだろう。僕、体育祭のたびに思うんだ。自分の手に残らない物をもらって喜ぶ意味がわからない。あれを手にするために、今日一日という時間をすべて費やすんだよ。無駄じゃないのかな」
「うーん、よくわかんないけどさ。あれは別にただの飾りで、本当に嬉しいものはもう授与されてるんじゃないの?」
「本当に嬉しいものって何だ」
「たぶんね。それって目に見えないんだと思うよ、れい」
るいは言いたい事を上手く伝える言葉が見つからず、頭をひねって考える。
「本当に大事なものは目に見えないんだってさ。何かの本に書いてあった」
「そうなのか」
「うん」
「そうか」
れいは複雑な表情で優勝旗を持つE組の学級委員を見つめた。
「いつか僕にもわかるかな。見えなくて大事なもの」
弟の言葉に、るいはぽんっと彼の背中を軽く叩く。
「もちろんわかるさ。俺達で見つければいい。宝探しだ」
「そうだな」
変わらぬ口調で答えつつ、るいは口元に小さな笑みを浮かべる。
何はともあれ陰謀だらけの体育祭は、やっと終了したのだった。




