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Bravo!  作者: レイチェル
13/33

13. それぞれの別離



 エンマにテオへの言伝を頼み、婚約者に返事を送ってから二日後、マルグレーテは婚約相手の屋敷の昼食会に招待されていた。返事を送ってこんなに早くなんてとマルグレーテは躊躇したが、実は彼女が手紙を読んでいなかっただけで、両家の昼食会が今日行われることは、すでに決まっていた。

 正式な顔合わせは初めてで、父親であるシュミット伯爵も招待されており、長姉のベルタも付き添った。


 伯爵子息グスタフ・フリッツ・フォン・ブラントは、話にきいていた以上に好青年だった。亜麻色の髪に淡い緑の瞳、眉はきりりとしている。人柄も良く、真面目なだけでなく気の利いたウィットにも飛んだ、まさに完璧な結婚相手だ。

 マルグレーテは感心せずにはいられなかった。こんなに素晴らしい縁談を用意するなんてさすがお父様だわ。

 だが、マルグレーテは食事に手をつけることができなかった。朝はビスケットを一口しかかじらなかったのに、お腹はちっともすいていなかったのだ。今日だけではない。最近はずっと食欲がなかった。


 婚約者のグスタフ以外にはブラント伯爵夫妻も同席し、もてなしてくれた。食事中は社交的なベルタと夫妻、グスタフが楽しそうに話を弾ませていた。

 マルグレーテはその様子を遠くから見るようにぼんやりと眺めていた。

 今食事の席でなされている話題は、新しい鉄道の駅が建設される話のようだが、マルグレーテは全く興味をそそられなかった。

 ただ、グスタフが折を見て「そういえばマルグレーテ殿は寝台列車に乗ったことがあるそうですね、快適でしたか?」「鉄道で世界中どこへでも行けるようになったら、マルグレーテ殿はどこへ行きますか?」と尋ねてくるので、マルグレーテは愛想笑いを浮かべて「ええ、まあ」「さあ……南極かしら」と失礼になるかならないかくらいの言葉を返していた。


 マルグレーテの皿に気づいたベルタは隣の妹に、他には気づかれないよう小声で話しかけた。


「マルグレーテ、少しは食べなさい。伯爵夫妻が心配なさるわ」


 マルグレーテは肩をすくめた。だってほんとうにお腹がすいていないんだもの。

それでも姉の諌めるような視線に、牛肉に添えられた豆とパセリをちまちまと食べていた。まるで紙でも食べているかのように味がしない。ああ、つまらない、早く終わらないかしら。


と、その時だ。皿を下げに来た給仕が小さな紙切れを差し出してきた。そしてマルグレーテだけに聞こえる程度の小声で言った。


「エドガー様から急ぎの伝言です」


 マルグレーテは一瞬怪訝そうな顔を浮かべたが、何食わぬ顔でさっと紙を受け取ると「ありがとう、皿は下げていいわよ」と言った。


 テーブルの向こうの父やブラント伯爵一家の様子をそっと伺ってから、下を向き小さく折られた紙を膝の上で広げる。

 そこには確かに叔父の筆跡の文字が並んでいたが、その内容にマルグレーテは愕然とした。


 走り書きの内容はこうだった。


『テオ君が今日十六時の列車でウィーン北駅を発つ。イタリアに向かうそうだ。とりいそぎ』


 テオが、ウィーンを発つ……?


 マルグレーテは頭の中に冷たい水が流れていくような感覚を覚えた。紙を持つ手が震えているのがわかる。驚きのあまり顔は蒼白になっていたが、頭はひどく冷静だった。ちらりとチェストの上の見事な装飾が施された置き時計を見る。十六時まであと十分だ。

 その文字盤を見た瞬間、マルグレーテは突然我に返ったような気がした。


 私ーーこんなところで何をしているのかしら。


 ベルタがいち早く妹の異常な様子に気づいた。


「マルグレーテ、どうかしたの?」


 その言葉に、マルグレーテはぎゅっと紙きれを手の中で握りしめた。そして姉の方を向き、青白い顔のまま絶望に濡れた目をして、小さな声で「お姉様、ごめんなさい」と言った。


 その言葉の意味がわからず、ベルタは眉をひそめた。

 マルグレーテはいつのまにか溢れていた涙を拭い、貴族令嬢らしく居住まいを正し、凛とした表情に戻ると、すっと腰を上げた。

 突然前触れもなく立ち上がったマルグレーテに、皆が目を見開いて注目する。


「マルグレーテ殿……?」


「どうしたのだ?」


 皆がただ驚いているばかりなのに混じって、ただ一人、父のシュミット伯爵だけは眉を寄せて睨んでいる。

 しかし、マルグレーテはもう後には引けなかった。時間がない。食事中ではなくメインを終えてデザートの前という区切りがいいのが不幸中の幸いだ。

 マルグレーテは真剣な表情で、はっきりと言った。


「ブラント伯爵様、奥様、そしてグスタフ様、無礼を承知で申し上げさせていただきます。この婚約は辞退させていただきたく思います。グスタフ様は素晴らしい方です、私のような無礼極まりない娘はどうか捨て置きください」


「な、何を言い出すの!」


 ベルタが驚いたように妹の言葉を止めようとしたが、マルグレーテは強い瞳でグスタフを見て続けた。


「申し訳ないことに、私は急用で今すぐ行かなければなりません。大切な友人がこの町を去ろうとしているのを、どうか止めに行かせてください。この場を無駄にしてしまったこと、しっかりお詫び申し上げる所存です。なにとぞ、お見逃しくださいますよう」


「マルグレーテ!」


 父の恐ろしい怒鳴り声に、マルグレーテの心臓は縮み上がったが、しかし表情は自分でも驚くほど冷静さを保っていた。


「お父様、お姉様、お許しを。今はどうしてもいかなければ。ほんとうにごめんなさい」


 そう言うと、マルグレーテはさっとその場を辞した。驚いた召使いが引き止めようとするのを振り払い、誇り一つない廊下をパタパタと駆け出す。

 ブラント伯爵家の玄関を出ると、すぐ目の前にシュミット伯爵家の馬車があった。御者席には顔馴染みの男が座っている。


「カール!」


 呼ばれた御者はマルグレーテだけが出てきたことに驚きの表情を浮かべた。


「おや、お嬢様? どうかなさったので……」


 マルグレーテは、カールの言葉を遮って大きな声で言った。


「今すぐにウィーン北駅まで行って。できるだけ急いで」


 令嬢のいつにない命令口調に、カールは戸惑いながらも頷いた。


「か、かしこまりました。どうぞ、お乗りください」








 空は雪の降っていない、どんよりとした曇り空だった。ただ冬独特の匂いのする冷たい空気がたちこめていた。


 ウィーン北駅のホームには大勢の人が来ていた。列車に乗る者、またはそれを見送る者だ。旅行鞄を抱え、嬉しそうにしている夫婦もいれば、寂しそうな表情で息子にマフラーをかけて別れを惜しむ母親もいる。



 三等車の前で、テオは肩掛け鞄といつものバイオリンケースを手に、ここまで送ってくれたエドガーと向き合っていた。


 エドガーは眉間にしわを寄せ、なんとも言えない顔をしていた。


「……ほんとうに行くのか」


「うん」


「もう一度考え直してみたら……」


「もう決めたんだ、エドガー」


 今さらだと言うようにテオは肩をすくめた。


「そうだな……。しかし、よく考えると急すぎないか? 約束しただろう、私が君を、あの……初めて会った時の町へ送り届けると」


「いいんだ、エドガーにはもう十分よくしてもらった。お金だって、列車の乗車賃どころか、それよりも多めにもらってしまった」


「私にできることはそれくらいだろう……ほんとうに後悔しないか?」


 エドガーはため息をついてから、確かめるような目をテオに向けた。


「俺の選択だ。ウィーンを出るべきだし、俺自身がこの町を出たいと思ってる」


 言い切る青年に、エドガーは口を歪める。


「もちろん君の意見は尊重するがなあ。ああ、私も一緒にいければなあ。春まで待ったらどうだ? こんなに寒い中行くこともないと……」


「エドガー」


 食い下がろうとする男に、テオは呆れた声を出した。


「わかったわかった、どうしても、“今”行きたいんだったな」


 テオは頷いた。


「これ以上ここには居られない。いろいろ勉強にはなったよ。エドガーのおかげで良い師匠にも会えた」


「そりゃ何よりだ……何かあったらいつでも頼ってくるんだぞ。旅先でも、もしかしたらシュミットの名を出せば待遇をよくしてくれる店があるかもしれん」


 テオは苦笑いを浮かべた。


「俺は今までずっとひとりで旅をしてきたんだ。心配なんかいらないさ」


「そうだったな……なあ、せめて行き先を教えてくれ。とりあえず渡した切符ではトリエステまで行けるだろうが、そこに留まるつもりはないんだろう?」


 テオはまた肩をすくめた。


「どうかな、寒いから南に行きたいと思ってるけど。まだちゃんと決めていない」


「おいおい、そんなことで大丈夫か? マルグレーテがきいたら……」


 ちょうどその時、ビビーーッと笛が鳴った。そろそろ出発らしい。


「それじゃあ、いろいろありがとう」


 テオは珍しく笑顔を浮かべてみせると、エドガーに手を差し出した。

 エドガーも眉尻を下げて微笑み、彼の手を握った。


「元気でな。またいつか会えるといいな」


 テオは笑みを返すと、背を向けて列車に乗り込んだ。


 エドガーはテオが窓から顔を見せてくれないかと願っていたが、すぐに駅員が再び笛を鳴らした。


「グラーツ行き、出発いたしますうー」


 汽笛が鳴った。列車がガタンガタンと動き出す。

 エドガーは口を固く結んだまま、列車がどんどん遠くなるのを眺めていた。

 

 駅の時計はちょうど十六時を差していた。




「……様! 叔父様っ!」


 エドガーの背後から息を切らし、叫びにも似た声が響いた。振り返るとマルグレーテだった。髪は乱れ、額は汗ばんでいる。知らせをきいて飛んできたらしい。

 マルグレーテは荒い息のまま叔父に尋ねた。


「テオは……!? テオが乗る列車はどれなの、叔父様!」


 エドガーは同情的な表情を浮かべると、どんどん小さくなっていく列車に目を向けた。


「あれだ」


「……っ!」


 マルグレーテはもうすっかり小さくなってしまった列車を見とめ目を見開くと、唇をわななかせて悲鳴にも似た声をあげた。


「い、や……いやよ、いやああっ!」


顔は苦しげに歪み、堪えていた涙をぽろぽろと零した。


「どうして、どうしてなの叔父様! どうして彼を行かせてしまったのっ!? どうして引き留めてくれなかったのよ!」


 エドガーは、胸ポケットから白く清潔なハンカチを姪に差し出しながら言った。


「……彼の意志だ。私にはどうにもならん」


 マルグレーテの涙は止まらなかった。


「ひどいわ! 突然すぎるわよ、こんなに急に……別れの挨拶もないなんて、テオったらひどい、ひどいわ……!」


 ハンカチをひったくり泣きわめいている姪に、エドガーは渋い顔のまま目を細めて言った。


「……マルグレーテ。それなら、お前は今日、誰と会っていたんだ?」


 ひくっとマルグレーテの嗚咽が止まった。


「お前はブラント伯爵家の青年と婚約した。今日は彼と昼食会だったんだろう。そんなところに、平民のテオが会いに行けるとでも思っているのか? それなのに、彼をひどいと言うのかい? “ごめんなさい”とだけの言伝で関係を終わらせたお前よりもひどいと、そう言うのかい?」


 エドガーの言葉は、やや怒りを含んでいるのを隠すことなく響き、マルグレーテの心に深々と突き刺さった。


 弁解の余地もなかった。

 そんな、そんなつもりじゃなかった。

 しかし、もうどうにもならなかった。マルグレーテはその場にひたりと座り込むと、もうわめくことはなく、さめざめと泣き崩れるばかりであった。








 カールが手綱を取る馬車が、ブラント伯爵の屋敷の前に着いた。

 マルグレーテは手鏡を覗いて涙の跡がないか確認すると、顔をきっと引き締める。扉を開けたカールが「お嬢様、あの……」と遠慮がちに後ろをちらちら見ながら言った。

 どうかしたのかと彼の後ろを見ると、屋敷の玄関の前に伯爵子息のグスタフが立っていた。整った表情は悲しげだったが、マルグレーテの姿を見とめると優しく微笑みを浮かべた。


「グスタフ様……」


 馬車から降りたマルグレーテは、彼に小さくお辞儀をした。

 グスタフはマルグレーテの顔を見ると悟ったような顔になった。


「……彼は行ってしまわれたのですか」


 マルグレーテははっとした。彼はマルグレーテが誰に会いに行こうとしていたのかわかっていたのだ。唇を噛み締めて俯き、小さく頷いた。


「ええ、間に合いませんでした」


 グスタフは目を細めて沈んでいるマルグレーテを見ていたが、やがて言った。


「マルグレーテ殿、はっきり申し上げますが、私との婚約を解消したところで状況は変わりません。その……どうするおつもりなのですか」


 マルグレーテは奥歯を噛み締めたまま答えなかった。

 グスタフは続けた。


「あなたは貴族の娘だ。彼を選ぶのであれば、今の身分を捨てることになる。一介のバイオリン弾きのために、ただの平民になることをあなたは……」


 そこまで言ってから、グスタフは言葉を途切らせて少しの間沈黙すると、ふっと笑みを浮かべた。


「いや、やめましょう。言ったところであなたの心が変わることはないのだから」


 諦めたような言い方だった。おそらく彼はマルグレーテの心を見通しているのだ。

 マルグレーテは申し訳なさそうにグスタフを見上げた。


「グスタフ様、ほんとうにごめんなさい。私……」


「ああ、そんな顔はしないでください。なんとなく、こうなることはわかっていたのです。私が努力したところで彼には到底かなわない」


「……あなたは完璧な紳士ですわ、グスタフ様。こんな私よりももっとふさわしい方がいるはず」


 グスタフは苦い笑みのままだった。

 マルグレーテはふと気になっていたことを尋ねる。


「グスタフ様のご両親は……? ブラント伯爵夫妻はお怒りになりましたでしょう?」


 グスタフは優しく笑って首を振った。


「母が少し気落ちだけですよ。実を言うと、父は私があなたと婚約することに反対しておりました。あんなに彼と仲の良いあなたが、顔を知りもしない私を選ぶはずがないと」


 マルグレーテははっと目を見開いた。ブラント伯爵が?

 グスタフは続ける。


「父はご存知の通り、大の音楽好きでしてね。あのバイオリン弾きの青年のことをたいそう気に入ってましたよ、息子の私なんかよりもね……彼がギルデンバッハ公爵家に入るかもしれないという噂が流れた時、たくさんの婚約候補者が出たのを覚えておいでですか? あの時父は、彼の花嫁はあなた以外にはありえないと言っていました。それ以前に、彼が貴族に入るかもしれないということを残念に思っていたようですが」


 マルグレーテはグスタフの父ーーブラント伯爵の顔を思い浮かべた。彼とは劇場で会う時に挨拶をする程度だったけど、そこまで私やテオのことを知ってくださっていたのだわ。

 グスタフはさらに続けた。


「私があなたに結婚を申し込みたいと自分の両親に言った時、父はもし結婚する前にマルグレーテ殿が私でなく彼を選んだのなら、いさぎよく引き下がれと言われました。父とは、元々そういう約束だったのです。それは、あなたのお父上にも申し込みの時にお伝えしていました」


 マルグレーテはブラント伯爵の優しさに感動していたが、次のグスタフの言葉に縮み上がった。


「しかし……その、先ほどのシュミット伯爵はたいそうご立腹のようでした。半刻ほど前にお帰りになりましたが、とても……怒っていた」


 マルグレーテは震え上がりそうになるのを懸命に堪えた。


「そう、ですか」


 どんなに恐ろしくても、今はまず屋敷には帰らねばならない。何を言われるのか想像するに難くないが、逃げる事はできないのだ。


 グスタフは、その怯えたようなマルグレーテの顔を見て少し考えてから言った。


「……私もご一緒させていただいてもよろしいでしょうか」


「え?」


「これからお屋敷へお帰りになるのでしょう? 私はシュミット伯爵と少しお話ししたいのです。どうかご一緒させてください」


 驚いて瞠目しているマルグレーテに、グスタフはにっこりと微笑んだ。







「マルグレーテ!」


 シュミット伯爵邸に戻ると、ベルタが真っ先に出迎えてくれた。執事のルドルフと召使い達をともなっている。


「心配したのよ! 突然いなくなってしまうんだから。あら……グスタフ様?」


 ブラント伯爵子息の存在に気づくと、ベルタは目を見開いた。


「ごきげんよう、ベルタ殿。シュミット伯爵にお会いしたくて参りました。お父上はご在宅でしょうか」


「え、ええ、書斎に……少しお待ちください」


 ベルタは戸惑いながらも頷くと、後ろを振り向いてルドルフに言った。


「お父様に、マルグレーテが帰ってきたことと、ブラント伯爵子息のグスタフ様がお父様に会いにいらっしゃったことを伝えて」


 しばらくすると執事がロビーに戻ってきた。マルグレーテは顔を強張らせたが、ルドルフが「ブラント伯爵御子息様だけ、書斎にいらっしゃるよう言われております」と言ったので、安堵の息を漏らした。

 マルグレーテはルドルフについていくグスタフの背中を祈るように見つめた。




 グスタフは書斎に通されると、改めて挨拶した。


「急な訪問で申し訳ありません、シュミット伯爵。先ほどお目にかかりました、ブラント伯爵家長男グスタフです」


 グスタフは書斎の椅子に座るシュミット伯爵の怒っている表情に、足がすくみそうになった。

 マルグレーテ、確かにあなたが怖がるのは当然だ。自分の祖父は恐ろしい方だったときいているが、対照的に父の方は穏やかでめったに怒らない。そしてその気質は確実に自分に受け継がれているとグスタフは感じていた。


 シュミット伯爵は重々しい口を開いた。


「グスタフ殿、安心してほしい」


 突然放たれた言葉に、グスタフは「え?」と瞠目した。


「君が心配しているようにはならない。あの娘はさっきあんなことを言ったが、婚約を解消するつもりはない。世迷い事だと思って見逃してくれたまえ」


 グスタフは伯爵の言葉に目を瞬かせていたが、少し考えてから言った。


「伯爵、恐れながらお伺いいたします。あなたはマルグレーテ殿に何を望んでいるのですか?」


 グスタフの問いにシュミット伯爵は眉をひそめた。


「何とは? あの娘に何かを望んでなどいない。貴族としての役目を果たし、この一族の役に立てばそれで良いのだ。知っている通り、少々わがままな面がある。早く結婚し、落ち着いてくれればいいと思っているが……」


 貴族の当主らしい返事だった。しかしグスタフは言った。


「それは嘘です」


「なんだと?」


 失礼な言い方だとわかっていたが、グスタフは言わずにはいられなかった。


「あなたは……あなたはマルグレーテ殿を愛しておいでだ。彼女の幸せを一番に望んでいるのでしょう。そうでなければ、あなたのような音楽嫌いの方が、我が家のような、劇場に投資している家には嫁がせようとはしないはず」


「お、音楽が嫌いだとは……」


「それに伯爵は以前、ギルデンバッハ公爵家に婚約話を持ちかけていたはず。まさかあなたが、と内心驚きました。もっとも彼が養子を断ってからは、他の家と同じように話が流れたようですがね」


「……何が言いたい?」


 シュミット伯爵は眉間にしわを寄せたまま、グスタフを睨みつけていた。グスタフは心臓が震え上がり、脚はすくみあがっていたが、完璧な紳士の名の通り、涼しい表情を浮かべた。


「つまり、お嬢さんの幸せを望んでいたから、彼女の結婚相手に私を選んだということでしょう? 他にも有力な候補者はいたはずなのに、私の申し出を受け入れた。個人的には嬉しかったのですが……申し訳ありません、私では彼女を幸せにはできない。それを確信しました」


 その言葉に、シュミット伯爵は目を瞬かせた。グスタフは続ける。


「失礼なことを申し上げているのは百も承知です。ですが、彼女は次期伯爵になる私といてもーーこのまま貴族でいても、幸せにはなれないのです。彼女のことを思うのなら、たとえそれが道理から外れていても、望む通りにさせてあげてくれませんか」





 グスタフ・フリッツ・フォン・ブラントが最初に彼女の存在を知ったのは劇場だった。

 音楽好きの父に強制的に演奏会へ連れていかれた彼は、退屈だと思う音楽に辟易しながら、休憩の間ロビーを彷徨っていた。そこで、ひときわ楽しそうな笑い声が耳に入った。見ると、美しく上品に着飾った令嬢が、パリッとした正装に身を包んだ青年と談笑していた。青年は、楽譜を持っていることから、オーケストラの団員のように見えた。

 話の内容はもっぱら音楽のことで、先ほどの演奏ではこうだった、もっとこうすればいいなどと話していた。その後、令嬢は青年に楽譜を見せてもらいながら真剣な表情を浮かべ、何かを書き込んでいるようだった。

 音楽の話に夢中になっているその令嬢の表情は、周りにいるどの女性客よりも生き生きとしており、グスタフの目にはとても魅力的に映った。

 音楽はただ聴くだけ、踊って楽しめれば良いと考えている令嬢しか知らなかったグスタフには、これほどまでに音楽と真剣に向き合っている令嬢は初めてだった。そして、退屈だと思いながら演奏を聴いていた自分を恥じた。






 伯爵は珍しく戸惑ったような様子で言った。


「あの娘の望む通りに? なぜそこまで君が……グスタフ殿、君はそれほどマルグレーテのことを……」


「伯爵」


 ふと我に返ったグスタフは、伯爵のその言葉を遮った。最後まで言わせるつもりはなかった。


「先ほど、バイオリン弾きの彼はこの町を去ったそうです」


「……なに?」


 伯爵は目を細めた。


「彼女はそれを知って、いてもたってもいられなくなり席を立ちました。どうか仕方のないことだと許してあげてください。私からお願い致します」


 グスタフは丁寧に頭を下げた。


「婚約の方ですが、以前私がこちらで申し上げた通り、マルグレーテ殿が解消を望んでいるようなので、そうすることといたしましょう。父からもそう言われています」


 彼には一文の得にもならないのは明らかだというのに、伯爵はわからないというように首を振った。


「なぜだ。なぜあの娘のためにこんな……」


 グスタフは微笑みを浮かべた。


「マルグレーテ殿の幸せを一番に望んでいるからですよ、あなたと同じように」






 マルグレーテはずっとロビーに佇んでいた。執事のルドルフやベルタが二階の自室へ行くよう促していたが、彼女はそこから動かなかった。


 しばらくすると、ブラント伯爵子息が書斎から出てきた。


「グスタフ様」


 グスタフは彼女がまだそこに留まっていたことに少し驚いたが、やはり紳士然とした微笑みを浮かべてマルグレーテに言った。


「マルグレーテ殿、私はこれで失礼いたしますね」


「グスタフ様、その、父は……?」


 マルグレーテの顔には不安がありありと浮かんでいた。


「お父上の怒りは少し鎮まったと思いますよ。婚約もきちんと解消することになりました」


 穏やかにそう言うグスタフに、マルグレーテは戸惑ったような表情を浮かべた。グスタフは続けた。


「それに……お父上はあなたが思っているほど恐ろしい方ではないようですよ」


「え?」


 マルグレーテは目を丸くした。


「あの方はあなたの幸せを望んでいらっしゃる。だからあなたは、自分の望む通りにすれば良いのです」


 瞠目しているマルグレーテに微笑みかけると、グスタフは小さく頭を下げた。


「では、どうかお元気で……幸せになってください」


 執事が扉を開けると、ブラント伯爵子息は屋敷を出ていった。

 マルグレーテは弾かれたように駆け出した。そして馬車に乗り込もうとしている彼に大きな声で言った。


「ありがとう……ありがとう、グスタフ様!」


 ただそれしか言えなかったが、マルグレーテのお礼の言葉に、グスタフは嬉しそうに顔を綻ばせて手を振った。







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