12. 下り坂の先
テオが公爵家からの養子の依頼を断ったというニュースは、社交界に瞬く間に広がった。
貴族達は訳がわからないと首を傾げ、婚約者候補であった令嬢達は再びそれぞれの結婚相手を探し始めた。
テオはまた頻繁にシュタンマイアーのレッスンに通い始め、技術を磨いた。
養子の件の後も、マルグレーテとテオの仲は変わらなかった。それどころかマルグレーテは毎日のように叔父の屋敷を訪れた。結婚にこだわらなくったって、こうして会えればそれでいいじゃない。マルグレーテは屋敷でテオのバイオリンを聴きながら、そう思うようになっていた。
しかし、そうした日々は長くは続かなかった。
ある夜のことだ。ウィーンの町はふぶき、マルグレーテの部屋の窓枠にも雪が積もり始めていた。
「さすがに寒いわね」
「ええ、今夜は積もりそうですから温かくしておかなければ」
メイドのマリアが暖炉の火を強めるために火かき棒で格闘している様子をぼんやり眺めていると、執事のルドルフが部屋に現れた。
「旦那様がお呼びでございます」
突然の呼び出しだった。
一体なにかしら。叔父様の屋敷に行き過ぎた? 誰かに無礼な発言でもしてしまったの?
マルグレーテは緊張しながら書斎へ入った。
「お父様、お呼びでしょうか」
伯爵は大きな机の上で燭台の灯りの元、書類に何か書き込んでいるようだった。マルグレーテが来ると、手を止めてその厳めしい顔をあげた。
「マルグレーテ、お前の婚約が決まった」
マルグレーテは、一瞬何を言われたのかわからなかった。
「私の……婚約?」
伯爵は、そのまま見開かれた娘の目を見ながら淡々と続けた。
「ブラント伯爵の御子息、グスタフ・フリッツ・フォン・ブラント殿、向こうからの依頼だ。今お受けすると返事を書いているから、そのつもりでいなさい」
マルグレーテは息をするのもやっとだった。
父のこの言い方。伯爵の言葉からはもう決定事項だということがわかった。覆すことは許されない。
「近々お会いする予定だ。詳細が決まったらまた教えよう」
「……お、お父様」
「なんだ」
伯爵は鋭い眼光を向けた。
「な、なぜこんなに早急なのでしょうか。わ、私にこれまで、何も……」
「言う必要はないだろう、お前に決定権はない」
伯爵はマルグレーテの言葉を遮った。
「条件の良い縁談が来たから、それを受諾したまでだ。お前の姉達はもうすでに婚約している。お前は遅い方なのだぞ」
マルグレーテはきゅっと唇を噛みしめた。その通りだった。一番上のベルタは幼少期に、その下のギゼラとロザムンドはマルグレーテの今の歳で婚約を結んでいる。
娘のなにか言いたげな表情に、伯爵は眉を寄せた。
「ブラント伯爵の子息に不満でもあるのか?」
「い、いいえ……その、私はお会いしたことはなくて」
グスタフ自身に会ったことはない。だが父親のブラント伯爵といえば、叔父のエドガーと並び音楽好きで有名だ。マルグレーテは時々彼を劇場で見かけて叔父とともに挨拶することがあった。
その嫡男グスタフは、直接会ったことはないものの、社交界での噂では性格は良好、温厚で聡明であるときいている。申し分ない結婚相手だ。
「お、お父様」
マルグレーテは父の手元に視線を向けながら、からからに乾いた口を開けて言葉を紡いだ。
「この……この縁談は、わ、我が家にどのような利益をもたらすのか、教えてただけますでしょうか」
意外な質問に伯爵は瞠目したが、すぐに元の表情になって答えた。
「……ブラント伯爵家はうちよりも格式ある家だ。その一方で新興貴族とも良い関係を築いている。この時世、味方につけておきたい」
理由をきいた途端に、マルグレーテは一気に力が抜けた。この結婚には政治が絡んでいる。シュミット伯爵家にとって最善だから決められたんだわ。
マルグレーテは唐突に、かつて屋敷にいた家庭教師を思い出した。恐ろしい家庭教師で、灰色の髪をきっちりと結い上げ、いつも目を吊り上げていた。そして彼女がこう言っていたのを鮮明に覚えている。
『貴族の家に生まれたからには、一族が存続するために力を尽くさなければなりません。貴族の娘としてできることは、良き家との結婚。代々そのようにしてきたからこそ、今のあなたがあるのですよ』
その言葉が脳裏に蘇り、マルグレーテは悟った。もうどうしようもないのだと。
マルグレーテは蝋人形のように表情を固まらせて突っ立っていたが、伯爵はもう手元の書類に視線を戻していた。そして刺すような棘のある声で言った。
「もとより、お前の意見をきくつもりはない。話は以上だ。もう部屋へ戻れ」
マルグレーテは肩を震わせながら父に短く「おやすみなさい」と言うと、静かに部屋を出て行った。
パタンと扉が閉まる。
伯爵は机の上に広げた紙をもう一度見返した。
『グスタフ・フリッツ・フォン・ブラント。性格温厚。女性の影なし。父親との関係、友人関係共に良好。劇場音楽に支援』
伯爵はペンを持つと、そこに『マルグレーテとは面識なし』と付け加えた。
「ほんとうによろしかったのですか」
伯爵は後ろを振り向いた。執事のルドルフが控えているのを忘れていた。
「何がだ」
「お返事です。グスタフ殿はいつまでもお待ちになられるとおっしゃっていたでしょう。マルグレーテお嬢様は、気持ちの整理がついておられないようでしたが」
ルドルフの言葉に伯爵はふんと鼻をならした。
「あれはいつも気持ちの整理がついていない。さっきも言っただろう、娘達の間で婚約はマルグレーテが一番遅い」
「適齢期の話ではありません」
ルドルフは苦い顔をしたまま主人を見つめた。伯爵は椅子の背にもたれたまま執事をじろりと見上げる。ルドルフの言いたいことはわかっていた。
「……あの青年が貴族の養子にならない道を選んだ時点で、もう話はついている。マルグレーテもそれはわかっているだろう」
「あれからまだ半月も経っておりません。お嬢様が目を真っ赤にして夕食の席についていたことはお忘れですか」
身内だけの晩餐会があった翌日の夜、マルグレーテは明らかに泣きはらした様子で食堂の席についていた。昼間はエドガーの屋敷に行っていたらしいが、いつもならにこにこして帰ってくる彼女の珍しい姿に、屋敷の誰もが驚き、何かあったのではと訝しんだ。姉達やメイドが心配して理由を尋ねたが、マルグレーテは何もないと首を振るだけだった。
執事の非難するような口調に、伯爵は表情をぴくりとも変えず、仕事の書類に目を落とした。
「それならなおのことだ。むしろ政略結婚だと割り切らせれば、彼のことなど忘れてしまうだろう」
ルドルフはため息をついた。
「旦那様、人の心はそんなに簡単に操れません」
「うるさい、もう決めたことだ。口出しするな」
伯爵がそう言ってしまうと、執事は肩をすくめて「失礼いたしました」と言うと、書斎を出ていってしまった。
伯爵はふんと鼻息をもらすと、もう一度グスタフに関する情報を書いた紙を見た。
ブラント伯爵家は、常に政治では控えめだが皇帝からの信頼も厚い。悪くない縁談だ。それに何より、子息グスタフが自ら足を運んで頭を下げてきたのである。あの真剣な目をした彼ならマルグレーテを大切にしてくれると確信できた。
これを機に、早くあのバイオリン弾きのことを忘れてしまえばいい。伯爵は本気でそう思っていた。
エドガーは、姪のベルタから届いた急ぎの手紙を読み終えると、苦い顔を浮かべ、ため息をついた。
いずれこうなることはわかっていた。だがいざこの時が来ると、気が重かった。
部屋で頭を抱えていたが、やがてロビーから扉の開く音、テオの足音が聞こえた。シュタンマイアーのレッスンからの帰りだ。これからまた部屋での練習が始まる。
延ばせば延ばすほど言いにくくなるのがわかっていたエドガーは、手紙を手にしたままロビーに降りた。
「婚約……?」
テオは呆然とエドガーを見た。エドガーは苦い顔で頷いた。
「兄上がもう決めてしまったらしい。マルグレーテにはどうすることもできんだろう。ベルタの……あの子の姉さんの話だと、ずっと泣いているそうだ」
テオはしばらく目を見開いてエドガーを見つめていた。それはいつもの冷たい目つきではなく、どうにかしてほしいと縋るようにも見えた。いつもであればエドガーは何か良い方法を思いつくのだが、今回ばかりは難しい話であった。
やがてテオは視線を落とし、抑揚のない声で言った。
「これが貴族か」
エドガーは彼の苦しそうなその声に「テオ君」と呼び止めたが、テオは「練習してくる」と階段を上がって部屋に入り、扉を閉めてしまった。やがてバイオリンの音が響き始める。
エドガーは彼にかける言葉も何をすればいいのかもわからなかった。ただひたすらにいつまでも鳴り響くその音を聞くことしかできなかった。
婚約が決まると、マルグレーテは劇場への出入りを禁じられた。
マルグレーテが夕食の時におずおずと父親に演奏会のことを切り出しても、「結婚するまで我慢しなさい」の一言で片付けられてしまっていた。
演奏会だけでない、エドガーの屋敷に出向くことももちろん叶わなかった。理由は明白だ。テオにはもう会うなという意味なのである。彼と話をするくらい許してくれたっていいじゃない。こうなってしまったことを彼に話してもいないのよ。
今年の冬は長い。ちらちらと振る雪を窓越しに見ながら、マルグレーテがぼうっと部屋で過ごしているうちに、婚姻の手筈はどんどん整えられていった。
「どうやらお相手はあなたと早く結婚したいみたい。婚約したばかりなのに、私達姉妹の中で、あなたが一番早くこの屋敷を出る日が来そうよ」
ベルタが末妹の部屋の椅子に腰掛けてそう言った。
マルグレーテは窓のそばに立って外の冬景色を眺めながら「そう」とだけ言った。
その薄い反応にベルタは眉尻を下げたが、しかしわざとらしく笑ってみせた。
「まるで人ごとね。あなたの結婚なんだから、少しはグスタフ様のことを考えて差し上げたら? 今週だって何通も彼から来ているのに、まだ一つも返事を出していないんでしょう」
しかし、マルグレーテは肩をすくめただけで姉の方を振り返りもせず黙っていた。
ベルタは書き物机に置いてある手紙の束にちらりと目を向けた。封は切られてもいない。息を吐いて妹にしっかり向き直った。
「マルグレーテ。あなた、婚約が決まってからずっと無気力ね。食事もあまりしていないんじゃない?」
マルグレーテは窓を見つめたままで何も答えなかった。ベルタは続けた。
「もちろん、事情があるのはわかっているわ。でもグスタフ様に罪はないのよ。一通くらいお返事を書いてみなさいよ」
「……手紙を出すべき相手はグスタフ様以外にもいるわ」
やっと返ってきた小さな小さなマルグレーテの声に、ベルタはほっとした。そして少し考えてから言った。
「そうね。テオさんにも出してもいいと思うけど……でも正式な手紙はだめよ、お父様には知られないようにしなきゃ。言伝くらいなら私がエンマに頼んであげる」
マルグレーテは姉の言葉に驚いてがばっと振り向いた。
「ほんとうっ!? エンマに頼んでもいいの?」
「ほんの一言よ。その代わりグスタフ様にも返事を書いて。近いうちにあなたは彼の妻になるのよ。伯爵家の娘として嫁入りするのだから、お父様の顔に泥を塗ってはだめ」
ベルタが姉らしく厳しい顔で言ったのに、マルグレーテは唇を噛み締めて下を向いた。
そうだ、自分はブラント伯爵の息子と結婚するのだ。取り消すことのできない事実は、受け入れなければならない。
「……わかったわ」
封筒から取り出した婚約者からの手紙には、きれいな文字が並び、誠実な言葉が綴られていた。どの手紙にも共通しているのは、「お会いできませんか」と書かれていることだ。
直接会って一体何を話すというの、政略結婚じゃない。マルグレーテは冷めた気持ちで手紙を眺めていたが、読み進めるうちに彼の人柄の良さがわかってきた。
“父からあなたは音楽が好きだときいております。私は文学は好きですが、音楽の方は最初はあまり興味がありませんでした。しかし、父と共に演奏会に行くにつれて、音楽にも物語があることを知りました。最近ではオペラの上演を観に行くことが週に一度の楽しみとなりました。あなたは今、私と婚約したせいで、伯爵から劇場に出向くことを禁じられていると伺いました。ほんとうに申し訳ない限りです。一日でも早く、あなたと一緒に劇場に行くことができるよう最善を尽くしております”
また手紙とは別に、お菓子や花束の贈り物も毎日のように届いていた。
お父様は政治のためと言っていたけれど、どうやらグスタフ様自身が私との結婚を望んでいるらしい。だが、社交界や劇場に出ているなら、テオのことは知っているはずだ。そしてマルグレーテと仲が良かったということも。
しかし、手紙ではそれについては一切触れられていなかった。おそらく気を遣ってくれているのだろう。
マルグレーテは、一度も会ったことがないとは言え、さすがにここまでしてくれている婚約者に無反応なのは申し訳ないと思い始めた。そこで、「お食事をご一緒に」との返事を、当たり障りのない言葉でさらさらと書いた。
その一方で、テオにはどんな言伝を伝えてもらおうか三日も悩んだ。ベルタの話では、マルグレーテが婚約したことは叔父からすでに伝わっているらしい。
最初は、“愛している”と伝えてもらうつもりだった。しかし、グスタフからあのような真摯な内容の手紙を受け取ってしまっているのに、テオにそう伝えることは彼に申し訳ない気がした。
“あなたのバイオリンが聴きたい”はただのわがまま令嬢よね。“会いたい”と言ってしまうのもグスタフ様になんだか失礼な気がする。 “また会いましょう”はどうかしら……いつ? どこで? もう劇場でしか会えないの?
さんざん考えたあげく、結局エンマに伝えてもらうのは“ごめんなさい”であった。
他には何も言えないわ、言い訳じみた言葉は嫌だもの。マルグレーテは、とにかく突然会えなくなってしまったこと、約束を守れないこと、今まで散々振り回してしまったことも含めて謝ろうと思った。ブラント伯爵の子息との結婚の話を前向きに考え始めると、テオにはもうそれしか言えなかった。
しかし、このマルグレーテの曖昧な気持ちは、テオをひどく傷つけた。
「……“ごめんなさい”?」
テオは思わず復唱した。
夕日が照らされているエドガーの屋敷のロビーで、すっと背筋を伸ばした侍女のエンマが頷いた。
「マルグレーテお嬢様からの言伝でございます」
テオの隣にいたエドガーは目を瞬かせた。
「まさか、それだけかい?」
「お嬢様はすべてのことを詫びておられました。わがままに付き合わせてしまったことや約束を守れないことも。ですが……」
エンマは眉を寄せた。
「お嬢様は婚約者様のある身。あまり多くは伝えられないのです。こうして伝えるのも、姉君のベルタお嬢様による配慮のおかげですわ」
「し、信じられん……相手がいると言ってもさすがに他にも何かあるだろう」
憤慨したようなエドガーに、エンマはただ肩をすくめただけだった。
テオは何も発することはなかった。ただただ、彼女の言葉が衝撃的だった。
“ごめんなさい”。
何に対して? すべてのことってなんだ、婚約したことに? これまでのことは忘れてくれということか? もう、関係が終わりだと言いたいのだろうか。
エンマはつんとすましていたが、テオがショックを受けたような表情をしているので、少し気の毒になり、マルグレーテがベルタに話していたことを紡ぎ出した。
「……マルグレーテお嬢様は、あなた様をイタリアから無理やりウィーンに連れ出したのは自分なのに、婚約したことで全く会えなくなってしまったことを申し訳ないと言っておられました。旦那様のご指示で、劇場へは一切出入り禁止、それどころか外出すらほとんどできなくなってしまったものですから。結婚すれば多少は自由になるので、それまで待てと言われているのです」
エンマの補足は、今のテオとの関係を明確にした。
マルグレーテは、貴族の男と結婚することを受け入れた。だから謝るしかなかったのだ。結局それがすべてだった。
マルグレーテが、誰とも知らない貴族の男と結婚する。それを突きつけられた瞬間に、テオに込み上げてきたのは、怒りではなく吐き気だった。みぞおちがえぐられるような心地がした。ひどい気分だ。今まで生きてきた中でこんなに気持ちが悪いのは初めてだった。
テオは顔色を悪くしながらふらふらと後ずさった。そうしてやっとのことで声を絞り出し「謝罪は受け入れると伝えてくれ」と言うと、のろのろと二階の自室への階段を上っていった。
その背中を、エドガーは悲痛そうな面持ちで見送ると、そのままエンマの方に顔を向けると目を細めた。
「マルグレーテは……どうしている」
陽気なエドガーには珍しく怒ったような低い声だったが、エンマは動じることなく答えた。
「ずっとお部屋にこもりきりでしたわ。ご婚約された相手の方から毎日手紙や贈り物が届いているのに封を開けもしなかったので、さすがに数日前にベルタ様がお声かけされました」
「それで?」
「テオ様に言伝を頼めるのなら、手紙を読んで返事を書くとおっしゃって、そのようになさった次第でございます」
エドガーはため息をついた。
「相手に書いた手紙の内容もわかるぞ、“ごめんなさい”だ」
どちらにも謝罪をしているのに違いない。当然だ、失礼な態度をどちらにもとっているのだから。
だがエドガーは姪の心を察していた。父親が決めたことに真っ向から反抗できないのだ。いや、逆らうことなど兄上は許さないだろう。
エンマは静かに言った。
「……最初から、お嬢様とは身分が釣り合わなかったのです。それはあなた様が誰よりもご存知のはず」
「わかっている、わかっているさ。だが、こんな……こんな状況じゃ、あまりにもテオ君が気の毒だろう」
エドガーは、部屋で絶望しているだろう青年に心を痛めた。だが、私は……私は彼に何もしてやれないのだ。エドガーは歯がゆい思いで二階の方を見つめた。
テオは部屋に戻ると、そのまま冷たいベッドに突っ伏した。
貴族にならないと決めたのは自分だ。こうなることはわかっていたはずじゃないか……!
そう言い聞かせても、テオは張り裂けるほどの胸の痛みを感じていた。それと同時に、自分の心がこんなにもマルグレーテで埋め尽くされていたことを知った。
今までの出来事が頭に蘇る。
三人で演奏会に行った夜、マルグレーテがエドガーの屋敷に遊びにきていた日々、教会前での演奏、ギルデンバッハ公爵の孫かもしれないと知った時のこと、マルグレーテがやきもちを焼いて回廊で泣いていた時のこと、夢のようなキス、宮殿の舞踏会での演奏、貴族からの侮辱、初めての正式な演奏会の日、シュタンマイアーの美しいバイオリン、エドガーが眠っているのを見てマルグレーテと笑い合ったこと、ウィーンに到着した夜のこと、列車の中で楽譜の読み方を教わった時のこと、少年達に盗まれた楽器を取り返した時のこと、列車の旅、イタリアの酒場の前で呼び止められたあの秋の夜……。
それらすべてがぐるぐるとテオの頭の中で回転し、反響しせめぎあっていたーー演奏会で指揮者が入ってくる前に演奏者がめいめい楽器の音を出している時のように。それはやがてひとつの古ぼけたバイオリンに集結していった。
北風が窓を叩きつけるような音を立てている。
いつのまにか夜も更けたようで、あたりはすっかり静かだった。眠ってしまっていたのか。しかし頭は冴えていて、寝た気はしなかった。
テオはふと顔を上げ、椅子の上に置いてあるバイオリンに視線を投げた。
『これがあなたの……自然な姿なのよ』
マルグレーテの言葉が脳裏に浮かぶ。テオはぐっと歯を噛みしめ、バイオリンを右手で掴んだ。
悔しいかな、その通りだ。俺はマルグレーテと一緒になるために自由を捨てることはできなかった。
マルグレーテは貴族の娘だ。エドガーが『貴族には貴族のルールがある』と言っていたように、彼女は貴族と結婚しなければならない。それが彼らの世界で自然なことなのだ。
それならば、とテオは決めた。ウィーンを出よう。もうこの町にいる必要はない。否、いることはできないのだ、彼女を愛してしまった自分はもう。
翌日、テオは雪の降る中を歩いてシュタンマイアーのいる劇場に行った。
初老の指揮者は近々開催される演奏会のオーケストラを相手にリハーサルの指揮をとっていたが、テオの姿を見るとひと段落つけて中断し、楽団員には課題を出して彼のために時間を割いてくれた。
「レッスンの日でもないのに、あなたが一人で楽器も持たずに訪ねてくるのは珍しいですね。何かあったのですか?」
シュタンマイアーがいつもの優しげな微笑みを浮かべた。
テオは何と言おうか迷い、ぎゅっと眉を寄せ歯を噛みしめていたが、やがて言った。
「俺、この町を出ようと思って。先生にはたくさん教わったから、その……お礼を言いたくて」
シュタンマイアーは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにふんわりとした目に戻った。
「そうですか……それは寂しくなりますね」
理由をきかない師にテオは感謝した。きかれたところで、何と答えたら良いのかもわからなかった。
「……先生は、よそ者の俺を受け入れてくれたし、チャンスもくれました。正式な舞台で弾けたのは先生のおかげです」
「あなたがそれだけの技術を持っていたからですよ。演奏者は何を目指していようと、様々な場で演奏するという経験はあった方が良いですからね。お役に立てたようでよかった」
シュタンマイアーの言葉はどこまでもテオのことを思ってくれていて、テオは泣きたくなった。
シュタンマイアーは続けた。
「ウィーンを出ても、あなたが音楽を続けてくれるのであれば私は嬉しい。より多くの人の心に、あなたの音楽を響かせることができるのですからね」
テオは鼻をすすった。声を出したらほんとうに泣いてしまいそうだったので、小さく礼をすると身を翻して去ろうとした。
「テオ君」
呼ばれて振り返ると、シュタンマイアーはこちらへ歩み寄り、いたずらっぽい笑みを浮かべて小声で言った。
「ほんとうのことを言うと、私はあなたが貴族ではない道を選んでくれてほっとしているのです。あなたの音楽は、自由であるからこそ響き渡る。少なくとも私はあなたの選択を喜んでいますからね」
テオはシュタンマイアーの言葉に、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ほんとにありがとうございました」
鼻声でそう言うと、テオは今度こそ温かい劇場を後にし、雪の降る外へと足を踏み出した。




