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Bravo!  作者: レイチェル
11/33

11. テオドール



 木立が北風で揺れている。上質な緑のベルベットカーテンの後ろで、時おり窓がかたかたと揺れる音に、マルグレーテは気を取られていた。

 演奏会は大成功に収まり、楽団員たちはシュタンマイアーやエドガー達に丁寧に礼を述べた。酒場の店主が嬉しそうにアラベラ達を激励していたので、当分彼らの契約に関する心配はなさそうだ。



 マルグレーテ、テオ、エドガーは演奏会の後、ギルデンバッハ公の大邸宅を訪れていた。馬車で入り口に入る前から、門の荘厳さに圧倒されそうだとマルグレーテはひとりごちた。案内された客間も、シュミット伯爵邸の何倍も多くの数の調度品が並んでいる。

 三人はそれぞれ華やかな刺繍が施された椅子に腰を下ろし、公爵と向かい合った。

 出されたお茶は香り高く、マルグレーテは飲み干すと思わずほうっとため息を吐いてしまった自分に気づき、咳払いをしてこっそりギルデンバッハ公爵を見た。

 老人はもう涙は浮かべていなかったが、何か思うことがあるようで、テオを慈愛のこもった目で見ている。対するテオは、紅茶も飲もうとせず居心地悪そうに何度も座り直していた。


「ええと、それで」


 エドガーは一通りの挨拶を述べた後に言った。


「公爵は、テオ君をご存知なのですか?」


 ギルデンバッハ公爵はエドガーの問いに苦笑いを浮かべた。


「いいえ、先ほどは大変失礼をしました。驚いてしまって。その、テオ殿があまりにも息子に似ていたものですから」


「御子息……? 確かテオドール様でしたかな」


 そうエドガーが述べた名前に、マルグレーテは顔を曇らせた。そうだわ、確かギルデンバッハ公爵の御子息はご病気で……。

 ギルデンバッハ公爵は目を細めて頷いた。


「そうです。息子ーーテオドールは二十年ほど前に神の元へ旅立ちましたが……目鼻立ちといい髪といい、テオ殿とそっくりなのです」


 そう言って老人がそばに控えていた使用人に「テオドールの肖像画を頼む」と言うと、彼は頷いて部屋を出ていった。

 公爵はテオに言った。


「さし支えなければ、テオ殿のご両親のことをお伺いしてもいいですか」


 マルグレーテはテオを見た。テオは眉をしかめて口をへの字に曲げていた。話したくなさそうなのは明らかである。

 公爵は苦笑いを浮かべた。


「会ったばかりの老いぼれに自分の素性を話したくないのは当然だ。だが、どうかこのたった一人の息子を失った老人を慰めると思って、あなたのことを教えてくれませんか」


 その言い方はほんとうに憐れで、マルグレーテは胸を痛めた。現ギルデンバッハ公爵の子は、その亡くなったテオドールのみときいている。公爵の跡継ぎはきっと養子を取るか、爵位を売るか、返上しなければならないだろう。

 テオはしばらく口を結んでいたが、やがて老人の懇願するような視線に眉を下げ、口を開いた。


「……母親はジプシーだ、流行病で俺が小さい時に死んだ。父親は知らない」


 その言葉に、公爵はがっかりするかと思いきや、目を見開いてガタガタと震えだした。


「な、なんと……」


 老人は立ち上がると、テオの方へ身を乗り出した。


「……不躾で申し訳ないが、お、お母上の名前は」


 老人の勢いに、テオは眉をひそめたが答えた。


「……イネスって名前だけど」


 すると老人は瞳を震わせ、感動したように「おお……おお、神よ!」と天を仰いだ。ギルデンバッハ公爵の目には再び涙が浮かんでいる。

 三人は顔を見合わせた。一体どうしたのだろう。


 マルグレーテが気遣うように尋ねた。


「公爵様、大丈夫ですか、どうかなさいましたの」


「いや、まさか、こんな奇跡が……」


 公爵は皺の寄った鼻をすすり、取り出したハンカチで目を抑えた。


「申し訳ない。実は息子は……昔ある女性と関係を持っており、子を身篭らせていました。息子は彼女との将来を真剣に考えていたようでしたが、彼女はそうではなかった。公爵夫人になるつもりはさらさらないと笑って、お腹を大きくさせたまま町を去っていきました」


 公爵はテオの方を向いた。


「その女性こそ、イネスと言う名のジプシーでした」


「……っ!」


 テオは目を見開いて息をのんだ。


「なんですって?」


 マルグレーテは思わず驚きの声を漏らし、エドガーもびっくりしたように目を瞬かせて呟いた。


「そ、それがほんとうなら、それじゃあ、その、もしかして、テオ君は公爵の……」


「嘘だ」


 エドガーの言葉は冷たい声で遮られた。テオは零度の表情で公爵を睨みつけている。


「そんなのは、どこにでもある話だ。名前だってイネスなんてたくさんいる。俺の父親があんたの息子だって証拠は……」


と、テオは言葉を途切らせた。先ほどの使用人が肖像画を持って客間に戻ってきたのである。

 テオもマルグレーテもエドガーも、その絵に描かれた人物を見て言葉を失った。マルグレーテは思わずぽかんと口を開いた。

 

 公爵はテオの途中まで述べた言葉に頷いた。


「もちろん、証拠はない。しかし、可能性があることも確かなのです」


 彼らの目の前の肖像画、公爵の亡き御子息テオドールの顔は、テオの顔に生き写しだった。








「……君。テオ君」


 肩を叩かれ、テオは名前を呼ばれたのにはっと顔をあげた。辺りを見回すと、見慣れた階段と玄関口が見える。

 いつのまにかマルグレーテは家に帰り、自分もエドガーの屋敷に戻ってきていたようだ。ショックを受けてぼんやりし過ぎていたらしい。

 驚いてきょろきょろしているテオに、エドガーは苦笑いを浮かべた。


「ちょっと整理が必要だな」



 エドガーは、自室のこじんまりした小さなテーブルの前にテオを座らせて、ハーゲンに頼んでホットミルクを用意してくれた。

 その素朴な味は、幼い頃に母が用意してくれたものに似ていて、テオの表情はほうっと和らいだ。


「ありがとう、エドガー」


 テオが礼を述べると、エドガーは微笑んだ。


「今日はいろいろありすぎて疲れただろう。まあ、すぐに答えを出す必要はないさ……公爵は君をぜひ養子にと言っていたが」


 テオは思いつめたような顔をしていた。


「……エドガーはどう思う? あの人は嘘をついているのかな」


「まあ、話はどうにでも変えられるが、あの公爵に限って、君を騙そうと考えてはいないと思うぞ。彼の人柄は社交界でも正直者で有名だ。亡くなったテオドール殿の肖像画に関しても画家に直接尋ねてもいいし、目利きに見てもらうこともできるが、私が見る限り、ここ最近に描かれたものとは思えない。公爵の言う通り、君が彼の孫であるという可能性は十分にある」


 公爵の孫。想像すらしたことがなかった。テオは手に持ったミルクを見つめたまま言った。


「でも、母さんは……公爵の息子と一緒になることを選ばなかった。結局、それが答えだと思う」


 エドガーは頷いた。


「まあな。だが決める権利は君にもあるんだ。公爵は無理強いはするつもりはないと言っていたが、君を家族として迎え入れることを望んでいるようだった」


 テオは苦い顔を浮かべた。


「俺は、貴族にはなりたくない」


 強くそう思った。冷静に考えたって、俺は母さんと同じ意見だ。舞踏会にいるような連中と同じになるなんてまっぴらだ。

 貴族を嫌悪するような口調に、エドガーは小さく笑った。


「まあそうだろうな。君ならそう言うと思ったよ」


 エドガーは少し迷いながら続けた。


「だがな、今よりももっと可能性が広がることは確かだ。言うべきか迷っていたが……君にも選ぶ権利はあるから言わせてもらう。困らせてしまうかもしれないが、恨まないでくれ」


 テオは眉を寄せた。


「何を?」


「いいか、音楽だけの事を言っているんじゃない。よく考えてみろ、マルグレーテと同等の身分に、いや、公爵だから爵位はそれ以上になるんだ。言っている意味はわかるだろう」


 テオは無表情のままエドガーを見つめ、わずかに瞳を揺らした。

 エドガーは真剣な言い方で続けた。


「この町では、平民に平民のルールがあるように、貴族には貴族のルールがある。その垣根が越えられることはないんだ、少なくとも今の世では」


 エドガーはしばらくテオを射るような目つきで見ていたが、やがてふっと和らいだ目線になった。


「君が何を優先させて何を望むのかは、他でもない君が決めることだ。何を選ぼうと、私はその選択を全力で守ると誓おう。ゆっくり考えたまえ」







 ギルデンバッハ公爵が生き別れていた孫を見つけたという噂は、瞬く間に社交界に広がった。

 もともと音楽好きのウィーン貴族達は、突然現れた特異な若いバイオリン弾きの存在を時おり話題にしていたが、彼が公爵家の孫であるらしいという思いもかけない情報には、ことのほか興味を示した。


 ギルデンバッハ公爵自身はあくまで可能性があるだけで、正式に公爵家に入るかどうかを決めるのは彼だと述べていたが、社交界に出入りする人間は、この幸運な話をその日暮らしのバイオリン弾きが蹴るわけがないと決めつけ、青年に取り入ろうとあちこちの名家からエドガーの屋敷に贈り物や招待状が届いた。


 しかしテオの方は、公爵に会ったあの日から屋敷を出ずに、ほとんど部屋に篭った。

 エドガーが心配して一階の食堂へ連れ出したり、執事のハーゲンが身の回りの世話をしなければ、テオは日がなぼうっとしたままで過ごしていた。

 毎日必ず触れていたバイオリンも、ケースから出されることはなかった。

 テオがレッスンに来ないことを訝しんだシュタンマイアーから、彼の身を案じた内容の手紙が届いたが、その手紙を読んでくれたエドガーに、テオは「先生には、今は会えない」と言うだけだった。






 アラベラの楽団との演奏会ーーテオ達がギルデンバッハ公爵と会った日ーーから七日が過ぎたある晩、シュミット伯爵家の身内だけの晩餐会が、従兄弟伯父の屋敷で開かれた。伯爵である父はもちろん、三人の姉、そしてマルグレーテも招待された。

 マルグレーテは堅苦しい食事や、噂話が大好きな歳の近い従姉妹達が苦手であったが、晩餐の席の近くには叔父エドガーの姿もあったので、少しだけほっとした。


 しかし、又従姉妹のアガタの発言から、マルグレーテの気分はどんどん下がっていくことになるのである。


「ねえ、エドガー様。どうしてテオ様は今日いらっしゃらなかったの? 招待したはずよ」


 今テオ様と言った? マルグレーテは飲んでいたスープでむせそうになった。身内だけの晩餐会に、彼も招待したというのだろうか?

 エドガーは静かに答えた。


「ご招待はありがたかったが、彼はあいにく体調が優れなくてね。部屋で休ませている」


「まあ、それは残念……ねえ、彼はエドガー様の屋敷に一緒に住んでいるのでしょう? ぜひお会いしてみたいわ。とてもハンサムらしいじゃない」


 アガタの言葉に、エドガーは苦笑いを浮かべて言った。


「会ったところで彼が気の利いた会話をしてくれるわけじゃないさ。シュタンマイアー主催の演奏会に来ればいいじゃないか。彼のバイオリンは息が止まるほど素晴らしいぞ」


 それにはマルグレーテの姉ベルタも同調した。


「宮殿の舞踏会での演奏は私も聴いたわ。あんな音、他には誰にも出せないわよ、ダンスの途中で思わず足を止めてしまったもの」


「類いまれなる才能の持ち主だろう」


 エドガーは頷いた。

 

 いいえ、才能だけじゃないわとマルグレーテは心の中で呟く。彼には音楽への愛が人の何倍もあるわ。それに練習だってたくさんしているのよ。

 しかし、アガタは首を振った。


「だめよ、演奏会は嫌いなの。音楽だって退屈で仕方ないわ。でもハンサムな人がバイオリンを弾くのは絵になりそうね」


 そう言ったのにアガタの妹クリスティーネがクスクスと笑った。


「お姉様は相変わらず見た目を重視するのね。でも、そんな理由だけでは彼に近づけないわ。すでにロシュフェルト家のエミリア様やローザンベルグ家のアンナ様が、彼の婚約者の候補としてあげられているのよ。これからもまだまだ増えるはずだわ」


 これにはマルグレーテとエドガーも目を丸くさせ、顔を見合わせた。


「エミリア様とアンナ様が……? でも、彼女達は皇子殿下の花嫁候補でしょう?」


 ベルタの問いに、クリスティーネが答えた。


「そうだけど、他の花嫁候補との争いにうんざりしたんじゃないかしら。確かに、公爵家に入ることには変わらないものね」


 その言葉を遠くから聞いていた伯母のエラが眉をひそめた。


「公爵家に入るとは言えど、ほんとうに公爵の孫かどうかも定かではないときいたわ。そんな男に嫁ぐなんて……」


 アガタは肩をすくめた。


「まあ、確かに血筋は信用できないけど、でもいずれは公爵夫人よ! それにハンサムならかまわないわ」


 そんな会話に、マルグレーテはいらいらと歯ぎしりしそうになるのを堪えていた。侮辱にも程があるわ。

 しかし、マルグレーテはこの席で怒り出したりはせず、ただ聞き流して食事を続けていた。厳しい表情をした父親も、同じテーブルについていたからである。

 シュミット伯爵は会話には参加しようせず、何も言葉を発さずに食事をしていた。マルグレーテも父にならい、そのようにしていた。口を開けば絶対に失敗することがわかっている。

 その後は、マルグレーテの二番目の姉ギゼラが最新流行のドレスの話を始めたため、話題はそちらに移り、マルグレーテはようやく落ち着いて食事をすることができた。


 晩餐会を終えて馬車が伯爵邸に着く頃にはもう日付が変わろうとしていた。


「お帰りなさいませ、旦那様、お嬢様」


「ただいま、ルドルフ」


「ああ、眠いわあ」


 執事のルドルフが出迎えてくれ、姉達はあくびをしながらロビーの階段を上がっていく。マルグレーテもその後ろに続こうとした。

 しかし。


「マルグレーテ」


 後ろから呼ばれ、びくりとして立ち止まった。

 父の声だ。


 目の前から遠ざかっていく姉達の後ろ姿に「まって」とすがることもできず、マルグレーテはぎこちなく振り返った。


「……なんでしょう、お父様」


 伯爵は表情を崩すことなく、鋭い眼光を向けたまま言った。


「彼が……ギルデンバッハ公爵の孫だというのはほんとうか。公爵は、彼を迎え入れようとしているときいたが」


 マルグレーテは突然の思いがけない問いに一瞬息を止めた。

 なぜテオのことを?

 自分の心臓の音が大きく、速くなるのがわかる。ぶわっと汗が出たような気がした。

 まっすぐ見つめる伯爵の目は、娘の心を見透かしているようだ。

 動揺してはだめ。

 マルグレーテは努めて冷静になろうと息を吐いて答えた。


「定かではありません。ですが、公爵の亡き御子息の肖像画は、他人とは思えないほど彼にそっくりでした」


 伯爵は一瞬だけわずかに瞳を揺らしたが、「そうか」と言うだけですぐに踵を返し、自室へ続く廊下へと歩いていってしまった。

 マルグレーテは拍子抜けするくらいにそっけない返事に戸惑いながらも、父の背中に向かって挨拶を述べる。


「お、おやすみなさい、お父様」



 なぜ父があんなことをきいてきたのだろうか。だが怒っていたわけではなさそうだ。

 ほっと一息ついてロビーの奥の階段を上がろうとしーー、またもや「マルグレーテ」と呼び止められた。

 振り向くと、今度は叔父だった。玄関とロビーに並ぶ柱のそばに立っている。


「叔父様!」


 マルグレーテは彼の元へ駆け寄った。




 エドガーは姪の顔を見つめた。

 マルグレーテが変に心配しないように、エドガーは最初はテオの様子を伝えるつもりはなかった。しかし、彼が何日も同じ状態なので、考えを改めたのである。


「……テオ君はあれから一度も楽器に触れていない。一日中ぼんやりしていて、ご飯もろくに食べない。あんな彼は初めてだ。あのままでは……病気になってしまう」


 マルグレーテは不思議そうに首を傾げた。


「でも、彼は社交界が嫌いだったでしょう。ギルデンバッハ公爵と血の繋がりがあったとしても、テオは公爵家に入りたがらないと思っていたわ。迷うなんてちょっと意外……」


「お前だよ、マルグレーテ」


「え?」


 エドガーは苦い顔で言った。


「私が言ってしまったことにも責任があるが……でも教えないのはフェアじゃないから言わせてもらった」


「なんのこと?」


「わかるだろう……テオ君が、今の身分ではお前と一緒になれないことが。彼はお前のために、貴族になるかならないか、ずっと悩んでいるんだぞ」


 マルグレーテは目を見開いた。


「とにかく、彼と会ってくれないか。お前に何を言えとは言わない。だがあのままでは、きっと永遠に結論は出ない」


 呆然と立ち尽くしてしまった彼女に叔父がそう言うと、マルグレーテは俯いたままだったが、ゆっくりと頷いた。






 エドガーが伯爵邸から去っていった後、マルグレーテはメイドのマリアに就寝の支度をさせたが、終始ぼんやりしており、ドレスを脱ぐ時もネグリジェを着る時も、マリアが何度も呼びかけなければならなかった。

 ようやく寝る支度を終え、マリアを下がらせてからも、マルグレーテは鏡台の前で髪の毛を梳かしながらずっと思いをめぐらせていた。


 考えることはただひとつ。テオが貴族になったら、である。


 マルグレーテは想像すらしていなかった。貴族嫌いの彼が、その世界に入ることを望むわけがないと思っていたからだ。

 しかし父伯爵は、テオが公爵家に入ると考えているようだった。お父様だけじゃない、社交界の人間はみんなそう予想しているのだわ。

 マルグレーテの頭に、晩餐会で従姉妹のクリスティーネが言っていたことがよぎった。


『すでにロシュフェルト家のエミリア様やローザンベルグ家のアンナ様が婚約者の候補としてあげられているのよ』


 ついこの間までテオのことを歯牙にもかけなかったというのに、大貴族の公爵家の人間とみると、すぐにこうなるのだ。

 貴族ってこういうあからさまなところが嫌ね。それも恥ずかしいと思わない辺りが致命的だわ。マルグレーテは、呆れたように息を吐いた。


 テオが貴族に。そうなった場合のことを考えてみる。

 たしかにテオが公爵家に入れば、社交界でしがない音楽家でしかなかった彼の立場は圧倒的に向上する。そうなれば、あの恐ろしいマルグレーテの父でさえも、彼との仲を許してくれるだろう。世間に認められてテオの妻になることができるのだ。そう、彼の妻に……そしてそれを、彼も望んでくれている!

 そう考えると、マルグレーテの心は春を迎えたように一瞬花開いたが、すぐにしぼんで俯いた。


 いいえ、だめだわ。

 マルグレーテは、この期間でテオの心を十分に理解していた。

 彼は地位より、豊かな暮らしより、自由を好むだろう。義務があり、窮屈な生活に縛られた社交界に出入りすることなど、彼が望んでいるわけがなかった。


 マルグレーテは目の前の鏡の自分を見つめた。

 叔父は、テオが私との将来を考えているから迷っていると言っていた。何よりも大切にしている自由と、マルグレーテと共に人生を歩むことを天秤にかけているということだ。

 テオが公爵の養子になったとしよう。ギルデンバッハ公爵家といえば、古い血筋を辿ると皇族に繋がる。広大な領地を手に入れると同時に、その運営に勤しむことになるだろう。もちろんあの公爵がいきなりそんな仕事をテオに押しつけるとは思えないが、今のように音楽を追求する時間が減ることは間違いない。その権力や財力で、音楽に力を入れることはできるが、跡継ぎとなるテオがバイオリンばかり弾いて暮らすというわけにはいかないだろう。

 マルグレーテは、彼が舞踏会の夜に大量の酒を飲んでいたことを思い起こした。彼はあの晩、どこかの貴族のせいで相当嫌な思いをしたらしかった。酒場で彼の虚ろな瞳を目にしたあの時、マルグレーテは彼が望まない限り社交界に連れていってはならないと胸に刻んだのである。


 マルグレーテは鏡の自分に、キッとした表情を向けて唇を噛んだ。

 私のせいで、彼の人生を潰してはいけない。たった一人の女のせいで、彼の大切な大切な未来を奪ってなるものですか。

 彼が私のために貴族になろうか迷っているのなら、私はそれを否定しなければならないわ。だって私は、平民だろうと貴族だろうと彼への気持ちは変わらないけど、テオが公爵家に入ってしまえば、その時に失ってしまった自由は、もう取り戻すことはできない。


『一度も楽器に触れていない。一日中ぼんやりしていて、ご飯もろくに食べない。あんな彼は初めてだ。あのままでは……病気になってしまう』


 マルグレーテは叔父の言葉を思い返し、テオの事を思った。ほんとうに彼に必要なのは、食事でも、貴族の地位でもない、音楽なのよ。

 マルグレーテは、彼にとっての最善とは何かを本人以上に確信していた。








 翌日。曇り空ばかりの寒い日々が長く続いていたが、この日は太陽の光がうっすら見えていた。


 テオは自室の椅子に座り、時おり吹きつける北風で揺れる窓を見つめ、相変わらずぼんやりと過ごしていた。

 お昼過ぎに、扉を叩く音が静かな部屋に響いた。


「テオ君、入るぞ」


 返事はしないとわかっているため、エドガーはいつもこのような調子で入ってくる。


「悪いけど、食事はいらな……」


 テオは振り返りながらそう言いかけ、エドガーの後から入ってきた人物に、言葉を途切らせた。


「マル……グレーテ」


 マルグレーテは淡いピンクのドレスに身を包んでいた。上品にまとめ上げた髪は艶々と輝いている。

 彼女の顔はこちらを見て眉を寄せ、口をへの字に曲げていたが、久しぶりに見る彼女は美しかった。


 マルグレーテは普段のように微笑みはせず、部屋を見渡し、隅に置いてある楽器ケースを見つけると、それを掴んだ。


「テオ」


 マルグレーテは息を吐いてから低い声を出した。


「今すぐ町に出るわよ」


 それは有無を言わさない言い方で、テオは言われるがままに部屋から連れ出された。


 屋敷から出ると馬車に押し込まれる。背中を押したマルグレーテに続いて、その後ろからエドガーが苦笑いを浮かべながら一緒に乗り込んだ。


 そのまま馬車はガタゴトと音を立てて進んだが、マルグレーテはテオのバイオリンを抱えて外を見つめたまま無言だった。なんだか怒っているようだ、それもテオに。

 いつもなら自分にはにこにこと話しかけてくるのに、このような態度のマルグレーテは初めてだった。

 テオはちらちらと彼女の表情を伺い、説明を求めるようにエドガーの方を見た。しかしエドガーはテオの視線に肩をすくめただけだった。


 馬車はすぐに止まった。どうやら郊外の教会前の広場に来たらしい。大きな通りに面していて、寒空を人々がせわしなく歩いている。


 テオは、マルグレーテに言われるままに降りた。彼女は教会の階段下の前まで歩くと、その場にしゃがみこみ、手にしていた楽器ケースを開けてバイオリンを取り出した。


「お、おい……」


 テオの戸惑う声にはかまいもせず、マルグレーテは両手に持ったバイオリンと弓を、テオの鼻面に突き出した。


「さあ、ここで演奏して」


 その言い方があまりにも高慢であったため、テオも眉を寄せた。


「断る。気分じゃない」


 それを聞いた途端に、マルグレーテがぐっと目を吊り上げ恐ろしい表情になったので、テオは思わずたじろいだ。

 ちょうどその時、教会の鐘が鳴った。教会の扉が開き、わらわらと子ども達が出てくる。

 彼らは階段下でバイオリンを持った人物がいるとわかると、わあわあ騒ぎながら走り寄ってきた。


「あれえ、楽器持ってる!」


「楽器だ楽器だ」


「知らないのか、バイオリンって言うんだぞ」


「ねえねえ、弾いて弾いて!」


「わあいわあい」


「バイオリンの演奏だって!」


「すごおい」


 たちまち周りに集られたテオは、眉間にしわを寄せた。だが、マルグレーテからの鋭い視線と、子ども達からの期待に満ちたきらきらした目を向けられ、ため息を吐いて、ついにマルグレーテから楽器を受け取った。


「わかった、弾くよ」


 すると、マルグレーテからは怒りの表情が消え失せ、花が咲いたような笑みが広がった。


「わあ、よかった! さあみんな、彼が演奏するから少し下がってちょうだい!」


 テオに跳びかからんばかりであった子ども達を少し遠ざけると、マルグレーテは少し離れて見ていた叔父に得意そうに微笑んだ。それにエドガーも口の端をあげて笑みを返す。


 周りの子ども達に急かされて、テオはようやく楽器を構えると弓を傾けーー音を紡ぎ出す。


 久しぶりにその弦から編み出される音楽は、マルグレーテが前にも聴いたことのある、テオの得意な曲だった。民族舞曲のようで上品さも思わせる、切ない旋律だ。

 バイオリンの音の美しさが滲み出るメロディーに、マルグレーテは心を震わせた。演奏からもテオ自身からも、先ほどエドガーの屋敷で見たような憂鬱な雰囲気はすっかり消え去り、そこにあるのはただひたすらに音楽への情熱だった。



 やがて演奏が終わると、歓声と拍手が湧き上がった。いつのまにか子ども達以外にも人だかりができており、あちこちから演奏者の方へコインが投げられる。

 その光景をテオは懐かしく感じていた。今はエドガーの屋敷で優雅な生活をしているが、自分は本来、このようにして日銭を稼いでいるのである。

 貴族の後ろ盾を得た舞台での演奏と比べて、どちらがいいかなんてわからなかったし、不思議なことにどちらも嫌いではなかった。

 ただ、昔の生活の方がテオにとっては自然であるように感じられた。そして自然であることは、こんなに清々しいものだったのかと初めて知った気がした。




 テオは小さくお辞儀をすると、投げられたコインを拾い始めた。周りにいた子ども達も一緒に拾ってくれる。


「ありがとう。このコインは君達にやろう。好きな物を買うといい」


 テオがそう言って子ども達にいくらか握らせると、彼らはびっくりしたような表情を浮かべた後、頬を紅潮させて「わあい! わあい!」と嬉しそうにテオの周りをぴょこぴょこ飛び回った。そして青年に元気よく「ありがと! お兄ちゃんありがと!」と礼を言った。


 マルグレーテはその様子を見守っていたが、子ども達が去っていくとテオの方に駆け寄った。


「素晴らしい演奏だったわ。前にも聴いたことがある曲だけど、あの時よりももっと感動しちゃった!」


 その後ろから、エドガーも笑みを浮かべながら彼女の後に続いた。


「安心したよ……ここのところ、全然弾かなかったじゃないか」


 その言葉に、テオは下を向いた。


「弾かなかったんじゃない、弾けなかったんだ。あんなごちゃごちゃな気持ちのままじゃ、楽器に触ることができなかった」


 エドガーは目を細めた。


「……そうか、それでシュタンマイアーのところへも行かなかったんだな」


 テオは頷いた。


「ちゃんと弾けないのに、先生に会うなんて無理だった。先生が迷いのある心のままでは良い音楽は生み出せないって言ってたから。先生には俺のだめな音楽を聴かせたくなかった」


「テオ……」


 ずっと悩んでいたのね。

 貴族達は、テオが公爵からの申し出を受けないはずがないと結論づけていたが、彼はこんなに迷っていたのだ。

 眉尻を下げたマルグレーテに目を合わせたテオは、小さく微笑んだ。


「マルグレーテが無理やりここまで連れ出してくれたおかげで、そんな心配は必要ないことがわかったよ。音楽は音楽だ。俺に生気を取り戻させてくれる」


 テオがそう言うと、マルグレーテも微笑みを返した。


「よかったわ、あなたが元気になって。苦しむ姿なんて見てられない。これがあなた……あなたの自然な姿なのよ。貴族の檻の中じゃなくて、あなたは……あなたはね、テオ、ずっとこのままでいるべきだわ」


 テオはマルグレーテの言った言葉に驚き、まじまじと彼女を見た。彼女の寂しそうな、そして今にも泣き出しそうな微笑みに、テオは悟った。

 ああ、マルグレーテは……わかってくれている。


 あの七日前の演奏会で、マルグレーテが自分のことを憎からず思ってくれていることをテオは知った。だから、貴族になってくれと彼女が自分に懇願するのではないかと思っていた。そうなったら自分はきっと断ることができないこともわかっていた。


 でも違った。

 マルグレーテはちゃんとわかってくれていた……自分が貴族として生きることを望んでいないことを。そして今、こうして町へ連れ出して、楽器を弾かせた。こうあるべきだと示したのだ。


「ありがとう、マルグレーテ」


 テオは真剣な表情で礼を言った。この選択が、二人が共に歩く未来を遠ざけるものだと彼女はわかっていたはずだ。だが彼女は、自分の気持ちよりも、テオ自身の心を優先させてくれたのである。


 テオのすまなそうな、だが心からの礼に、マルグレーテはにっこり笑った。その拍子にうっかり目じりから涙を零してしまったが、言葉を発することはなかった。


 エドガーは何か言うこともなく、目を細めてただただ若い二人を見守っていた。それは、まるで何かを思い出しているかのような、憂いを帯びた表情だった。







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