14. マルグレーテの選択
グスタフを見送ると、マルグレーテは二階へ上がり自室にこもった。
ベッドの上で膝を抱えるようにして小さく座っていたが、北駅の時のように涙を流してはいなかった。
テオがこの街を去った。その事実は、マルグレーテを想像以上に打ちのめした。
いつかは出ていくことはわかっていた。そういう約束だったのだから。だが、もっとずっと先のことだと思っていた。しばらくはエドガーの元で暮らしていくものだと思っていた。今は会えずとも劇場に行けば会える、婚約のこともテオならわかってくれると、そう考えていたのだ。
甘いわ、ほんとうに。
マルグレーテは、みじめな自分が嫌で嫌でたまらなかった。一度は自分との将来を考えてくれた彼に、私は何をしたのだろうか。
彼のことを考えると、涙がこみ上げてきそうになったが、マルグレーテはぐっとこらえた。
私は泣いちゃいけないわ、テオやグスタフ様にひどいことをしたのは私自身なんだから。
ブラント伯爵子息は穏やかな笑みを浮かべて『自分の思う通りにすればよい』と言ってくれた。
私は一体どうしたいのだろう。そして、テオは何を望むだろう。
マルグレーテはぐるぐると考えてばかりいた。
冷たい風はいつまでもカタカタと窓を揺らしていた。
夕食の席で、ベルタは空いている末妹の席を見て、こっそりとため息をついた。
メイドのマリアから妹が食堂に降りて来られないときいて彼女の部屋まで出向いたが、扉越しにマルグレーテは「ほんとうに何も食べられないの」と言い張った。
「お願い、お姉様。今夜だけだから。明日の朝にはちゃんと降りるわ」
こう言われてしまっては、ベルタも無理強いはできなかった。
シュミット伯爵家の夕食は、葬式のように静かであった。食器やカトラリーの音が小さく鳴るだけで、おしゃべりなギゼラやロザムンドも今夜は石のように押し黙って食事をしていた。父だけがいつもと変わらない様子だったが、ベルタの想像していたように怒りに満ちてはおらず、少し驚いていた。
しかし、いつ父がマルグレーテのことを切り出すのかと、この場にいる者達全員がびくびくしていた。
これまで父の意向に逆らった者はいなかった。言いつけ通り家庭教師の元で学び、貴族としての作法を身につけ、あてがわれた人物と婚約した。気位の高いロザムンドが絹のドレスのことでわがままを言った時も、珍しいもの好きのギゼラが南国の小鳥を飼いたいと願った時も、伯爵の一喝で全て片がついた。そんな父に、初めて末の妹が反発したのである。
ベルタは父の表情をちらりと見た。マルグレーテは、先ほど屋敷を訪ねてきていたグスタフ自身が婚約を解消すると父に話したと言っていた。父はこのことをどう思っているのだろうか。少なくとも伯爵子息を怒鳴りつける声は聞こえてこなかった。どうやら婚約する前から向こうの家とも話をつけていたらしいが、詳しい事情はわからない。
ベルタは、婚約者からの手紙に返事を書くよう妹に言ったことを後悔していた。テオの元に短い伝言をと言ったのも自分だ。いずれは直面する事実だったとしても、火蓋を開けたのは自分だった。
父がマルグレーテをどうするにしても私にできるだけのことはしてあげたい。ベルタは祈るような気持ちで父の様子をこっそり伺っていた。
ラム肉の皿を下げ、召使いがお茶を運んできた時、とうとう伯爵が口を開いた。
「マルグレーテは降りてこないつもりなのか」
全員がびくりと身体を強張らせた。ベルタが落ち着いて答える。
「はい。その……今夜は食欲がなく、何も食べられないと言うので、部屋で休ませています」
伯爵は口を曲げて言った。
「部屋に閉じこもるとはいい気なものだ。一人は婚約の解消を穏便に済ませるために相手の家に出向き、もう一人はこの寒い中で町を去ったというのに」
「お言葉ですがっ……!」
ベルタは思わず声を荒げたが、伯爵は続けた。
「自分で撒いた種であろう。バイオリンの青年は最初からわきまえていた。ブラント伯爵の嫡男もそうだ。彼は彼なりに考えていた。何も考えていなかったのはマルグレーテの方だ」
「何も考えないことを強いたのはお父様ですわ!」
ベルタも負けずに言った。
「私達、娘にとってお父様の言うことは絶対。屋敷から出ることも、何をするにしてもお父様の許可が必要です。結婚も当然そうだと……」
「そうだとしたら、今日の昼食会はなんだ。あのような……あのような失礼な断り方があるか!」
伯爵はとうとう怒りをあらわにし、娘達はびくりと身体を震わせた。
そう、父は怖いのだ。しかし昼の事を考えると、父が怒るのはもっともだった。ベルタは父に怒りを向けられている妹に申し訳なく思った。無理やりに手紙を書かせたのは私なのに。
「私がいけないのです、私があの子に返事を書くよう強いたのです。あの子は会いたくなかったのに彼と……」
「そんないいわけは貴族の家の者には通じない。婚約者に返事を書くのは当然だ」
伯爵は娘の言葉を遮ると次のように言った。
「あれは修道院に入れる。しばらくすれば大人しくなるだろう」
「そんなっ!」
ベルタは悲鳴のような声をあげた。
「ひどいわ……」
「あんまりです!」
じっと会話を聞いていたギゼラやロザムンドも驚いて批判の声を出した。
伯爵は気難しげに眉を寄せ、ぎろりと娘達を見た。
「黙れ」
低く恐ろしい声に、三人の娘達は座っているのに足をすくませた。
「お前達の意見など求めていない、でしゃばるな」
伯爵は立ち上がってナプキンを置く。
「今夜は放っておけ。明日のこの時間までに、修道院を選ぶか、グスタフ殿と結婚するか決めろとあれに伝えておくんだ、いいな」
そう言うと、伯爵は頑なな表情を崩さずに部屋を出ていった。
翌日、マルグレーテはぼんやりと目を覚ました。
冬の朝らしく、まだカーテンの向こうは暗いようであったが、朝早くメイドのマリアが入れてくれたであろう暖炉の火のおかげで、部屋は温められていた。
かちゃりと音を立ててマリアが入ってきたのに、マルグレーテはもそりと体を動かした。
「マルグレーテ様、おはようございます」
「おはよう、マリア。暖炉に火を入れてくれてありがとう」
「当然ですわ……食欲はございますか?」
心配そうな表情のメイドに、マルグレーテはにっこりと微笑んでみせた。
「ええ。今日の朝はちゃんと食べられそうよ」
緊張しながら食堂に降りていくと、テーブルにはベルタとロザムンドが座っていたが、他には執事のルドルフが脇に立っているだけだ。と、後ろからギゼラも眠そうな声で「おはよう」とやってきた。
父の姿はなかった。朝早くからどこかへ出かけているのだろうか。
「いただきましょう」
ベルタの言葉に、シュミット伯爵家の娘達は朝の食事を始めた。
マリアには微笑んでみせたが、マルグレーテはほんとうはそれほど食欲はなかった。しかしロザムンドとギゼラがいつもと同じように、新しい流行のドレスや体型についてとりとめのない話を交わしているのをきいて、心がほっとしているのを感じていた。
「グレッグ侯爵令嬢が着ていた新しいドレス見た?」
「見たわ、でもあれは細身の彼女しか着れないわよ」
「あーあ、どうしたらあんなに首と腰が細くなるのかしら、毎晩首と腰を紐で絞めてるんじゃない?」
「まさか。そんなことしたら息ができないじゃないの。きっとあれだわ、中世時代の拷問器具。あれで身体を伸ばしてるのよ」
「それこそ死んでしまうじゃない」
いつもと変わらない朝の姉達のおかげで、マルグレーテは小さく笑みを浮かべた。今日は久しぶりにきちんと朝食をとることができそうだ。
しかし姉達には妹に言わなければならないことがあった。
朝食を終えてお茶が出された時、ベルタは緊張したような声で言った。
「マルグレーテ、大事な話があるの」
マルグレーテは顔を上げた。ギゼラやロザムンドも黙り込んで長姉を見つめる。
「昨日の夜、お父様からあなたに言いつかったの……とてもつらい選択だと思うんだけど」
マルグレーテは真剣な表情で姉を見た。
ベルタは続ける。
「あなたは今夜の夕食までに決めなければならないの、グラント伯爵家のグスタフ様と結婚するか、でなければ……修道院に入るか、どちらかですって」
沈黙が流れた。
ベルタは妹がわっと泣き出すと思っていた。
しかし驚いたことに、マルグレーテは表情を歪めることはななかった。それどころかふっと笑みを浮かべたのだ。
マルグレーテは言った。
「お父様らしいわね」
「マルグレーテ!」
ロザムンドが思わず言った。
「私は反対よ! たとえ一時的だとしてもあなたを修道院に入れるなんて」
それは心から妹を心配しているような口調だった。
ギゼラも言った。
「グスタフ様はあなたとの結婚を望んでいるのよ。少なくとも、あなた自身に恋をしていると、社交界でも噂になっているんだから」
マルグレーテは、社交界の噂もでまかせだらけではないのねとぼんやり思った。
「マルグレーテ」
ベルタが力強い声で呼びかけ、妹の目をまっすぐ見て言った。
「お父様はあなたにとっての幸せを考えているわ。だからグスタフ様を選んだの。引き合いに修道院を出してきたのも、きっとつらいことを忘れられるように無心に祈るためではないかしら」
「……きっとそうなのでしょうね」
グスタフも同じことを言っていた。マルグレーテは遠くに目を向けた。
お父様はほんとうにそう思っているのだわ。私の幸せが、ほんとうにそうだと……。
「マルグレーテ」
ロザムンドとギゼラ、そしてベルタは心配そうに妹を見つめた。
マルグレーテはふと我に返ったように姉達に笑みを向けた。
「ありがとう、お姉様達。実はね、私……もう決めているの」
「え?」
「どういうこと?」
驚く三人にマルグレーテは言った。
「まだどうするか、方法はこれからなのだけど、もう心は決めたのよ。でもお姉様たちにお話する前に……一度叔父様のところへ行かせてほしいの」
「エドガー叔父様のところへ?」
姉達は目を丸くさせて妹を見てから、顔を見合わせた。
姉達のはからいにより、マルグレーテはエンマを伴って馬車に乗り、エドガーの屋敷へ向かった。
叔父とは昨日駅で会ったが、婚約してから一度もこちらの屋敷に来ていなかったので、久しぶりに訪れた客間がひどく懐かしく感じられた。
「旦那様はまもなく参ります」
執事のハーゲンが穏やかにそう言って出ていった。エンマは遠慮して扉のそばに立ったままだ。
マルグレーテは長椅子に腰を下ろし、周りを見回した。
いつも自分はここに座り、向かいにエドガーが、そして脇に置いてある椅子にテオが座った。テーブルにはバイオリンと楽譜が置かれ、頼めばすぐに彼が弾いてくれたものだ……。
ひゅうと風が鳴る音が、窓を叩きつける。あの頃よりも、今はもっと寒くなった気がするわ。マルグレーテが煌々と燃える暖炉の火に視線を移した時、ノックと共にガチャリと扉が開いて、屋敷の主人が入ってきた。
叔父は姪が来ることがわかっていたのか、別段驚いた様子はなかった。
「叔父様、突然押しかけてごめんなさい」
エドガーは姪にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お前が私に謝るとは。突然の来訪よりも驚くな」
叔父がおどけて言ったのに、マルグレーテは少し大人びた顔で「ふふっ」と笑った。エドガーは彼女の前に座ると真剣な声で尋ねた。
「……何か話があってきたんだろう?」
マルグレーテは頷いた。
「叔父様の意見をききたいの。私の今後のことよ」
その夜。
伯爵が食堂に入ると、マルグレーテが一番気に入っているドレスを着て、席についていた。
ベルタやロザムンドは妹の方を心配そうに、そしてギゼラは心なしか青い顔で見ている。しかし末娘の顔はいくらか晴れやかだ。そして、食欲がないと言っていたのが嘘のように皿を空にしていった。
食事を終え、いよいよお茶の時間になった。
「お父様」
マルグレーテは言った。
「昨夜、私に選択肢を与えてくださったとお姉様方からききました」
伯爵は眉をぴくりとも動かさずに娘を見た。
「決心はついたのか」
マルグレーテは頷いた。
「はい。私は修道院の方を選びます」
これには伯爵も少し驚いたように一瞬目を大きくさせた。
「……ほう。それがお前の選択か」
「はい。明日から準備を進めるつもりです」
娘の言葉に伯爵は言った。
「いや、さっそく明日には修道院に向かいなさい。こういうのは早い方が良いだろう」
「えっ……明日? !」
思わず大きな声を出したのはベルタだった。マルグレーテは「お姉様」と制するような視線を送る。
「でも、明日というのはいくらなんでも早すぎでは……!」
「向こうの手はずは整えてある。修道院に入るのに、金以外に大した準備がいるわけでもあるまい。お前がとやかく言うことではない、黙れ」
「お姉様、私は大丈夫ですわ」
マルグレーテの力強い言葉に、ベルタは妹を見つめていたが、小さく「わかったわ」と言った。マルグレーテは姉を安心させるように微笑みさえ見せている。そんな様子に、ロザムンドとギゼラは、妹を眩しそうに見つめた。
翌日の昼下がり、マルグレーテは小さく荷物をまとめ、ベルタとエンマ、そして父に伴われて馬車で屋敷を出た。マリアが涙ぐんで「お元気で」と言ったのに、マルグレーテは微笑んでみせた。ギゼラとロザムンドはいつまでも手を振ってくれているのがよく見えた。
雪は降っていないが、太陽は雲に隠れたままで、冷たい風が吹きつけていた。
マルグレーテは馬車の窓から見えるウィーンの町をぼんやりと眺めていた。見納めだった。
そしてそんな娘を、伯爵は目を細めて見ていた。
馬車が止まった。
修道院に着いたらしい。父伯爵を先頭にマルグレーテはベルタと共に馬車を降り、修道院の入り口へ向かった。後ろからエンマが大きな鞄を運んでくれる。葉のない木々の枝が揺れていた。
修道院長のマリア・アガーテは優しい笑顔で出迎えた。
伯爵家から修道院への通達は昨日の時点ですでに送られており、伯爵の言った通り、大掛かりな手続きは不要とされた。
いよいよ別れという時、ベルタは扉を前にして、マルグレーテの頬を両手で包んだ。
「マルグレーテ、いいこと? 決して無理をしてはだめよ。それに私達がいることを忘れないで。いつもあなたを思っているわ」
姉の心からの言葉に、マルグレーテは目頭を熱くした。母を覚えていないマルグレーテにとって、長姉はほんとうに母代わりのような存在だった。いつも温かく包んでくれた。
「ありがとう、お姉様。大好きよ」
ベルタは妹の瞳を見て何度も頷いていた。
やがてすっと背筋を伸ばすと、ベルタは大人びた表情になって、院長と父親を交互に見て言った。
「マリア・アガーテ修道院長、妹に関して言っておかなければならないことがあります。お父様、そうですね」
伯爵は怪訝そうに長女の方を向いた。マリア・アガーテは優しく首を振った。
「無理に言う必要はありませんよ。神はすべてご存知なのですから」
「いいえ。実はお願いがあるのです。これは妹のことを思ってのこと」
伯爵は眉を潜めた。ベルタは父親の方に耳を寄せる。
「音楽のことです。ここの修道院は音楽活動にも積極的ときいています」
音楽を忘れるために来たのに、また思い出してしまっては困ると言う話だ。
伯爵はゆっくりと頷いた。
「……すまない、修道院長。別室で三人で話せるだろうか」
パタンと目の前の扉が閉まる。修道院の入り口には、マルグレーテとエンマだけが残された。
廊下はしんと静まり返っている。マルグレーテは辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、意志の強そうな瞳でエンマの方を向いた。
「さあ、行くわよ」
エンマは苦虫を噛み潰したような顔だったが、頷いて大きな鞄を持ち直した。
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昨日の夕方、叔父の屋敷から帰ったマルグレーテは、姉達三人、そしてエンマを自分の部屋へ呼んだ。そうして自分の決意を述べた。
「私、第三の選択肢を選ぶわ」
「「「え?」」」
三人の姉は目を点にさせた。
「マルグレーテ?」
「どういうこと?」
「お父様は二択しか……」
マルグレーテは首を振った。彼女には修道院もグスタフとの結婚も、最初から頭になかった。
「私、テオを追いかけようと思うの」
「なんですって?」
ベルタは目を見開いた。ロザムンドとギゼラも息をのむ。
マルグレーテは笑顔で言った。
「昨日の晩、ずっと考えていたの。私はどうしたいのかって。むしろ昨日まで何も考えていなかったみたい。でもわかったの、私がどうしたいのか、どうするべきなのか」
マルグレーテは続けた。
「グスタフ様も同じことを言っていたけど、ベルタお姉様が言うように、お父様が政治的策略ではなく、私の幸せを考えてくれているなら、私は幸せになってもいいんだってことに気づいたの。だから私は、私が思う通りに進んでみようと思うの」
ロザムンドとギゼラは、信じられないというように顔を見合わせながら明らかに動揺していたが、ベルタはしばらく黙って妹を見つめて聞いていた。
マルグレーテは続けた。
「今日叔父様に会いに行ったのも、そのことを伝えるためよ。叔父様だったらきっとわかってくれると思ったから。それでやっぱり決心がついたの。私、一人で列車に乗るわ。平民になったってかまわない、テオと一緒にいたいのよ」
ロザムンドは「無茶だわ……」と不安そうな声を漏らし、ギゼラはどうしたらいいかわからないというように眉尻を下げた。
少しの沈黙が流れた後、ベルタが口を開いた。
「……それで、私達はどうすればいいの?」
「ちょっと!」
「正気!?」
ロザムンドとギゼラは金切り声を出したが、ベルタは上の妹達に真剣な表情を向けた。
「マルグレーテが決めたことよ。私達もマルグレーテの幸せを望んでいるでしょう?」
ロザムンドは「嘘みたい……」と口をへの字に曲げて困ったように妹を見つめていたが、やがて「仕方ないわね」と小さい声で言った。ギゼラの方は口元に手を当てて眉をぎゅっと寄せていたが、やがて無言で頷いた。
そんな姉達に、マルグレーテは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、お姉様達!」
「で、でもどうするの? グスタフ様にまた無理を言うつもり? 修道院に入ってしまったらもう……」
ロザムンドの言葉に、マルグレーテは再び真剣な目をして、姉達の顔をかわるがわる見て言った。
「きいて、作戦をたてたの。まずは修道院を選択したふりをする。鞄の中身も少ない旅支度になるはず。修道院へは、お父様だけでなくベルタお姉様も一緒にいくはずよ。エンマも当然ついてくるわね。それで入り口まで行ったら、きっと修道院長が出迎えてくれると思うわ。いよいよお別れという時、お姉様がお父様と院長と三人で別室で話をするようにしてほしいの。音楽からあの子を遠ざけてほしいでも、なんでもいいわ。その隙に、私は修道院を出て馬車に乗り、駅に行く。修道院には馬車がないから少しは時間稼ぎができるはずだわ。エンマは途中まで走って馬車を追いかけたけど結局追いつかなかったことにする。御者のカールは私の命令に逆らえなかったか、これは父の命令だと私に強く言われたということにすればいいわ。鉄道のチケットは叔父様が私に用意してくれたの。それに乗って、ウィーンを発つのよ」
マルグレーテの作戦に、ロザムンドとギゼラはあんぐり口を開けた。
「ちょ、ちょっと、何よそれ……」
「ベルタやエンマがお父様に大目玉をくらうじゃない!」
しかしベルタの方は「ふふふ」と笑い声を漏らした。
「とっても楽しそうじゃないの! やるわ、私。この前の宮殿の舞踏会を思い出すわね」
「ベルタお姉様っ!」
「ベルタったら……」
「怖いもの知らずね」
マルグレーテは目をきらきらさせて、そしてロザムンドとギゼラは眉を寄せて姉を見た。
ベルタは横できいていたエンマに呼びかけた。
「いいでしょう、エンマ。協力してくれるわね?」
エンマは青い顔をしていたが頷いた。
「……あのお方がこの町を出られたのは、私による言伝が原因です。私も責任を感じておりますゆえ、解雇を覚悟でご協力いたします」
「ありがとう、エンマ!」
マルグレーテが嬉しそうに言った。
「ですが」
エンマは言った。
「マルグレーテお嬢様お一人で出発させるわけには参りません。私はどちらにせよクビになります、ついていかせてはいただけませんか」
「エンマ」
ベルタは目を細め、マルグレーテは驚きの表情を浮かべた。
「で、でも、私……この町に戻ってくるつもりは……」
「もちろんわかっております。こちらを離れてしまっては、次の仕事先のあてがなくなることも承知の上。主であるベルタ様を離れることも心苦しく思っておりますが……お一人で行かれるマルグレーテお嬢様の身が案じられてなりません。テオ様にお会いできたら、私はすみやかに撤退いたします。邪魔だてするつもりはございませんので、どうかお許しを」
頭を下げるエンマに、姉妹達は顔を見合わせた。ベルタが末妹に頷いてみせる。
マルグレーテも頷くと彼女の方へ歩み寄り、手を取って言った。
「ありがとう、エンマ。あなたがいてくれるのならとっても心強いわ! 同行をお願いします」
「エンマ」
ベルタも言った。
「あなたが途中まででもこの子と一緒にいてくれたら安心だわ。それにね、あなたがこちらに戻ってきたら、私がどうにかします。今日までずっと私に仕えてくれたんですもの。路頭に迷うなんてことには絶対させないわ」
「……ありがとうございます、お嬢様」
エンマは自分の主人の目を見つめて瞳を震わせていたが、いくらかほっとした顔になって頭を下げた。
ベルタは末妹の方を向いた。
「マルグレーテ、覚悟はできているのね? 貴族にはもう戻れないかもしれないのよ」
自分を案じる姉に、マルグレーテは真剣な目をして言った。
「ええ、わかっているわ。もう演奏会だって気軽に行けないだろうし、寒い思いもする……ひもじい時だってあると思うわ。だけど私は、それでもかまわないの」
マルグレーテがそう言ったのに、ベルタは眉尻を下げて微笑んだ。
「そう……でも忘れないで。どんな生活を送ることになっても、あなたは私の大事な妹よ」
姉の言葉はマルグレーテを優しく包み込んだ。
「でも、マルグレーテ」
ロザムンドが言いづらそうに横から言った。
「もしも……もしもよ、テオさんに会えなかったらどうするの? いくら探してもいない、なんてこともあるのよ」
ギゼラも心配そうな声を出した。
「それに、テオさんに奇跡的に会えたとして……もし他に恋人がいたら……」
マルグレーテは、それらの問いにふっと微笑んだ。その微笑みはいくらか大人びていて、三人の姉は目を丸くさせた。
マルグレーテは答えた。
「私は、彼を一生かけても探すつもりなの。私の気持ちをちゃんと伝えたいから。それに謝りたいの。ひどいことをしてしまったことをきちんとね。だから……彼に恋人がいたとしても平気。二人の邪魔をするつもりはないけど、あなたのためにここまで来たのよってことを伝えてから身を引きたいわ」
「マルグレーテ……」
「あなた、そこまで……」
ロザムンドとギゼラが感心したように言った。
ベルタはマルグレーテの頬に手を当てた。
「あなたが、一日でも早く彼に会えるように祈っているわ。そしてあなたの幸せもね」
妹はくすぐったそうに姉の柔らかな手に頬ずりをした。
「ありがとう、お姉様。落ち着いたらきっと手紙を送ります」
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マルグレーテとエンマは馬車を降りて、困り顔の御者のカールに別れを告げた。主人の意向に逆らうような真似をさせ、彼には気の毒な役割を与えてしまったと、マルグレーテは申し訳なく感じていた。
「お父様はあなたに罪はないとわかってくださると思うけど、もし万一お怒りになったらエドガー叔父様に頼まれたと言うのよ。これは叔父様と考えた作戦なんだから」
去り際にマルグレーテがそう言うと、カールは少し瞳を潤ませて「はい、お嬢様。どうかお達者で」と言い鼻をすすった。
ウィーン北駅にはエドガーの言った通り、イタリア方面行きの列車が止まっていた。
マルグレーテとエンマはチケットを手に、列車に乗り込んだ。同時にビビーッと笛が鳴った。
「グラーツ行きーまもなく出発しますうー」
ガタンガタンと列車が揺れ始める。いよいよ出発だ。
マルグレーテは空いている席を見つけると、窓を開けて顔を出した。
駅員や見送りの子ども、手を振る人々がだんだん遠くなっていく。やがてウィーン北駅が小さくなると、周りの景色にちらほらとえんじ色の屋根が増えてくる。あの通りは、酔っ払ったテオと通った道だろうか。人々が買い物にいそしむ賑やかな通りを過ぎる。時おり音楽さえ聞こえた。とうとうこの町を去るのだ。
叔父とイタリア旅行に行った時のような、外国へ行くという胸の弾む思いが全くないわけではなかった。
だが、もう二度とこの町へ戻らないかもしれないということに、まるで昔からずっと一緒にいた友人と永遠に別れるような思いを抱いた。私は、このウィーンの街が好きだったんだわ。貴族の娘であるがゆえに町を出歩くことは許されなかったけど、劇場であらゆる演奏を聴いた。町に溢れる音楽のおかげで、マルグレーテは生まれた時から常に音楽と共にあった。ウィーンは私に音楽を楽しむことを教えてくれたのだわ。
ついに町がひとつのかたまりになった。大聖堂のゴシック調に飾られた尖塔がぽつんと目立って見える。
「さようなら」
マルグレーテはぽつりと呟いた。石炭の粉が入ったのか目が少し痛かったが、涙は流れていなかった。




