【現世】第19章3話 赤 岐路
帰宅すると
妻のバニーが
何も聞かずに
スープを置いた
湯気が
柔らかく赤く揺れる
胸の奥で
鼓動が
少しだけ早くなる
バニーは
理由を聞かない
今日うまくいったのか
失敗したのか
そんなことは
先に問わない
ただ
温度だけを置く
それが
オーガにとって
どれほど救いか
レオンの言葉を
思い返す
「捕手は
投手の明日を壊すな」
一拍
「……守り抜け」
その夜を
オーガは忘れなかった
スープの湯気と
ミットの痛みと
その言葉が
同じ夜へ重なった
――数年後
レオンは引退した
最後まで寡黙だった
ロッカーで
ミットを拭き
ただ一度だけ
オーガを見る
「資質はある」
一拍
「あとは自信だ――」
拍手の渦の中で
その一言だけが
異様に大きい
その翌年
レオンは
日本のプロ野球チームの
監督になった
海を越えたという事実だけが
静かに重い
監督就任の直後
電話が来る
「日本に来い」
短い
「捕手が足りない」
淡々と
「……以上だ」
行くべきだと
わかっていた
だが――
即答できなかった
電話を切ったあと
オーガは
自室でミットを叩く
――パン
今までで一番
空っぽで
なのに
重い音だった
指先が
じわりと熱を帯びる
鎧の内側で
血がゆっくり巡る
レオンの隣で戦う未来
未知の国で
笑われる未来
胸の左右で
同じだけ重く揺れていた
春が過ぎ
夏が焼き
秋が乾く
何度も
パスポートを出しては
またしまう
決めていないんじゃない
覚悟だけが
まだ足りなかった
机の引き出しが
少しだけ
きしむようになる




