【現世】第1章2話 翠 揺らぎ
試合後
ロッカールーム
蒸気と汗の匂いが
ゆっくり沈んでいく
金属ロッカーの表面に
白い蛍光灯が
冷たく滲む
「……悪かったな……金城……
点を取ってやれなくてよ」
声をかけたチームメイトに
ヴィオは
タオルを肩へ引っかけたまま
短く返す
「俺がもう一本――
打てば済んだ話です」
それで終わるはずだった
その瞬間
ヴィオの背に
影のような揺れが
スッ……
と走った
空気の表面が
黒く滲む
熱ではない
煙でもない
見間違いだと
言い切るには
あまりにも
生々しかった
他の選手たちは
気づかない
何もなかったように
通り過ぎる
ただひとり
同期入団の強打者
翠川翔(23)
背番号42
だけが
その違和感を
見た
視線が
ズ……ッ
と止まる
(……なんだ 今の)
空気が
わずかに軋む
翔が
一歩前へ出る
「野球はひとりで
背負うもんじゃねーだろ」
軽く言ったわけじゃない
本気だった
だからこそ
重かった
ヴィオは
何も答えない
視線すら
動かさない
胸の奥で
黄金が鳴る
重い泥が
混ざったみたいな
嫌な脈動
その瞬間だけ
ヴィオの瞳の奥に
黒が揺れた
翔の喉が
小さく鳴る
視線が
外せない
ロッカールームの空気が
ひとつ沈む
誰も
息をしない
次の瞬間
――ゴンッ!!
音だけが
遅れて響いた
翔の拳が
ヴィオの頬を
打ち抜いていた
翔は
自分の拳を見た
(……なんだ)
ヴィオは倒れない
壁が
衝撃を受け止める
それだけだった
ゆっくり
顔を戻す
口の端に滲んだ血を
舌で確かめる
ヴィオは
少しだけ笑った
「……悪ぃな」
それ以上は
何も言わない
無言のまま
バッグを肩にかける
翔は
動けなかった
拳だけが
熱を残している
誰も
止めない
止められない
扉が開く
閉じる
ロッカールームに
鈍い静寂だけが残った




