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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

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第39話: 勅命

 封蝋ふうろうを割る指が、震えていた。


 バターと霜花蜜の匂いがまだ残る工房の中で、リゼットは白い封書を両手で持ち、金色の蝋にそっと爪を立てた。ぱきり、と小さな音がして、王家の紋章が二つに割れた。




 手紙は、勅命だった。


 格式高い書体が、上質な紙の上に整然と並んでいる。宮廷の書記官が清書した、公式文書。文面の冒頭に王の名があり、その下に——王太子ヴァレンティン・フォン・クラウゼンの印がある。


 リゼットの目が、一行ずつ、言葉を拾っていく。


 ——リゼット・フォン・メルヴェーユを、宮廷菓子房の首席菓子師に任ずる。


 首席。


 宮廷菓子房の最高位。五人いる宮廷菓子師の頂点。王族の食卓を統括し、菓子房の全人事と献立を掌握する職。かつてリゼットが末席にいた頃、見上げるばかりだったあの地位。


 文面はさらに続いていた。


 ——品評会における卓越した成果に鑑み、その技量は宮廷菓子房の首席に相応しいと認める。任命は本状到着より三十日以内の登城をもって発効する。首席菓子師の待遇として、宮廷内に専用の厨房と居室を用意する。素材の調達は王室費から無制限に拠出される。


 無制限。


 リゼットの菓子師としての部分が——反応した。


 南部の最上の砂糖。宮廷御用達の発酵バター。温室で育てた果実。異国から取り寄せる香辛料。この世界に存在するあらゆる素材が、制約なく使える。


 最高の窯。最高の道具。最高の厨房。


 菓子師なら——誰もが夢見る環境。


 手紙の最後に、一文だけ——書記官の筆ではない、崩れた書体が加えられていた。ヴァレンティンの自筆だと、三年間宮廷にいたリゼットには分かった。


 ——戻ってこい。お前の代わりはいなかった。


 リゼットは——手紙を、作業台に置いた。


 指先から力が抜けた。白い紙が、粉のついた台の上で、場違いに光っている。


「リゼ、何て書いてあるの」


 マリーが、隣に立っていた。手紙を届けてくれてから、ずっとそばにいてくれた。


「……勅命です」


 自分の声が、遠く聞こえた。


「王太子殿下が——わたしを、王都に呼び戻すと。宮廷菓子房の——首席菓子師として」


 マリーの顔から、笑顔が消えた。


「首席——って、一番偉いやつ?」


「はい」


「……それは」


 マリーが言葉を切った。腰に手を当てて、窓の外を見た。冬の夕暮れが、工房の窓から冷たい光を落としている。


「……すごいじゃないか」


 マリーの声は——いつもの快活さがなかった。


「すごいよ、リゼ。あんたの腕が、王都にも認められたんだ」


 認められた。


 追放された菓子師が、首席として呼び戻される。それは——たしかに、名誉だ。菓子師としての最高の評価。三年前に「不要だ」と切り捨てられた自分が、今は「代わりがいない」と請われている。


 でも——。


「マリーさん」


「うん」


「わたし——」


 言葉が、出なかった。


 工房の壁を見た。石窯。作業台。棚に並んだ瓶——霜花蜜、黒胡桃の粉、高原りんごの干し果実。窓辺に置いた二つの椅子。朝の光が差し込む、あの場所。


 フィーネが卵を割る練習をした、あの台。


 セドリック様が「悪くない」と言った、あのカウンター。


「……行きたくない」


 声が——かすれた。


 マリーが、リゼットの肩にそっと手を置いた。温かい手。宿屋の仕事で荒れた、でも——いつも温かい手。


「……今すぐ答えなくていいよ。三十日あるんだろ?」


「はい……」


「今夜はもう帰りな。頭を冷やして——」


「マリーさん」


「うん?」


「セドリック様には——わたしから伝えます」


 マリーが——黙って、頷いた。




 翌朝。


 リゼットは——いつも通り、石窯に火を入れた。


 いつも通り、生地を練った。黒胡桃のフィナンシェ。セドリック様が一番好きな菓子。焦がしバターを少し深めに。霜花蜜を多めに。いつもより——丁寧に。


 焼き上がりを皿に載せて、石段に向かった。


 セドリック様が——いた。いつもの場所に。いつもの姿勢で。灰銀色の髪に朝日が当たって、薄い金色に光っている。


「おはようございます」


「……ああ」


 隣に座った。半歩——近く。昨日マリーに言われた通りの、あの距離で。


 皿を差し出した。


「今日は黒胡桃のフィナンシェです。焦がしバターを——」


「リゼット」


 遮られた。


 セドリック様の目が——まっすぐに、リゼットを見ていた。青灰色の目。いつもの寡黙な目。でも——その奥に、何かが揺れている。


「マリーから——聞いた」


 心臓が、冷えた。


 マリーさんが——昨夜のうちに、伝えたのだ。


「……はい」


「王都の勅命。首席菓子師」


「はい」


 セドリック様が——皿から、目を逸らした。


 朝日を見ている。東の山の稜線が金色に燃えている。辺境の冬の朝。白い息が、二人の間に漂って、消えた。


 沈黙が——長かった。


 石段の冷たさが、太腿を通じて体の芯まで染みてくる。冬が近い。もうすぐ街道が閉ざされる。閉ざされたら、五ヶ月間——ここに、いる。


 いられる。


 でも勅命は、三十日以内。街道が閉ざされる前に——答えを出さなければならない。


「セドリック様。わたし——」


「お前の好きにしろ」


 リゼットの言葉を——断ち切るように。


 セドリック様の声は——平坦だった。


 感情がない。抑揚がない。まるで北の見回りの報告をするような、事務的な声。


「首席菓子師。菓子師として最高の地位だ。最上の素材。最高の環境。——お前の腕なら、当然だろう」


 当然だろう、と。他人事ひとごとのように。


「セドリック様——」


「お前の好きにしろ」


 二度目。


 同じ言葉。同じ声。でも——二度目のほうが、声がわずかに低かった。喉の奥を絞るような。何かを押し殺すような。


 セドリック様が——立ち上がった。


 皿の上のフィナンシェに、手を伸ばさなかった。


 リゼットの心臓が——止まった。


 手を、つけなかった。


 辺境に来てから——一年以上。どんな朝も、どんな菓子も、セドリック様は必ず食べた。無言でも。ぶっきらぼうでも。「要らん」と言いながら結局食べた。あの、味覚を失っていた頃でさえ——リゼットの菓子だけは、食べた。


 それを——拒んだ。


「……見回りに行く」


 背中。


 広い背中。革鎧の肩。灰銀色の髪。


 その背中が——硬かった。まるで鎧をもう一枚重ねたような。リゼットと出会う前の——あの、何も感じない人間のふりをしていた頃の背中に、戻っていた。


 石段を降りていく足音。ざく、ざく、と霜柱を踏む規則的な音。一度も振り返らず。


 リゼットは——動けなかった。


 膝の上に、フィナンシェの皿がある。きつね色の焼き菓子。焦がしバターと霜花蜜の甘い匂い。まだ温かい。焼きたての温もりが、皿を通して指先に伝わっている。


 セドリック様が——食べなかった菓子。


 目が、熱くなった。涙ではない。もっと奥の——胸の真ん中が、焼けるように痛かった。




 工房に戻った。


 フィーネが来る前に、仕込みを始めなければ。いつも通りの朝。いつも通りの手順。小麦粉を量って、バターを切って、卵を割って——


 手が——動かなかった。


 リゼットは、作業台の前に立っていた。エプロンの紐は結んである。袖はまくってある。指先には昨日の粉がまだうっすら残っている。


 なのに——手が、動かない。


 小麦粉の袋に手をかけた。指が、開かない。


 バターの塊を取ろうとした。手が、伸びない。


 菓子を——作れない。


 辺境に来てから、一度もなかった。


 どんなに疲れていても、どんなに不安でも、リゼットの手は動いた。追放された翌朝も、マリーの厨房で菓子を焼いた。素材がなくても工夫した。窯が壊れたら直した。吹雪の朝も、寂しい夜も——手だけは、止まらなかった。


 菓子を作ることが、リゼットの呼吸だった。


 その呼吸が——止まっている。


 なぜ、と自分に問う。


 分かっている。


 セドリック様が菓子を食べなかったから。あの人の手が皿に伸びなかったから。「お前の好きにしろ」と——突き放されたから。


 菓子師として最高の栄誉を得たはずなのに。王都で夢のような環境が待っているはずなのに。


 この手は——あの人に食べてもらえない菓子を、焼けない。


 リゼットは作業台に両手をついた。粉が指先から零れ落ちた。白い粉が、台の上に小さな山を作った。


 いつからだろう。


 わたしの菓子は——この人のためにあったのだ。


 王都の最上の素材より。宮廷の完璧な厨房より。首席菓子師の肩書きより。


 この人が「悪くない」と言ってくれることが——わたしの菓子の、全部だった。


 窯の火が、ぱちりと鳴った。薪が燃えて、炎が揺れている。温かい光。でも今朝は——その温かさが、遠い。




 昼過ぎに、フィーネが来た。


「リゼットさん、おはようございます! 今日はなに作——」


 フィーネが——足を止めた。


 工房の中を見た。作業台の上に、何もない。いつもなら朝の仕込みで生地や果実が並んでいるのに。小麦粉の袋が棚の上に置かれたまま。バターは切られていない。卵も出ていない。


「リゼットさん……?」


「ごめんね、フィーネちゃん。今日は——少し、お休み」


 声を明るくしたつもりだった。でもフィーネの薄い茶色の目が——じっと、リゼットの顔を見ていた。十二歳の少女の目は、ごまかせなかった。


「……リゼットさん、泣きそうな顔してる」


「え——泣いてない。泣いてないよ」


「泣きそう、って言ったの。泣いてるとは言ってない」


 リゼットは——笑おうとした。唇が引きつった。


「……大丈夫。ちょっと、考えることがあるだけ」


 フィーネは——何も訊かなかった。辺境の子どもだ。踏み込んではいけない領域を、本能で知っている。


「あたし、午後はマリーさんのところを手伝ってくる」


「うん。ありがとう、フィーネちゃん」


「……明日は、来ていい?」


「もちろん。明日は——きっと、焼くから」


 きっと、と言った自分の声が——頼りなかった。


 フィーネが出ていった後、工房に一人残された。


 石窯の火が弱くなっていく。薪を足さなかったから。いつもなら、朝いちばんに薪をくべて、一日中火を絶やさないのに。


 窯の火が——消えかけている。


 冬の工房は、火がなければ冷える。石の壁が蓄えていた熱が、少しずつ抜けていく。吐く息が、白くなり始めた。




 夕方。


 マリーが工房にやってきた。


 扉を開けて——足を止めた。


 暗い工房。窯の火は消えている。作業台の上には何もない。窓際の椅子に、リゼットが座っていた。エプロンをしたまま。手を膝の上に置いて。何もせず——ただ、座っていた。


「リゼ」


 マリーの声が——静かだった。いつもの大きな声ではなく。


「……マリーさん」


「火、消えてるよ」


「はい。——消えました」


 マリーが工房に入ってきた。棚からランプを取って火を灯した。小さな灯りが、薄暗い工房を照らした。


 リゼットの目の前の作業台に、あの手紙が置いてある。白い紙。金色の封蝋の残骸。王家の紋章が割れた跡。


「セドに——言ったんだね」


「いいえ。マリーさんが先に——」


「ごめん。あいつが夕べ宿屋に寄ったから、つい」


「いいんです。遅かれ早かれ——」


「セド、なんて言った?」


 リゼットは——膝の上の手を見つめた。粉のついた指。火傷跡のある指先。菓子師の手。


「……『お前の好きにしろ』って」


「ああ——」


 マリーが、深い深い溜息をついた。椅子を引いて、リゼットの向かいに座った。


「あの馬鹿」


「菓子にも——手をつけませんでした」


「……は?」


 マリーの目が——見開かれた。


「セドが——リゼの菓子を食べなかった?」


「はい」


「あの男が? 一年以上、毎朝欠かさず食べてた菓子を?」


「……はい」


 マリーが——立ち上がった。椅子がガタン、と鳴った。腰に手を当てて、天井を仰いだ。


「信じらんない。あいつ——自分で何やってるか分かってんのかね」


「マリーさん——」


「いい。分かった。ちょっとセドのところ行ってくる」


「え——」


「あたしが話すよ。あんたは今夜はここにいな」


 マリーが扉に向かった。足音が荒い。怒っている——のではない。呆れている。あの、「いつまでやってんのさ」と言ったときの——あの顔。


 扉が閉まった。




 どれくらい経っただろう。


 窓の外が完全に暗くなった頃——マリーが戻ってきた。


 頬が赤い。冬の夜風に当たったせいだ。でも目は——どこか、疲れていた。


「リゼ」


「……どうでした」


「言ってやったよ」


 マリーが椅子に座った。ランプの灯りが、茶色い目に揺れている。


「『セド、あんたそれ、本心じゃないでしょ』って」


「……」


「あいつ、黙ってたよ。何も言わなかった。いつもみたいに『うるさい』とも言わない。ただ——黙ってた」


 リゼットは、手を握りしめた。


「あたしね、分かるよ。あいつが何考えてるか。——引き留めたら、あんたのためにならないと思ってるんだ」


「わたしの——ため?」


「品評会で優勝した天才菓子師を、こんな辺境に閉じ込めていいのかってさ。最高の環境が王都にあるのに、何もない辺境に縛りつける権利なんかないって——あの男は、そう思ってるんだよ」


 リゼットの呼吸が——止まった。


 また、だ。


 昨日マリーさんが壊してくれたはずの壁。身分差の壁——ではなく、今度は。


 「自分では釣り合わない」という壁。


 わたしは「辺境を離れたくない」と思っている。


 セドリック様は「辺境に縛りつけてはいけない」と思っている。


 またしても——反対の理由で、同じ方向を向いている。


「マリーさん」


「うん」


「セドリック様は——わたしにどうしてほしいんですか」


 マリーが——じっと、リゼットを見た。


「それは——あいつに直接訊きな」


 リゼットは——立ち上がった。


 椅子が石の床を擦る音が、静かな工房に響いた。


「あんたが訊かなきゃ、あいつは一生言わないよ。『好きにしろ』の裏にあるもの——あんたにしか、引き出せないんだ」


 マリーの声が——優しかった。厳しくて、でも温かい。辺境の女将の声。


「……ありがとう、マリーさん」


「礼はいいよ。——あんたたちが幸せになってくれりゃ、あたしの宿屋の看板メニューも安泰だからさ」


 冗談めかして——でも、目が笑っていなかった。本気で心配している目だった。




 マリーが帰った後。


 リゼットは一人、暗い工房に立っていた。


 窯の火は消えている。ランプの灯りだけが、石の壁にゆらゆらと影を落としている。


 作業台の上に、手紙がある。


 白い紙。金色の封蝋。王都からの——勅命。


 菓子師として最高の環境。最上の素材。無制限の資材。首席の地位。


 そのすべてが——今、この冷えた工房より軽い。


 火の消えた窯を見つめた。石窯の口が暗い穴のように開いている。いつもなら赤い炎が揺れて、焦がしバターの匂いが立ち上っている場所。


 辺境に来てから——この窯の火を自分で消したのは、初めてだった。


 リゼットは作業台に手をついた。冷たい石の台。粉の跡。長い間使い込んで、表面がなめらかになった木の端。


 訊かなければ。


 セドリック様に——訊かなければ。


 「お前の好きにしろ」の裏側にあるもの。あの平坦な声の奥で、押し殺していたもの。菓子に手をつけなかった——あの沈黙の意味。


 あなたはどうしたいですか。


 その一言を——言わなければ。


 リゼットは窓を見た。冬の夜空に、星が凍ったように光っている。北の空。セドリック様がいつも見回りに出る方角。


 明日の朝。


 石段で——訊こう。


 菓子を持って。たとえ手が震えても。たとえ食べてもらえなくても。


 あなたはどうしたいですか——と。


 リゼットは、エプロンの紐を——解かなかった。


 明日の朝は、焼く。何がなんでも——焼く。


 この手が止まったのは、今日だけだ。今日だけで——終わりにする。


 冷えた工房の中で、リゼットはエプロンの裾を握りしめた。粉のついた指が、白い布を掴んでいた。


 窯の火は消えている。でも——明日、また灯す。


 この人に訊くために。この人のために——焼くために。

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