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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

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第38話: いつまでやってんの

 朝の石段に、セドリック様がいた。


 いつもの場所。いつもの時間。灰銀色の髪に朝日が当たって、薄い金色に光っている。


 リゼットは——足を止めた。




 数日前から、おかしくなっていた。


 朝の菓子は焼いている。いつも通り。窯に火を入れて、黒胡桃を焙煎して、生地を練って、型に流して、焼く。皿に載せて、霜花蜜を添えて、石段まで運ぶ。


 同じ日課。同じ手順。何も変わっていないはずなのに——リゼットの足が、重い。


 石段に腰を下ろすとき、隣との距離を半歩だけ広く取ってしまう。菓子を差し出すとき、指先が触れないように気をつけてしまう。目が合うと——先にそらしてしまう。


「今日はりんごのクラフティです。高原りんごを薄く切って、卵の生地で——」


「ああ」


 セドリック様が受け取る。いつもの「ああ」。いつもの短い返事。


 でも——その「ああ」の後に、ほんの一瞬だけ間がある。リゼットの顔を見ようとして、でもリゼットが目をそらしているから、見られなくて——セドリック様も視線を落とす。


 咀嚼そしゃくの音。


「……りんごが甘い」


「寒暖差が大きくなってきたので。この時期のりんごは、酸味が抜けて甘みが増すんです」


 早口で説明する。菓子の話なら平気だ。素材の話、火加減の話、配合の話。菓子師としてなら——この人の隣にいても、胸が痛くならない。


 でも。


 菓子の話が途切れた瞬間、沈黙が来る。以前なら何でもなかった沈黙が、今は——重い。


「……ご馳走になった」


「はい。お粗末さまです」


 セドリック様が立ち上がる。背中が大きい。革鎧の肩幅が朝日で影を落とす。北の見回りに行く背中を見送りながら——リゼットは、膝の上で拳を握った。


 辺境伯。


 この人は辺境伯なのだ。辺境を守る領主。王家に連なる武門の当主。


 わたしは——没落貴族の娘。追放された宮廷菓子師。爵位もなく、家名に力もなく、持っているのは石窯とレシピ帳と、焼き菓子の匂いが染みついたエプロンだけ。


 毎朝この人に菓子を作りたい——そう思った。


 思ってしまった。


 だから、怖い。




 工房の中は、小麦粉と焦がしバターの匂いに満ちていた。


 午後。リゼットは作業台に向かって黙々と手を動かしていた。明日の仕込み。黒胡桃の殻割り。生地の寝かし。やることはいくらでもある。


 セドリック様が昼過ぎに工房の前を通った。いつもなら「看板が傾いている」だの「窓の立てつけを見に来た」だの理由をつけて中に入ってくるのに、今日は——通り過ぎた。


 立ち止まりかけて、足が止まりかけて、でも入ってこなかった。


 リゼットは作業台の上のりんごを見つめていた。ナイフを握る手が震えそうになるのを、力を込めて押さえた。


 わたしのせいだ。


 わたしが距離を取っているから、セドリック様も入りづらくなっている。


 分かっている。分かっているのに——近づくと、胸が痛い。毎朝この人に菓子を焼く日々が、いつか終わる日のことを考えてしまう。辺境伯にはいずれ正式な婚約者が来る。身分のある家の令嬢が。そうなったとき、わたしは——


「リゼ」


 声に、肩が跳ねた。


 工房の入口に、マリーが立っていた。腰に手を当てて、仁王立ち。栗色のお団子ヘアにいつもの通り粉がついている。


 でも——目が、笑っていなかった。


「マリーさん。どうしました?」


「入るよ」


 返事を待たず、ずかずかと工房に入ってきた。カウンターの椅子を引いて、どさりと腰を下ろす。リゼットの真正面。逃げ場がない。


「マリーさん?」


「ここ数日、おかしいよ」


 単刀直入だった。


「え——」


「あんたとセド。二人ともおかしい」


 リゼットの手が止まった。りんごの皮をいていたナイフが、作業台の上で動かなくなった。


「セドのやつ、今日工房に入らなかっただろ。昨日も一昨日も、前を通って帰ってった。あの男が菓子食わずに帰るなんて、異常だよ」


「それは——セドリック様が忙しいだけで——」


「嘘おっしゃい」


 マリーが身を乗り出した。茶色い目が、まっすぐリゼットを射抜く。


「あんたが壁作ってるんだよ、リゼ」


 心臓が——痛んだ。


「朝の石段で半歩離れてるの、あたしには見えてるからね。菓子を渡すとき目をそらしてるのも。——セドは鈍いけど馬鹿じゃない。あんたが引いてるのは感じてるよ」


 リゼットは——何も言えなかった。ナイフを置いた。りんごの皮がくるくると螺旋になって、作業台に垂れている。


「……マリーさん」


「うん」


「わたし——」


 声が詰まった。エプロンの裾を握る。指先に残った粉が、白い跡をつけた。


「わたし、身分が——」


 そこまで言って、言葉が止まった。


 マリーが黙って待っている。急かさずに。でも、逃がさない目で。


「……セドリック様は、辺境伯です」


「そうだね」


「わたしは、没落した伯爵家の娘です。爵位もない。家もない。追放された——」


「それで?」


 マリーの声が——あまりに軽かった。


「それで、何?」


 リゼットは顔を上げた。マリーが腕を組んで、首を傾げている。本気で意味が分からない、という顔。


「辺境伯と、追放令嬢は——釣り合いません」


「誰が決めたの、それ」


「誰がって——」


「王都のお偉いさん? お貴族さまの常識? そんなもん、ここじゃ通用しないよ」


 マリーが立ち上がった。椅子がガタン、と鳴った。


 リゼットの前に立つ。百六十五センチの、がっしりした体。宿屋の女将の、よく働く手。その手が——リゼットの両肩を、がっしり掴んだ。


「いいかい、リゼ。あんたたち——」


 茶色い目が、真正面から。


「——いつまでやってんのさ」


 その声は——呆れていた。怒っていた。心配していた。全部、同時に。


「身分がどうしたのさ。ここは辺境だよ。王都のしきたりなんか、吹雪と一緒に山の向こうに置いてきな」


「でも——」


「あんたはうちの菓子師で、セドはうちの領主で、それだけだよ」


 ——それ、だけ。


「辺境じゃ、何ができるかがすべてさ。あんたは菓子が焼ける。セドは剣が振れる。それ以上に何がいるの? 家柄? 爵位? 馬鹿馬鹿しい」


 マリーの手が、肩の上で力を込めた。温かい手だった。宿屋の仕事で荒れた、でもどこまでも温かい手。


「あんたはここの菓子師なんだ。うちの村の宝なんだ。王都の偉い人に何て言われようと——あたしたちにとっちゃ、リゼット・フォン・メルヴェーユは最高の菓子師なんだよ」


 目が——熱くなった。


「でも……セドリック様は——」


「セドのこと?」


 マリーが手を放して、一歩引いた。腰に手を当てて——ふう、と大きく息を吐いた。


「あいつはあいつで面倒なことになってるよ」


「え?」


「考えてもみなよ。辺境の田舎領主だよ? 王都にも行けない、金もない、渡せるものなんか剣と領地くらいしかないのに——相手は品評会で優勝した天才菓子師だ」


 リゼットは——目をまばたいた。


「セドは思ってるよ。こんな辺境に縛りつけていいのかって。品評会で優勝した菓子師なら、王都でも南部でもどこでもやっていける。それなのに——何もない辺境の領主が、何を差し出せるんだ、ってさ」


 呼吸が——止まった。


 セドリック様が——そんなことを?


「あの男は馬鹿だからね。自分には何もないと思ってるんだ。あんたに対して——」


 マリーが呆れたように首を振った。


「あんたは身分が足りないと思ってる。セドは器が足りないと思ってる。——反対の理由で、同じことしてるんだよ、あんたたち」


 反対の——理由。


 わたしは「追放令嬢だから釣り合わない」と思っていた。


 セドリック様は「辺境領主では何も渡せない」と思っていた。


 二人とも——自分のほうが足りないと思って、引いている。


 ……馬鹿みたいだ。


「ね? いつまでやってんのさ」


 マリーが——にっと笑った。


 やっと、いつもの笑顔。大きな声で笑うときの、あの顔。


「あたしはね、あんたたちを見てるのが楽しかったよ。朝の石段で並んで座って、菓子食べて、黙って——いい景色だったさ。でも、もう限界」


「限界?」


「あたしの我慢の限界だよ! じれったくてしょうがないんだ!」


 大きな声。工房の壁に反響して、窯の中で薪がはぜた。


 リゼットは——笑った。


 涙が溢れそうなのに、笑ってしまった。お腹の底から、ふっと力が抜けたような笑いだった。


「マリーさん——」


「何さ」


「ありがとう、ございます」


 声が震えていた。でも——心の中の、あの重い石が、消えていた。


 いつの間にか積み上げていた壁。身分とか、立場とか、似つかわしくないとか——そういう王都の論理で組み上げた壁を、マリーは辺境の言葉で、あっさり壊してくれた。


「泣くんじゃないよ。あんた、泣くとすぐ鼻が赤くなるんだから」


「泣いてません」


「嘘つけ。目、赤いよ」


 マリーがエプロンのポケットからハンカチを出して、リゼットの目元を拭った。宿屋の石鹸の匂いがした。




 マリーが帰った後。


 リゼットは作業台を片づけて——新しい生地を練り始めた。


 フィナンシェ。


 焦がしバターと小麦粉とアーモンド。シンプルな材料を、丁寧に。今日はセドリック様のためじゃない。


 マリーさんへの、お礼の菓子。


 卵白を泡立てた。きめ細かな泡。そこに霜花蜜を垂らして、ゆっくりと混ぜる。透き通った蜜が白い泡に溶けて、淡い金色に変わっていく。


 焦がしバターを作る。鍋の中でバターが溶けて泡立ち、金色から琥珀色へ。ナッツの香りが立ったところで——止める。マリーさんの好みは少し手前。香ばしすぎず、バターの甘さが残るくらい。


 アーモンドプードルを加えた。ふわりと白い粉が舞う。ヘラで切るように合わせる。


 型に流す。小さな長方形の型。一つずつ、丁寧に。


 窯に入れた。


 焼けるまでの間、リゼットは窯の前にしゃがみ込んで——考えていた。


 マリーさんの言葉。


 ——あんたはうちの菓子師で、セドはうちの領主で、それだけだよ。


 それだけ。


 身分も、家名も、追放の過去も——辺境では、ただの飾りだ。


 ここでは、何を成すかだけが問われる。


 わたしは菓子を焼ける。セドリック様は領地を守れる。それで——十分なのだと。


 窯の奥から、甘い匂いが漂い始めた。




 焼き上がったフィナンシェを布巾に包んで、宿屋に持っていった。


「マリーさん。これ」


「何さ、これ」


「感謝のフィナンシェです」


 マリーが布巾を開いた。黄金色の焼き菓子が六つ。表面にうっすら霜花蜜の艶がかかって、焦がしバターの温かい香りが湯気と一緒に立ち上る。


 マリーが一つ手に取って——かじった。


 目が——閉じた。


「……あんた、天才かい」


「お礼ですから。少し頑張りました」


「少しどころじゃないよ。なにこれ、バターの香りが口の中で溶けていく……」


 マリーが二口目を頬張りながら、目を細めた。それから——にやっと笑った。


「で? 明日の朝は、ちゃんと石段に行くんだろうね」


 リゼットの頬が——赤くなった。


「……行きます」


「半歩、詰めなよ」


「……はい」




 夕暮れの工房に戻ると——扉の前に、人影があった。


 灰銀色の髪。革鎧。左頬の傷跡。


 セドリック様が——工房の前に立っていた。入ろうか迷っているような、珍しい姿だった。


「セドリック様」


 呼びかけた。


 自分でも驚くくらい、自然な声が出た。


「おかえりなさい。見回り、お疲れさまです」


 セドリック様がこちらを見た。青灰色の目が——探るような色を帯びている。ここ数日、リゼットが距離を取っていたから。また避けられるのかと、身構えているように見えた。


「入りませんか。今日、フィナンシェを焼いたんです。まだ少し残っていますから」


 セドリック様の眉が——微かに動いた。


「……いいのか」


「もちろんです」


 扉を開けた。工房の中は、焦がしバターと霜花蜜の甘い匂いで満ちていた。窯の残り火が赤く揺れている。


 フィナンシェを小皿に載せた。差し出す。


 指先が——触れた。


 セドリック様の大きな手と、リゼットの小さな手。粉のついた指先と、剣だこのある指先。ほんの一瞬の接触。


 逃げなかった。


 セドリック様がフィナンシェを口に運んだ。咀嚼。


「……バターが軽い」


「はい。今日は焦がしを少し浅くしました」


「悪くない」


「ありがとうございます」


 窯の残り火が赤く揺れていた。夕日が窓から差し込んで、工房を茜色に染めている。


 セドリック様が——何かを言いかけた。唇が動いて——止まった。


 いつもの沈黙。


 でも——今日のリゼットは、逃げなかった。黙って隣に立って、同じ夕日を見ていた。


 半歩——近い。


 マリーさんに言われた通り。半歩だけ。


「……明日も焼くのか」


「はい。明日は——セドリック様の好きな、黒胡桃のを」


 セドリック様の耳が——かすかに赤くなった。


「……そうか」


 いつもの「そうか」。でも——声が、ほんの少しだけ柔らかかった。




 セドリック様が帰った後、工房の片づけをしていると——宿屋のほうから足音が聞こえた。


 マリーが走ってくる。


 珍しく慌てた顔をしていた。手に何か持っている。白い封筒。でかいろうの封印がされている。


「リゼ!」


「マリーさん? どうしたんですか——」


「手紙。今さっき、南から来た早馬が持ってきた」


 マリーが封筒を差し出した。


 白い紙。上質な紙。辺境では見かけないほど厚くて、なめらかな紙。


 封蝋。


 金色の——封蝋。


 リゼットの手が、止まった。


 その紋章を、知っている。


 宮廷菓子師として三年間、毎日見ていた紋章。王城の扉に、勅書に、食器に——あらゆる場所に刻まれていた紋章。


 王家の紋章。


 宛名は、丁寧な筆記体で——「リゼット・フォン・メルヴェーユ殿」。


「……王都から」


 リゼットの声が——かすれた。


 焦がしバターの甘い匂いが残る工房の中で、金色の封蝋が、夕暮れの最後の光を受けて——冷たく、光っていた。

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