表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/42

第40話: 頼みがある

 工房の窯は、冷えていた。


 夜明け前。いつもなら薪をくべて火を起こしている時刻に、リゼットは暗い工房の中に立っていた。石窯の口は黒く閉じたまま。昨晩から火を入れていない。灰すら温もりを失って、指先で触れると冷たい石の感触だけが返ってきた。


 作業台の上に、勅書がある。


 金色の封蝋。王家の紋章。丁寧な筆記体で綴られた文面。宮廷菓子師への復職命令——リゼット・フォン・メルヴェーユを宮廷首席菓子師に任ず。


 首席。末席ではない。品評会の優勝者として、宮廷の頂点に迎えるという破格の待遇だった。


 一晩、眠れなかった。




 昨日の記憶が、まだ鮮明だった。


 勅書を見たセドリック様の顔。表情を消した青灰色の目。「お前の好きにしろ」——それだけ言って、背を向けた。朝の菓子にも手をつけなかった。一年以上、毎朝欠かさず食べていた菓子を——初めて、拒んだ。


 「明日の菓子は要らん」


 あの硬い声が、まだ耳の奥にこびりついている。喉の奥で何かを砕いて飲み込んだような声だった。


 味が分かるから——要らないのだ。受け取ったら手放せなくなるから。この人は自分から手放そうとしている。わたしのために。菓子師として最高の場所に行けるように。


 分かってしまった。分かったから——手が止まった。窯の火が消えた。菓子を焼けない夜が来た。




 一晩中、暗い天井を見ていた。


 最高の厨房。最高の素材。菓子師としての最高——。でも目を閉じるたびに浮かぶのは、工房の石窯と、朝の二枚の皿と、隣の椅子だった。


 「要らん」と言ったあの声。「お前の好きにしろ」と突き放した声。——その奥で、何かを呑み込んでいた声。


 不器用な優しさだと分かっている。でも——わたしが聞きたいのは、それじゃない。


 夜明け前に、目を開けた。


 あなたがどうしたいかを、まだ聞いていない。わたしのことは、わたしが決める。だから——あなたのことを、教えてほしい。


 寝台から起き上がった。冬の冷気が肌を刺す。息が白い。窓の外はまだ暗く、星が低い位置で瞬いていた。


 上着を羽織った。靴を履いた。


 工房の前を通りすぎた。火の入っていない窯。冷えた石の匂い。作業台の上の勅書には触れなかった。


 北へ向かった。




 セドリック様が北の見回りに出るとき、いつも最初に立ち寄る場所がある。


 北の見晴台。


 辺境伯の館から北に少し歩いた丘の上にある、石積みの台座。ここから北の山脈を見渡せる。冬の晴れた日には、峠の向こうの雪原が朝日に白く光る。


 セドリック様はいつもここで立ち止まる。北の空気を読み、風の匂いを嗅ぎ、山の気配を確かめる。辺境を守る者の、朝の儀式。


 夜明け前に出るのは——リゼットが朝の菓子を焼くようになってからは、なくなっていた。菓子を食べてから見回りに出る。それがこの一月の日課だった。


 でも今朝は、菓子がない。


 だから——早い時刻に出るはずだ。


 リゼットは丘を登った。冬の草が霜に覆われて、靴の下でぱりぱりと音を立てる。息が白い。頬が痛い。エプロンを忘れたことに気づいた。菓子師のエプロンなしで外に出るのは、辺境に来てから初めてかもしれない。


 丘の頂上が見えた。


 見晴台の石積みの横に——影があった。


 灰銀色の髪。革鎧。左頬の傷跡。


 セドリック様が立っていた。


 北の山脈を見ている。腕を組んで、微動だにせず。夜が明けきらない空の下、灰色の輪郭だけが見えていた。


 足音に気づいたのだろう。セドリック様の肩がわずかに動いた。振り返りかけて——止まった。


 誰が来たか、足音で分かったのだ。


「……なぜここにいる」


 背を向けたまま。低い声。風に少しだけかすれていた。


「セドリック様に、聞きたいことがあります」


 リゼットの声は——震えていた。寒さのせいだけではなかった。


 でも、足は止めなかった。


 石積みの傍まで歩いた。セドリック様の二歩後ろに立った。背中が大きい。革鎧の肩幅が暗い空を切り取っている。


 東の空が——ようやく藍色に変わり始めていた。夜と朝の境目。星が一つずつ消えていく。


「リゼット。戻れ。冷える」


「寒くないです」


 嘘だった。指先がかじかんで、唇が震えている。でも——ここから動くつもりはなかった。


 セドリック様が——ようやく振り返った。


 青灰色の目が、暗がりの中でリゼットを捉えた。頬が——強張っている。いつもの無表情とは違う。何かを堪えている顔だった。


「聞きたいこと、とは」


「昨日の——セドリック様の言葉のことです」


「俺は何も言っていない」


「はい。何も言ってくれませんでした」


 セドリック様の眉が——動いた。


「お前の好きにしろ、と言った。それだけだ」


「それだけ、ですか」


「ああ」


「……嘘です」


 リゼットの声が——強くなった。


 自分でも驚くほど。喉の奥から絞り出すように、でもはっきりと。


「嘘です、セドリック様」


 セドリック様の目が——見開かれた。かすかに。あの感情の読めない目が、一瞬だけ揺れた。


「わたしが聞いているのは——」


 一歩、踏み出した。セドリック様の背中ではなく、正面に立った。見上げた。百五十八センチから、百八十五センチを。


「セドリック様が、どうしたいかです」


 風が吹いた。北の山脈から降りてくる、冬の風。冷たくて、鋭くて、でも——澄んでいた。辺境の朝の風。リゼットが一年以上嗅ぎ続けた、あの風。


 セドリック様は——黙った。


 長い沈黙だった。


 東の空が藍色から薄紫に変わっていく。山の稜線に光の線が走る。あと少しで——朝日が来る。


「……王都に戻れば、お前は首席菓子師だ」


 セドリック様の声は低く、静かだった。


「最高の厨房がある。最高の素材がある。砂糖も、バターも、果実も——何でも手に入る。ここのように、木の実と蜂蜜で工夫する必要もない」


 一つ一つ、確認するように。言い聞かせるように。自分に——言い聞かせるように。


「お前の菓子は、王都にいた方が——」


「わたしが聞いているのは」


 リゼットが遮った。


 声が震えていた。でも、引かなかった。


「わたしの菓子の話ではありません。わたしのことは、わたしが決めます。——だから、セドリック様」


 見上げた。まっすぐに。琥珀色の目で、青灰色の目を射抜いた。


「あなたは——どうしたいですか」




 沈黙が、落ちた。


 風の音だけが聞こえていた。北から吹く風。山を越えてくる風。冬の、乾いた、冷たい風。


 セドリック様の拳が——震えていた。


 腿の横で握りしめた拳。剣だこのある、大きな手。その手が、白くなるほど強く握られていた。


 唇が動いた。開いて——閉じた。もう一度開いて——また閉じた。


 喉が動くのが見えた。言葉を飲み込んでいるのか、絞り出そうとしているのか。


 リゼットは待った。


 急かさなかった。逃がさなかった。ただ——ここにいた。冷たい風の中で。この人の前で。


 東の山の稜線から、最初の光が射した。


 金色の光が、セドリック様の灰銀色の髪に触れた。頬の傷跡を照らした。青灰色の目が、朝の光を受けて——薄い青に変わった。


 その目が——潤んでいた。


 リゼットは息を飲んだ。


 この人が——泣きそうな顔を見たのは、初めてだった。泣いてはいない。涙は落ちていない。でも——目の奥に、堪えきれないものが溜まっているのが見えた。


「……頼みがある」


 声が——掠れていた。


 いつものぶっきらぼうな声ではなかった。低くて、割れていて、喉の奥から一音ずつ押し出すような声だった。


「ずっと——言えなかった」


 リゼットの心臓が、大きく鳴った。


 馬車の中で飲み込まれた言葉。工房の夕暮れで途切れた言葉。石段の朝に「また明日」で終わらせた言葉。何度も何度も——この人の唇の手前で止まっていた言葉が、今——


「言ってください」


 リゼットの声も、震えていた。


「……婚礼菓子を」


 セドリック様の視線が——落ちた。リゼットの目を見られなくなったように。地面を見つめた。霜に覆われた冬の草を。


「……婚礼菓子を、焼いてほしい」


 朝の空気が——止まった。


 風が止み、鳥の声が消え、世界から音が抜け落ちた。


 婚礼菓子。


 結婚式で花嫁が自ら焼く菓子。それを焼いてほしいと——この人は言った。


 菓子師に、婚礼菓子を頼んでいる。


 依頼として。


 それは——この人らしかった。どうしようもなく、この人らしかった。「結婚してくれ」とは言えない。「好きだ」とも言えない。でも——菓子なら頼める。菓子を作ってくれ、なら——この人の言葉で言える。


 不器用で。回りくどくて。でも——この人が出せる、精一杯の言葉。


「それは——」


 リゼットの声が揺れた。


「菓子師への、依頼ですか?」


 セドリック様が顔を上げた。目が合った。


 朝日が差し込んでいた。金色の光が二人の間を満たしていた。セドリック様の耳が——赤かった。夕日のせいではない。朝日のせいでもない。はっきりと、赤かった。


「それとも——」


 続きを言おうとした。でも、声が震えて、最後まで出なかった。


 セドリック様の唇が——動いた。


「……両方だ」


 三文字。


 たった三文字の言葉が——朝の空気を震わせた。


 両方。


 菓子師への依頼であり——それ以上の、すべて。


 リゼットの視界が——滲んだ。


 涙だった。いつ溢れたのか分からなかった。頬を伝って、顎から落ちて、霜の上に小さな跡を作った。


 笑っていた。


 泣きながら——笑っていた。


 おかしかった。嬉しかった。この人がプロポーズに選んだ言葉が「婚礼菓子を焼いてほしい」だということが——どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなくこの人らしくて、笑うしかなかった。


「お受けします」


 声がかすれた。涙声だった。鼻の奥がつんとして、息が詰まりそうだった。でも——言葉は、はっきりと。


「菓子師として」


 一呼吸。


「それから——」


 見上げた。涙で滲んだ視界の中に、セドリック様の顔があった。青灰色の目が大きく見開かれている。呼吸が止まっている。この人が——わたしの返事を、こんな顔で待っている。


「あなたの、妻として」




 セドリック様の手が——伸びた。


 ゆっくりと。ためらいながら。剣だこのある大きな手が、リゼットの頬に触れた。涙を拭うように。でも不器用で、指先が震えていて、涙を拭うどころか頬をなぞっただけだった。


 その手が——温かかった。


 冬の朝の、氷点下の空気の中で。革手袋を外した素手が。こんなに温かいのだと——知らなかった。


「……泣くな」


 セドリック様の声が——割れた。


 ぶっきらぼうに「泣くな」と言いながら、自分の声が一番揺れていた。喉の奥で何かが引っかかるような、聞いたことのない声だった。


「泣いてません」


「嘘だ。目が赤い」


「嬉しくて——赤いんです」


 リゼットはセドリック様の手に自分の手を重ねた。粉のついていない、素のままの手。小さな手が、大きな手を包んだ。指先の火傷跡が、セドリック様の指に触れた。


 セドリック様の耳が——もう見えないくらい赤かった。


 目を逸らそうとしていた。いつもの癖だ。感情が溢れると視線を外す。でもリゼットがまっすぐ見上げているから——逃げられない。


「……後悔するぞ」


「しません」


「辺境だぞ。王都とは比べものにならん。砂糖も手に入りにくい。冬は五ヶ月閉ざされる。菓子師にとっては——」


「セドリック様」


 名前を呼んだ。静かに。でも——はっきりと。


「わたしは、辺境の菓子師です」


 セドリック様の言葉が——止まった。


「辺境の素材で、辺境の菓子を焼きます。砂糖がなくても霜花蜜があります。果実がなくても木の実があります。それで——十分です」


 朝日が丘を染めていた。白霜の草原が金色に光っている。北の山脈の雪が薔薇色に輝いていた。


「それに——」


 リゼットは笑った。涙の跡が頬に光っていた。


「毎朝、パンケーキを焼く相手がいなくなったら、困ります」


 セドリック様が——笑った。


 笑った、と言えるかどうか分からないほど、かすかな変化だった。唇の端がほんの少しだけ持ち上がって、目の奥の硬さが——溶けた。


 一年以上この人のそばにいて、初めて見る表情だった。


 笑顔とも、安堵ともつかない——ただ、何かを下ろした顔。ずっと肩の上に載せていた重いものを、ようやく地面に置いた人の顔。


「……勝手に焼いていたくせに」


「はい。明日からも、勝手に焼きます」


「……二人分か」


「はい。二人分です。——毎朝」


 セドリック様の手が、リゼットの手の上で握り返された。強く。不器用に。剣を握るときとは全然違う、ぎこちない力加減で。


 でも——温かかった。




 丘を下りたとき、東の空はすっかり明るくなっていた。


 冬の朝日が辺境の村を照らしている。白い屋根。煙突から立ち上る煙。宿屋の窓に灯りが点いている。マリーさんがもう起きて、朝の仕込みを始めているのだろう。


 二人は並んで歩いていた。並んで——といっても、セドリック様の歩幅が大きすぎて、リゼットが小走りになる。いつものことだった。でも今朝は、セドリック様が——歩幅を、狭めていた。


 気づいていないふりをした。


 工房の前まで来た。


 冷えきった工房。火の入っていない窯。作業台の上の勅書。


 リゼットは扉を開けた。冷たい空気が流れ出す。石の壁が凍えている。


 でも——手が動いた。


 薪を窯にくべた。火打ち石を打つ。かちり。かちり。三度目で火花が藁に移った。小さな炎が生まれて、薪の端に燃え移る。橙色の光が窯の奥で揺れ始めた。


 石窯がゆっくりと温まっていく。冷えた石の壁が、少しずつ熱を蓄えていく。


 リゼットの手が——動いた。止まっていた手が。


 昨晩、何も作れなかった手が。卵を割れなかった手が。蜂蜜の瓶を開けられなかった手が。


 今——動いている。


 エプロンを取りに走った。いつもの白いエプロン。袖をまくった。紐を結んだ。


 セドリック様が工房の入口に立っていた。入ろうか迷っている。大きな体が、扉の枠にぎりぎりで収まっている。


「入ってください」


「……ああ」


 セドリック様が入ってきた。いつもの椅子に座った。窓際の。朝日が斜めに差し込む。


 リゼットは棚から材料を下ろした。小麦粉。卵。辺境のバター。霜花蜜。


 パンケーキ。


 今朝は——パンケーキを焼こう。一番シンプルなものを。素材の味だけの。


 卵を割った。二つ。小麦粉をふるった。山羊乳を加えた。泡立て器でなめらかに混ぜた。


 鉄の焼き板にバターを敷いた。山羊乳やぎちちのバターが溶けて、甘い匂いが立つ。生地を流した。じゅう、と音がした。


 セドリック様が——その音を聞いていた。椅子に座って、腕を組んで。いつもの姿勢。でも——目だけが、リゼットの手を追っていた。


 パンケーキを焼く手を。


 生地をひっくり返す手を。


 皿に載せて、蜜をかける手を。


 二枚。二皿。


 いつもの、二人分。


 リゼットはセドリック様の前に皿を置いた。


「どうぞ」


 セドリック様がパンケーキを手で割った。いつものように。指先で半分に。断面からほわりと湯気が立つ。霜花蜜が浸みて、淡い金色に光っている。


 口に運んだ。


 咀嚼そしゃく


 リゼットは向かいの椅子ではなく——隣に座った。自分のパンケーキをちぎった。口に入れた。


 甘い。


 バターの風味と、霜花蜜の透明な甘さ。いつもと同じ味のはずだった。同じ素材で、同じ配合で、同じ焼き加減で作ったのだから。


 でも——今朝のパンケーキは、今までで一番甘かった。


「……悪くない」


 セドリック様の声。いつもの四文字。最上級の褒め言葉。


「ありがとうございます」


 窯の奥で薪がひとつ崩れた。朝日が窓から差し込んで、工房を暖かい金色に染めている。


 二人分のパンケーキ。二つの椅子。朝の光。


 当たり前の朝が——戻ってきた。




 工房の扉が勢いよく開いたのは、セドリック様が二枚目のパンケーキを食べ終わった直後だった。


「リゼ! 大丈夫かい、昨日の手紙——」


 マリーが飛び込んできた。息を切らしていた。エプロンを付けたまま、手に木べらを握ったまま。宿屋から全力で走ってきたのが分かった。


 そして——工房の中を見た。


 窯に火が入っている。焼きたてのパンケーキの匂い。作業台の上の二枚の皿。


 セドリック様が椅子に座っている。リゼットが隣に座っている。


 二人の手が——作業台の下で、つながっていた。


 マリーは木べらを下ろした。


 大きく息を吸って——吐いた。


「…………やっとかい」


 呆れた声。安堵した声。泣きそうな声。全部が混じった声だった。


 セドリック様が視線を逸らした。耳が赤い。


 リゼットは——笑った。


「マリーさん。婚礼菓子を焼くことになりました」


 マリーが——目をまばたいた。


 一拍。二拍。


「婚礼——」


 三拍目で、意味が通じた。


「婚礼菓子ァ!?」


 大きな声。工房の壁に反響して、窯の中で火がぱちぱちと弾けた。


「ちょっと! セド! あんた、プロポーズの言葉が『婚礼菓子を焼いてくれ』なの!?」


 セドリック様が——黙った。耳だけがさらに赤くなった。


「信じらんない……あたしが泣けてくるよ……もうちょっとマシな言い方あるでしょ……」


 マリーが木べらで自分の額を叩きながら、天を仰いだ。


 でも——目が、赤かった。


「でも——」


 マリーが二人を見た。温かい茶色の目が、二人を交互に見た。


「よかったね」


 小さな声だった。いつもの大きな声ではなく。宿屋の女将の声ではなく。幼馴染の、友人の——家族の、声。


「よかったね、セド。リゼ」


 リゼットの目から——また涙が出た。


 今日は、よく泣く日だ。


「マリーさん——ありがとうございます。マリーさんがいなかったら——わたし、ずっと壁を——」


「泣くのは婚礼の日まで取っときなよ!」


 マリーがハンカチを投げた。宿屋の石鹸の匂いがするハンカチが、リゼットの膝に落ちた。


「さて——」


 マリーが腰に手を当てた。いつもの姿勢。女将の顔に戻った。


「婚礼菓子ってことは、婚礼があるんだね。準備するものが山ほどあるよ。招待状、衣装、会場——まず辺境中に知らせなきゃ。うちの領主さまがやっとお嫁さんもらうんだから、村中で祝わないと」


 セドリック様が立ち上がった。


「……見回りに行く」


「逃げるんじゃないよ!」


 マリーの声を背に、セドリック様が工房を出ていった。でも——扉の前で、一瞬だけ足を止めた。


 振り返った。


 リゼットを——見た。


 何も言わなかった。青灰色の目が、朝の光の中で——柔らかかった。今まで見たことがないくらい。


 それだけで——十分だった。


 扉が閉まった。セドリック様の足音が遠ざかっていく。北に向かう足音。いつもの、規則正しい歩調。


 でも今朝は——ほんの少しだけ、軽かった。




 マリーが帰った後。


 リゼットは一人、工房に残った。


 作業台の上に、勅書がある。金色の封蝋。王家の紋章。


 手に取った。


 読み返さなかった。折りたたんで、棚の奥にしまった。返事は——書く。丁寧に。感謝を込めて。でも、答えはもう決まっている。


 わたしの厨房は、ここにあります。


 窯の火が安定してきた。石の壁が温もりを蓄えて、工房全体がじんわりと暖かい。バターと蜂蜜と小麦粉の匂いが、空気に溶けている。


 リゼットは——明日の朝のことを考えていた。


 何を焼こう。


 パンケーキでもいい。フィナンシェでもいい。黒胡桃のクッキーでもいい。


 何でもいい。シンプルなものがいい。


 二人分。明日の朝の。


 ——毎朝の。


 エプロンの紐を結び直した。袖をまくった。指先の火傷跡が、窯の光に白く光った。


 菓子師の手が——動いている。


 止まらない。もう、止まらない。

下にある☆☆☆☆☆をクリックして★★★★★にしてくれたら作者が喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ