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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

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第33話: 凱旋

 第4章「世界で一番甘い朝」




 北の風が——甘い。


 馬車のほろを揺らす風に、針葉樹の青い匂いが混じっていた。辺境の匂いだ。王都の石畳と香水と人いきれの匂いとは、何もかも違う。冷たくて、鋭くて、透き通った——帰ってきた、という匂い。


 リゼットは窓から身を乗り出した。


 街道の左右に針葉樹の森が迫っている。木々のこずえは秋の光を受けて深い緑と黄金色のまだらに染まり、足元には落ち葉が敷き詰められていた。土の道。わだちの薄い、辺境へ続く一本道。


 三日間の帰路だった。王都を出て、丘陵を越え、平野を横切り、針葉樹の森に入ったあたりから——空気が変わった。冷たくなった。澄んだ。リゼットの肺が、久しぶりに深く息を吸い込んだ。


「……近いな」


 向かいの席で、セドリック様が呟いた。


 腕を組んで、窓の外を見ている。灰銀色の髪に秋の陽が当たって、かすかに光っている。青灰色の目が——柔らかかった。ほんの少しだけ。この人も、帰ってきたのだ。


「はい。もうすぐですね」


 リゼットはエプロンのポケットに手を入れた。レシピ帳がある。王都での品評会の間も、ずっとここにあった。


 品評会の優勝——もう三日前のことなのに、まだ夢のようだった。審査員の講評。会場の拍手。お父様の涙。「不味くは、ない」という、たった六文字。


 全部——本当にあったこと。


 馬車が揺れた。道が少し荒れている。辺境に近づくと、街道の手入れが行き届かなくなる。がたがたと車体が揺れるたびに、荷台の木箱がかたかたと音を立てた。


 品評会で使い切れなかった素材たち。霜花蜜の瓶が二つ。焙煎した黒胡桃の袋。乾燥ベリーの小瓶。高原りんごの保存瓶——辺境から持ち出して、辺境に持ち帰る。宝物のように抱えて。




 村が見えた。


 丘を越えた瞬間、眼下に——ヴィントヘルムの村が広がっていた。


 石造りの家々。宿屋の煙突から立ち上る煙。白霜の森に囲まれた小さな集落。何もかもが、三週間前と変わっていない。小さくて、質素で、寒くて——リゼットの、居場所。


 あれ、と思った。


 村の入り口に——人がいる。一人ではない。二人でもない。


 十人。いや、二十人。いや——


「……何だ、あれは」


 セドリック様が身を乗り出した。


 村の入り口に、人だかりができていた。


 近づくにつれて——声が聞こえてきた。


「来た! 来たよ!」


「馬車だ! セド様の馬車だ!」


「おーい! 帰ってきたぞー!」


 子どもたちが走ってくる。裸足で土の道を駆けてくる。その後ろから大人たちが——農具を置いて、洗い物を放り出して、鍛冶場の火を消して——わらわらと集まってきていた。


 馬車が村の入り口で止まった。


 扉を開ける前に——歓声が、押し寄せた。


「おかえり!」


「おかえりなさい!」


「リゼットが優勝したって本当かい!?」


 リゼットは馬車から降りた。足が地面についた瞬間——辺境の冷たい土を踏んだ瞬間——胸の奥が、じわっと熱くなった。


 村人たちに囲まれた。あちこちから手が伸びて、肩を叩かれ、手を握られ、口々に声をかけられる。


「うちの菓子師が王都で勝ったんだってな!」


「すげえなあ! 辺境から出た奴が王都で一番だって!」


「あんたの焼く菓子は美味かったもんなあ。そりゃ勝つわ」


 うちの——菓子師。


 リゼットは目をまばたいた。


 いつの間に「うちの」になっていたのだろう。一年前に流れ着いた、よそ者の追放令嬢が——この村の、「うちの菓子師」に。


「ど、どうして知っているんですか? わたしたちより先に伝わるはずが——」


「商隊さ!」


 声を上げたのは、鍛冶屋のおかみさんだった。


「二日前に南から商隊が来てね。王都の品評会で辺境の菓子師が優勝したって、大騒ぎだったよ! あんたの名前を聞いた時にゃあ、村中ひっくり返ったさ」


「朝から晩まで、その話で持ちきりだったんだぜ」


「マリーなんか、泣いてたよ」


 マリーさんが——泣いた?


 リゼットは人だかりの向こうを見た。


 いた。


 宿屋の入り口に——マリーさんが立っていた。


 栗色のお団子ヘア。白いエプロン。腰に手を当てた、いつもの仁王立ち。でも——目が、赤い。


 人だかりを掻き分けて、マリーさんが歩いてきた。大股で。力強い足取りで。


 リゼットの前に立った。


 見下ろされた。十センチ以上の身長差。マリーさんの茶色い目が、潤んでいる。唇が結ばれて——震えている。


「……おかえり、リゼ」


 声が——かすれていた。


「ただいま、マリーさん」


 リゼットの声も——かすれた。


 マリーさんが——両腕を広げた。


 ぎゅう、と抱きしめられた。力いっぱい。お団子頭から小麦粉と石鹸の匂いがする。出発の朝と同じ匂い。マリーさんの匂い。


「馬鹿。あんまり心配させるんじゃないよ」


「心配?」


「当たり前だろ。王都なんて怖い場所に——あたしのリゼが行っちまうんだから」


 あたしの、リゼ。


「でも——帰ってきたね」


「はい」


「勝って——帰ってきたね」


「……はい」


 目が熱くなった。


 品評会の壇上では堪えた涙が——ここでは、堪えられなかった。


 マリーさんの腕の中は安全だった。辺境の冷たい風が頬を撫でて、涙を乾かしていく。でも次から次へと溢れて、マリーさんのエプロンを濡らしていく。


「泣くんじゃないよ。凱旋だよ? 笑いな」


「だって——」


「だってじゃないよ。ほら、みんな見てるだろ」


 村人たちが——拍手していた。


 パチパチパチと、素朴な拍手。品評会の豪華な拍手とは全然違う。手が荒れて、剣だこがあって、農作業で日焼けした手のひらが打ち合わさる——温かい、不器用な拍手。


「リゼット、おかえり!」


「うちの菓子師、おかえり!」


 リゼットはマリーさんの腕の中で——笑った。泣きながら。




 セドリック様が馬車から降りたのは、リゼットがひとしきり泣き終わった後だった。


 村人たちの視線が、辺境伯に集まった。


「セド様、おかえりなさい!」


「おかえり、セド!」


 セドリック様は——短く頷いた。


「ああ」


 いつもの「ああ」。でも——口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。


「セド」


 マリーさんが、目を赤くしたまま声をかけた。


「あんた、ちゃんとリゼを守ってくれたんだね」


「……別に。何もしていない」


「はいはい」


 マリーさんが、にやりと笑った。涙の跡を残したまま。


「何もしてない人が、わざわざ王都まで付いていくわけないだろうに」


 セドリック様が——そっぽを向いた。


 リゼットは知っている。あの人が王都でしてくれたことを。会場の外で待っていてくれたこと。祝宴で壁際に立ちながら「辺境の菓子師だ」と——誇らしげに言ってくれたこと。


 でも、セドリック様は言わない。自分からは、絶対に。


「おい」


 セドリック様が村人たちに向き直った。声が——領主の声に切り替わった。低くて、静かで、でも隅々まで届く声。


「一つ、伝えることがある」


 ざわめきが収まった。


「辺境伯として——特産品奨励令を発布する」


 特産品、奨励令。


 リゼットは目を瞬いた。聞いたことがある。辺境伯の経済的権限の一つ——領内の産業振興のために、営業許可を独自に発布できる制度。


「リゼット・フォン・メルヴェーユに、辺境初の菓子工房の営業を認可する」


 息が——止まった。


「旧倉庫を工房として改築する。辺境の素材を使った菓子の製造・販売を認める。——以上だ」


 短い。あまりに短い。公式の布告としては簡素すぎる。


 でも——セドリック様の目が、一瞬だけリゼットを見た。


 青灰色の瞳が——何かを言っていた。言葉にしないまま。


 ここにいろ。この土地で、菓子を焼け。


 リゼットには——聞こえた。


 村人たちが歓声を上げた。


「菓子工房だって!」


「辺境に菓子屋ができるのか!」


「リゼットの菓子がいつでも食えるようになるってことか!?」


 子どもたちが飛び跳ねている。大人たちも顔を見合わせて笑っている。甘いものを年に数回しか口にできない辺境の人々にとって——菓子工房は、夢のような話だった。


 リゼットは——深く、頭を下げた。


「ありがとうございます。精一杯——やります」


 声が震えていた。でも——手は、震えていなかった。




 旧倉庫は、宿屋の裏手にあった。


 石造りの小さな建物。屋根は板葺きで、壁にはつたが這っている。元は穀物の貯蔵庫として使われていたらしいが、数年前から空き家になっていた。


「セドリックが前から目をつけてたんだよ」


 マリーさんが、壁の蔦を引っ張りながら言った。


「お前が品評会で勝ったら工房にする、って。負けても工房にする、って」


「……え?」


「勝っても負けても、結果は同じだったのさ。あの男、あんたに辺境で菓子を焼き続けてほしいんだよ。……まあ、絶対に自分じゃ言わないけどね」


 リゼットは旧倉庫の扉を開けた。


 埃っぽい空気が流れ出した。中は——思ったより広かった。天井が高い。窓が二つ。壁沿いに棚が並んでいる。


 そして——奥に。


 石窯があった。


 大きな石窯だった。マリーさんの宿屋の窯よりも一回り大きい。灰色の石を積み上げた、がっしりした造り。煙突が天井を突き抜けて、屋根の上に伸びている。


 リゼットは石窯に歩み寄った。


 手を触れた。冷たい石の感触。まだ火が入っていない。でも——この窯は、生きている。石の目が詰まっている。焼いた跡がある。かつて、パンか何かを焼いていた窯だ。


「いい窯です」


 声に出すと——実感が湧いた。


 わたしの、石窯。


「火を入れたい。今日——火を入れたいです」


「今日? まだ着いたばかりだよ?」


「今日です。この窯で——最初の菓子を焼きたい」


 マリーさんが——大きく笑った。


「あんた、やっぱり菓子馬鹿だね」




 薪を運んだのは、セドリック様だった。


 頼んでいない。声もかけていない。気づいたら、倉庫の入り口に薪の束が積まれていた。よく乾いた樫の薪。火持ちがいい、窯焚きに最適な薪。


 リゼットが振り返ると——セドリック様の背中が遠ざかっていくところだった。


「セドリック様」


 足が止まった。振り返らない。


「……ありがとうございます」


「……ああ」


 背中のまま——歩いていった。


 マリーさんが、リゼットの隣で腕を組んでいた。


「不器用だねえ、あの男」


「ふふ。でも——嬉しいです」


「そりゃそうさ。あれ、樫だよ。わざわざ良い薪を選んでるんだから」


 リゼットは薪を窯にくべた。火打ち石で火を起こす。乾いた樫に火が移って——ぱちぱちと弾ける音がした。


 窯が——温まっていく。


 冷たかった石が、少しずつ熱を蓄えていく。手のひらを窯の壁に当てると、石の奥から——命のような熱が、じわりと伝わってきた。


 窯が生き返る。


 その間に、リゼットは手を動かし始めた。


 荷台から降ろした素材を並べる。霜花蜜の瓶。小麦粉。バター。卵。辺境に帰ってきてすぐに手に入るもの。シンプルな材料。


 作るのは——霜花蜜のマドレーヌ。


 辺境に来て、最初に覚えた菓子。マリーさんの厨房で、初めて辺境の素材で焼いた菓子。あの時はまだぎこちなかった。霜花蜜の扱い方が分からなくて、加熱しすぎて香りを飛ばしてしまった。何度も失敗した。


 今は——違う。


 ボウルに卵を割る。泡立て器で空気を含ませる。砂糖の代わりに霜花蜜をたっぷりと流し入れる。透明な蜂蜜が、卵の黄色に溶けて——淡い琥珀色に変わる。


 小麦粉をふるう。さらさらと白い粉が降る。ヘラで切るように混ぜる。練らない。空気を潰さない。生地がつやつやと光り始めたら——溶かしバターを加える。


 焦がしバター。


 鍋の中でバターが溶けて泡立ち、金色から琥珀色に変わっていく。ナッツのような香ばしい匂いが立つ。もう少し。もう少し——ここ。この色。この香り。


 生地にバターを合わせた。ゆっくりと、底から持ち上げるように。


 型に流す。貝殻の形をした型——品評会に持っていった道具の一つ。辺境では貝殻を見たことがない人がほとんどだから、「海の形だよ」と教えてあげよう。


 窯の温度を手で確かめた。手のひらを窯口にかざす。三秒で熱い——ちょうどいい。


 型を窯に入れた。




 甘い匂いが——広がっていった。


 工房の窓から、外へ。秋の風に乗って、村の中へ。


 焦がしバターと霜花蜜が溶け合った、甘くて香ばしい匂い。辺境の空気の中に——初めて、菓子の匂いが漂った。


「何だ、この匂い?」


「甘い……甘い匂いがする」


 村人たちが、鼻をひくひくさせながら工房の前に集まってきた。


 子どもたちが窓に張りついている。大人たちも仕事の手を止めて、匂いの出どころを探している。


 甘い匂いを——知らない人たち。


 辺境では、甘味はまだ贅沢品だった。蜂蜜を年に数回舐めるのが最大の贅沢で、焼き菓子の匂いなど嗅いだことがない。リゼットがマリーさんの厨房で焼いていた時も、匂いを辿って村人が覗きに来ることがあった。


 でも今日は——もっと大きい。工房の窯は大きくて、焼く量も多い。甘い匂いが村中に広がっている。


 窯を開けた。


 黄金色のマドレーヌが——並んでいた。


 ぷっくりと膨らんだ貝殻型。表面はきつね色に焼けて、霜花蜜の甘い艶がかかっている。割れ目から湯気が立ち上って——焦がしバターの、たまらなく香ばしい匂いが溢れ出した。


 焼けた。


 この窯で——最初の菓子が、焼けた。


「マリーさん」


「うん?」


「配りましょう」


「え?」


「村の皆さんに——配りましょう。工房の初焼きです。振る舞い菓子に」


 マリーさんが——目を丸くして、それから、にかっと笑った。


「あんた、太っ腹だねえ!」


「太っ腹なんかじゃないです。わたし一人じゃ食べきれないだけです」


「嘘つけ」


 マリーさんがリゼットの肩を叩いた。


「いいよ。あたしも手伝う。ほら、籠を持ってきな」




 村人たちに、マドレーヌを配った。


 一人に一つずつ。籠に入れた黄金色の貝殻型を、一つずつ手渡していく。


 子どもが最初にかじった。


「あまい!」


 目を見開いた。丸い目がさらに丸くなって——頬が、りすのように膨らんだ。


「あまい! あまいよ! お母さん、あまい!」


 母親が自分のマドレーヌを恐る恐る口に運んだ。


 噛んだ。


 ゆっくり——噛んだ。


 目が——潤んだ。


「……美味しい」


 小さな声で——呟いた。


「こんな美味しいもの、食べたことない……」


 隣の老人が食べた。鍛冶屋のおかみさんが食べた。猟師が食べた。木こりが食べた。一人また一人と、マドレーヌを口に運んで——同じ顔をした。


 驚きの顔。それから——幸せの顔。


 リゼットは見ていた。一人ひとりの顔を。品評会の審査員の顔とは違う。洗練された批評の目ではない。ただ純粋に——甘いものを食べた喜びが、顔中に広がっている。


 これだ。


 これが——わたしの菓子の、居場所だ。


 品評会で優勝した時よりも——今この瞬間の方が、ずっと嬉しい。




 陽が傾いた頃。


 村人たちが散っていって、工房の前が静かになった。


 リゼットは工房の中で、使った道具を洗っていた。ボウル、泡立て器、ヘラ、型。一つずつ丁寧に。窯の火は落としたが、石がまだ温かくて、工房全体がほんのり暖かい。


 足音が聞こえた。


 重い足音。扉の前で——一拍の間。


 ノックの代わりの、あの一拍。


「……入るぞ」


「どうぞ」


 セドリック様が入ってきた。工房の中を見回した。天井。窓。棚。石窯。それから——リゼットを見た。


「残っているか」


「え?」


「菓子だ」


 リゼットは笑った。


「取っておきました。セドリック様の分」


 布巾をかけておいた小皿を差し出した。マドレーヌが二つ。もう冷めてしまったけれど、霜花蜜の甘い香りはまだ残っている。


 セドリック様が一つ手に取った。


 齧った。


 かり、と軽い音。それから——咀嚼が、遅くなった。


 あの癖だ。美味しいものを食べた時の、ゆっくりとした咀嚼。


「……ここの窯で焼いたのか」


「はい。初焼きです」


「そうか」


 二つ目に——手が伸びた。


 合格、だ。


 セドリック様が二つ目のマドレーヌを食べ終えた。指先についた焦がしバターの油を——ぎこちなく、指で拭った。


「リゼット」


「はい」


「……いい窯だ」


 それだけ言って——立ち上がった。


 扉に向かう。背中。広い背中。でも——足が、一度止まった。


 振り返らない。お父様と同じだ。背中のまま——


「……毎日、焼くのか」


「はい。毎日焼きます」


「……そうか」


 低い声。短い言葉。


 でも——リゼットには聞こえた。その声の奥にあるもの。


 毎日、食いに来る。


 そう言っている。


 セドリック様の背中が、扉の向こうに消えた。


 リゼットは——一人になった工房で、両手を胸の前で握った。


 わたしの工房。わたしの石窯。わたしの——場所。


 窓の外では、秋の夕日が辺境の山並みを茜色に染めていた。白霜の森の梢が風に揺れて、ざわざわと歌っている。


 明日も焼こう。明後日も。毎日。


 この窯で。この土地で。この人たちのために。


 ——あの人のために。


 リゼットは石窯に手を触れた。まだ温かい。手のひらに、石の熱が伝わってくる。


 帰ってきた。


 いいえ——違う。


 ここが、最初から——わたしの場所だった。


 リゼットの口元が——ほころんだ。


 品評会の時にセドリック様が言いかけた「頼み」のことを——ふと、思い出した。帰ってからでいい、と言った。帰ってきた。でも——まだ、言わない。


 何を頼みたいのだろう。


 想像すると——胸の奥が、きゅっと鳴る。


 でも、急がない。急がなくていい。


 この人は——不器用だから。


 きっと、言葉を選んでいる。ずっと。あの短い言葉の中に、全部を込められるように——ずっと、選んでいる。


 待とう。この工房で、菓子を焼きながら。


 窓の外で、風が鳴った。北の風。辺境の風。


 甘い匂いを——まだ、運んでいる。

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