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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

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第34話: 辺境の菓子師

 石窯から立ち上る煙が、朝の冷たい空気に白く溶けていった。


 十月の辺境の朝は、吐く息も白い。でも厨房の中は——窯の熱で、ほんのり温かかった。


 リゼットは両手に鉄の天板を持って、窯の前に立っていた。天板の上には、焼き上がったばかりの木の実タルトが六つ。焦げ茶色の生地に、焙煎した黒胡桃の粒が散っている。霜花蜜の琥珀色が表面に薄く光って——甘い、甘い匂いが、厨房を満たしていた。


「……よし」


 焼き色を確かめた。窯から出してすぐの、この一瞬が勝負だ。余熱で火が通りすぎる前に天板を台に下ろして、木の実タルトを一つ一つ金網に移す。


 指先が熱い。でも、慣れた熱さだ。


 窓の外に目をやると——看板が見えた。


 白い木の板に、黒い文字。セドリック様が昨日、ぶっきらぼうに「これでいいだろう」と立てかけていった看板。字はお世辞にも上手とは言えない。武骨な筆跡で——。


 『菓子工房メルヴェーユ』


 その看板の前に——人が、並んでいた。




 開店の朝。


 リゼットが想像していたのは、せいぜい村の顔見知りが三、四人来てくれる程度だった。昨晩の開店祝いで村人たちに振る舞い菓子を配ったばかりだ。今日わざわざ買いに来てくれる人がいるだけでも、ありがたい。


 でも——看板の前に立っていたのは、見知らぬ顔だった。


「ここかい、品評会で優勝した菓子師がいるっていう店は」


 最初に扉を開けたのは、がっしりした体つきの男だった。革の外套に旅の埃がこびりついている。腰に剣。背中に荷物袋。——冒険者だ。


「あ——はい。いらっしゃいませ」


 リゼットは慌ててエプロンの粉を払った。


「南のほうの宿場で聞いたんだよ。辺境の田舎に、王立品評会で優勝した菓子師がいるってな。まさかと思ったが——本当に店があるじゃねえか」


 冒険者の後ろに、もう一人。小柄な女性の冒険者が顔を覗かせた。


「ねえ、タルトの匂いがする。焼きたて?」


「はい、今ちょうど窯から出したところです。木の実タルト——黒胡桃と霜花蜜の」


「それちょうだい! 二つ!」


 リゼットは目を丸くした。


 冒険者が——菓子を買いに来た。辺境の、この小さな工房に。




 最初の客は冒険者の二人組だった。


 次は——商人だった。


 昼を過ぎた頃、荷馬車を引いた中年の商人が工房の前に止まった。南部訛りの、よく喋る男だった。


「いやはや、王都の品評会で話を聞きましてね。辺境の素材だけで宮廷菓子師を打ち負かしたって。商人仲間の間じゃちょっとした話題ですよ。——で、どうです、うちの商会と取引しませんか。南部への卸を」


「え——南部に、ですか?」


「もちろん、まずは味を確かめさせてもらわんと。看板商品は何ですかい」


「木の実タルトです。黒胡桃と霜花蜜を使った——」


「ほう、辺境の素材。それがいい。差別化になる。じゃあまず一つ」


 商人がタルトをひと口かじった。


 咀嚼そしゃくが——止まった。


 目が——閉じた。


 ゆっくりと、もう一度噛みしめて——飲み込んで——目を開いた。


「……こいつは、驚いた」


 商人の声が——変わっていた。商売人の陽気さが消えて、もっと素朴な声で。


「看板メニューにするだけの理由がある味ですな」


 リゼットの頬が——熱くなった。


「あ、ありがとうございます。まだ改良の余地が——」


「いやいや、この素朴さがいい。王都の菓子にはない味だ。取引の話、本気で考えませんか」


 リゼットは困って笑った。南部への卸。そんなこと、考えたこともなかった。




 夕方。


 マリーが宿屋から駆け込んできた。


「リゼ! うち、今日だけで宿泊が三組入ったよ!」


 栗色のお団子ヘアに粉がついている。いつもと同じだけれど——声がいつもより弾んでいた。


「三組?」


「冒険者が二組と、商人が一人。みんな『菓子工房の噂を聞いて来た』って言うんだよ。こんなこと——今まで一度もなかったよ?」


 マリーがカウンターに両手をついて、リゼットの顔を覗き込んだ。茶色い目がきらきら光っている。


「やったじゃん、リゼ。あんたの菓子が、人を呼んでるんだよ」


「わたしの、菓子が——」


「そうだよ。辺境の宿屋にね、菓子を食べに来る客が来るなんて——あたし、考えたこともなかったよ。食料の補給で寄る商人と、道に迷った旅人くらいしか来なかったのに」


 マリーが笑った。大きな声で。辺境の宿屋の女将の、よく通る笑い声。


「ねえリゼ、あんたの工房のおかげで、うちの宿も繁盛しちゃうかもね」


「わたしの——おかげ、なんて」


「謙遜しなくていいってば。あ、そうだ。今日の客にさ、タルトを宿のお茶請けに出していい? 宿泊客に喜んでもらいたいんだ」


「もちろんです、マリーさん。いくつでも」


「やった! じゃあ四つもらってくよ!」


 マリーが木の実タルトを四つ、布に包んで抱え上げた。宿屋に駆け戻っていく後ろ姿を、リゼットは見送った。


 辺境に——人が来ている。


 わたしの菓子を、食べるために。


 胸の奥が——じんわりと、温かくなった。




 日が傾いて、最後の客を送り出した後。


 リゼットは厨房の掃除をしていた。使い終わった天板を磨いて、小麦粉をしまって、明日の仕込みの段取りを頭の中で組み立てる。


 黒胡桃の在庫を確認した。朝焼いた六つのタルトに加えて、追加で四つ焼いた。合計十個。初日にしては——上出来だ。


 でも、このペースだと黒胡桃の殻割りが追いつかない。秋の収穫祭で集めた分は、まだたっぷりあるけれど——殻を割って、焙煎して、粗く砕いて。一人でやるには時間がかかる。


「……明日は朝もっと早く起きて——」


 独り言を呟きながら、ふと顔を上げた。


 窓の外に——人影があった。


 灰銀色の髪。質素な革鎧。左頬の傷跡。


 セドリック様が——工房の前に立っていた。


 看板の前で、腕を組んで、何か考え込むようにしている。


 リゼットは小さく笑って、入り口の扉を開けた。


「セドリック様。どうかしましたか?」


「……ああ。北の見回りの帰りだ」


「北の見回りの帰りだと——工房の前は通りませんよね。ここ、南側ですから」


 セドリック様の耳が——かすかに、赤くなった。


「……看板が傾いていないか、確認しに来た」


「看板は真っ直ぐですよ。セドリック様が立ててくれたんですから」


「……そうか」


 沈黙。


 青灰色の瞳が、厨房の中をちらりと見た。焼き台の上に残っている最後の木の実タルト——一つだけ、取り置いてあるもの——に、一瞬だけ視線が止まった。


 リゼットは——気づかないふりをした。


「一つ、余っているんです。試食してもらえませんか。今日のタルトの出来を、確かめたくて」


「……俺の味覚を当てにするな」


「最近、分かるようになってきたって——セドリック様が言ったんですよ?」


 セドリック様が黙った。反論できないことが、悔しそうだった。


 リゼットは木の実タルトを一切れ、小さな皿に載せてカウンターに置いた。


「どうぞ」


 セドリック様が——椅子に座った。


 大きな体が小さな椅子に収まると、工房がますます狭く見えた。武骨な手がフォークを取り上げる。剣を握るための指が、小さなフォークを不器用に持っている。


 一口。


 咀嚼そしゃく


 リゼットは——息を止めて、見ていた。


 セドリック様の表情が——変わった。ほんの少しだけ。眉間の力が抜けて、目が微かに細くなって——あの、味を感じている時の顔。


「……どうですか」


「……悪くない」


「もう少し詳しくお願いできますか。木の実の焙煎は強すぎませんでしたか? 霜花蜜の甘さは——」


「うるさい。菓子師の質問は長い」


「だって気になるんです。わたし、セドリック様が一番正直な感想をくれるって、知ってますから」


 セドリック様がフォークを置いた。


 青灰色の目が——リゼットを見た。


「……最近」


「はい?」


「このタルトの——胡桃の焦げた味が、分かる。前は分からなかった」


 リゼットの手が——止まった。


「味が——分かる?」


「ああ。焙煎の深さ。蜜の甘さ。前はぼんやりとしか感じなかったものに——輪郭がある」


 セドリック様の声は平坦だった。いつもの、感情を乗せない低い声。でもリゼットには——その声の底にある安堵が、聞こえた。


 三年間、味が鈍っていた人。食事が「栄養補給」でしかなかった人。


 その人が——味の輪郭を、掴み始めている。


「それは——すごいことですよ、セドリック様」


「大げさだ」


「大げさじゃないです。本当に——」


 リゼットの目が、じわりと熱くなった。嬉しかった。菓子師として、嬉しかった。


 セドリック様が——視線を逸らした。


「……だが」


「だが?」


 口を開きかけて——閉じた。何かを言おうとして、飲み込んだ。喉が一度動いて、唇が引き結ばれた。


「……いや。悪くない。それだけだ」


 言い切って、窯の火に目を戻した。


 リゼットの胸が——ざわりと波立った。今、何を言いかけたのだろう。飲み込んだ言葉の形が、気になって仕方がなかった。


「……ありがとう、ございます」


 声が——少し震えていた。自分でも分かった。


 セドリック様は何も言わなかった。残りのタルトを黙々と食べて——皿を空にして——立ち上がった。


「明日も焼くのか」


「はい。明日も」


「……そうか」


 扉に向かう。背中。灰銀色の髪が夕陽に光っている。


 扉の前で——足が止まった。


「看板」


「はい?」


「少し右に傾いている。明日、直す」


「……真っ直ぐだって、さっきわたしが——」


 扉が閉まった。


 リゼットは——空になった皿を見つめて、くすっと笑った。


 明日も来る気だ。




 翌日から——客が、途切れなかった。


 三日目には、王都から直接来たという若い女性客がいた。


「品評会の観覧席にいたんです。あのプティフールが忘れられなくて——辺境まで来てしまいました」


 王都から馬車で三日。この小さな工房まで——菓子を食べに。


 木の実タルトを出すと、女性は一口食べて——目を見開いた。


「プティフールと同じ味がします。黒胡桃の、この温かさ——」


 同じなのだ。プティフールのフィナンシェも、この木の実タルトも、根っこは同じ。辺境の黒胡桃を焙煎して、霜花蜜をかけて、石窯で焼く。リゼットが辺境に来て一番最初に焼いた菓子。すべてがここから始まった一皿。


 それが今、看板メニューになっている。


 奇をてらった技法はない。辺境の素材を、辺境の窯で焼いただけの素朴な木の実タルト。


 でも——これがわたしの原点で、わたしの菓子の答えだ。




 一週間が経つ頃には、村の景色が——少し変わり始めていた。


 マリーの宿屋は、夕食時に空席がなくなった。村の鍛冶屋には旅人の馬の蹄鉄を直す依頼が立て続けに入り、雑貨屋では木彫りの置物や羊毛の手袋が土産物として売れ始めている。


 村の広場を歩くと——聞き慣れない言葉が混じるようになった。南部訛り。王都の洗練された言い回し。


 でも——辺境の人々は、変わらなかった。


 冒険者が宿屋で酒を飲んでいた時、隣に座った猟師が黙って干し肉を差し出した。商人が道で荷車の車輪を壊した時、通りがかった村人三人が無言で持ち上げてくれた。


 言葉は少ない。でも——手は、出す。


 リゼットが辺境に来た日と、同じだった。




 夕暮れ。


 工房の片づけを終えたリゼットが、窓から外を見ていた。


 もうすぐ——冬が来る。十一月半ばには街道が雪で閉ざされて、この賑わいも止まる。


 春になったら——また来てくれるだろうか。


「考えすぎだよ、リゼ」


 マリーが工房に入ってきた。宿屋の仕事が一段落したらしい。エプロンを外しかけたまま、椅子にどさりと腰を下ろした。


「あんたの菓子を食べた人は忘れないよ。冬が明けたら——また来るさ」


「……マリーさん」


「それにさ——」


 マリーが、にやっと笑った。


「セド、毎日来てるでしょ。工房に」


「えっ——そ、そんなこと——」


「看板が傾いてるだの、窓の建てつけが悪いだの、毎日何か理由つけて来てるじゃん。で、結局タルト食べて帰ってく」


「あれは——試食を頼んでるだけで——」


「リゼ。セドは不器用なんだよ。菓子が食べたいって素直に言えないの。あの男は昔からそうなんだ」


 マリーの声が——柔らかかった。幼馴染の声。セドリック様を子どもの頃から知っている人の声。


「でもね——あの顔見た? タルト食べてるときの。あたし、セドがあんな顔するの、ここ三年で初めて見たよ」


 リゼットの胸が——ぎゅっと、熱くなった。


「あんたの菓子が——この辺境を、変えてるんだ。少しずつだけど。確実に」


 マリーが出ていった。


 静かになった工房で、リゼットは一人——窓の外を見つめていた。最初の星が一つ、空の高いところに光った。


 「お前の菓子はもう不要だ」——追放の日の言葉は、まだ胸の奥に残っている。


 でも——今は。


 必要とされている。この土地で。この人たちに。


 窓越しに看板を見た。夕闇の中に白く浮かぶ、武骨な字。


 『菓子工房メルヴェーユ』


 明日も——焼こう。木の実タルトを。辺境の素材で、食べる人の顔を想いながら。




 翌朝。


 石窯に火を入れて、黒胡桃の殻を割り始めた時——扉が開いた。


 朝の光の中に、大きな影。灰銀色の髪。


「……北の見回りの前に寄った」


「おはようございます、セドリック様。今日は北回りなんですね」


「ああ」


「——工房は南ですけど」


「…………」


 沈黙。


 リゼットは——笑った。声に出さず、口元だけで。


「胡桃の殻割り、手伝ってもらえませんか。一人だと追いつかなくて」


 セドリック様が——腕を組み直した。


「……北の見回りは、少し遅らせてもいい」


「ありがとうございます」


 小槌こづちを渡した。セドリック様の大きな手が、小さな小槌を受け取る。


 かち、と音がした。殻が割れる。慣れない手つきで、でも力加減は正確に。武人の手は——力の制御に長けている。


 隣に座って、リゼットも殻を割り始めた。


 かち。かち。かち。


 二人分の小槌の音が、朝の厨房に響いた。


 窓から差し込む秋の朝日が、カウンターの上に四角い光を落としている。石窯の火が赤く揺れている。黒胡桃の乾いた木の香り。窯のバターが溶ける甘い匂い。


 静かだった。


 会話はない。でも——不思議と、満ちていた。


 かち、かち。


 小さな音。二人分の。


 リゼットはちらりと隣を見た。セドリック様の横顔。朝日が灰銀色の髪に金色を混ぜている。左頬の傷跡。真剣な目。——胡桃の殻割りに、真剣な目。


 ふ、と笑いそうになった。堪えた。


 この人は何をするにも真剣だ。剣も、領地のことも、胡桃の殻割りも。


「セドリック様」


「何だ」


「——また明日も、来てくれますか。殻割り」


 セドリック様の手が——一瞬、止まった。


「……看板が傾いているかもしれん」


「真っ直ぐですよ」


「確認しないと分からん」


 リゼットは——今度こそ、笑った。声に出して。


 明日も来る。


 この人は——明日も、ここに来る。


 石窯の火が、赤く揺れていた。朝の光が、厨房を温かく照らしていた。胡桃の殻割りの音が——二人分、響いていた。


 辺境の菓子師の、新しい朝だった。

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