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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
王都の毒と蜜

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32/42

第32話: 目にゴミが

 ギルベール・フォン・メルヴェーユの指が——プティフールに、伸びた。


 擦り切れた袖口。でも手入れだけは完璧な、かつての伯爵服。その袖から覗いた痩せた指が、銀のフォークを取り上げる。


 会場が——静まった。リゼットの心臓が、喉の奥で鳴っている。




 フォークの先が、黒胡桃のフィナンシェに触れた。


 かつ、と小さな音。焼き色のついた表面に、フォークの跡がつく。


 割った。


 断面が見えた。焙煎した黒胡桃の粒が、きめ細かい生地の中に散っている。焦がしバターの香りが、割れた断面からふわりと立ち上った。


 口に運ぶ。


 咀嚼そしゃく。一度。二度。三度——


 リゼットは息ができなかった。


 父の顔を見ている。琥珀色の目——自分と同じ色の目が、フィナンシェを噛みしめている。眉間の皺。不機嫌そうに曲がった口元。いつもの、あの顔。


 四度目の咀嚼で——動きが、止まった。


 ギルベールの目が、わずかに見開かれた。


 何も言わない。フォークを置くこともなく、そのまま——次のひと品に手を伸ばした。


 霜花蜜のボンボン。


 白い球体を丸ごと口に入れた。噛むと、中から霜花蜜の一滴がじわりと滲むはずだ。白霜の森の花から集められた蜂蜜の、澄んだ甘さが——舌の上に広がるはずだ。


 ギルベールの咀嚼が——遅くなった。


 一口ごとに、確かめるように。味を追うように。舌の上で転がして、奥歯で噛みしめて、飲み込んで——そしてまた、次へ。


 高原りんごのコンポート。


 匙ですくう。透明な琥珀色の果肉が、匙の上で震えている。バターと霜花蜜で煮込んだりんごは、酸味が消えて甘みだけが残っている——でも、ただ甘いだけじゃない。りんごが生きていた時の記憶が、甘さの奥に、かすかに残っている。


 口に入れた。


 ギルベールの喉が——動いた。


 ベリーのタルトレット。


 紫色の果実が焼き込まれた小さなタルト。サクッとした生地を噛む音が、静まった会場に小さく響いた。


 そして——


 中央のカラメル。


 辺境の蜂蜜を煮詰めた、琥珀色の結晶。辺境の太陽の色。あの土地の光と風と、長い冬を越えた蜜蜂たちの——命の味。


 ギルベールの指が、カラメルをつまんだ。


 口に入れた。


 噛んだ。


 ぱき、と結晶が割れる小さな音。蜂蜜の濃い甘さが、口の中に広がっているはずだ。焦がした砂糖のほろ苦さと、霜花蜜の透き通った甘さが混ざり合って——


 ギルベールの手が——止まった。


 フォークが、テーブルの上に置かれた。音もなく。静かに。


 肩が——震えていた。


 リゼットは見ていた。息を止めて。まばたきもせず。


 父の、琥珀色の目が——潤んでいく。


 光を受けて、ゆらゆらと——水面みなものように。


 リゼットには——分かった。


 菓子師の舌で。絶対味覚で。いいえ——娘の目で。


 父が何を感じているのか。あの舌が、何を味わっているのか。


 お母様の——味。


 エレーヌ・フォン・メルヴェーユ。料理上手だった母。豪華ではないけれど、食べる人のことを想って作る、温かい菓子。ギルベールの舌を唯一満足させた、あの人の味。


 リゼットの菓子には——母の面影がある。


 素材に語りかけること。食べる人を想うこと。火加減を手で感じること。母から受け継いだ、菓子師としての根っこが——この五つの小菓子プティフールの、すべてに染みている。


 ギルベールの批評舌は——それを、感じ取った。


 言語化できないほどの衝撃として。あの饒舌な批評家が、一言も発せないほどの——衝撃として。


 涙が——一筋、頬を伝った。


 琥珀色の目から溢れた雫が、痩せた頬を滑り落ちて、擦り切れた伯爵服の襟元に落ちた。


 ギルベールが——袖で目元を拭った。


 乱暴に。ごしごしと。


「……目にゴミが入っただけだ」


 声が——かすれていた。


 尊大で、偏屈で、口うるさい父の声が——かすれて、揺れている。


 リゼットの視界が——滲んだ。


 ああ——お父様。


 お父様の舌は。あの批評舌は。わたしの絶対味覚の——根っこだったんだ。


 味を分析する力。素材の良し悪しを見抜く力。火加減の一度の差を、舌で感じ取る力。母から受け継いだ「想い」を、父から受け継いだ「舌」で——わたしは、菓子を焼いている。


 二人の——娘だから。


 ギルベールが立ち上がった。


 椅子を引く音が、静かな会場に響いた。背を向ける。痩せた背中。かつては恰幅が良かったであろう肩が、今は骨ばっている。


 歩き出す。


 リゼットは——呼び止められなかった。声が出なかった。涙で喉が詰まって、何も——


 ギルベールが——足を止めた。


 振り返らない。背中のまま。


「……不味くは、ない」


 短い言葉。ぶっきらぼうな言葉。


 でも——リゼットには聞こえた。その声の奥にあるものが。


 認めている。娘の菓子を。菓子師としての娘を。十八年間、一度も肯定してくれなかった父が——初めて。


 不味くは、ない。


 それが——ギルベール・フォン・メルヴェーユの、精一杯だった。


 痩せた背中が、会場の出口に消えていく。振り返らない。最後まで。


 リゼットの涙が——溢れた。


 止まらなかった。止める必要もなかった。


 お父様に——認められた。


 たった一言で。たった六文字で。それだけで——十分だった。




 会場がざわめいた。


 審査員長が壇上に立ち、咳払いをした。


「第四十二回王立菓子品評会——本選の結果を発表いたします」


 リゼットは涙を拭った。指先で、頬の雫を拭って——前を向いた。


「本年の最優秀賞は——」


 息を吸った。


「辺境ヴィントヘルム代表、リゼット・フォン・メルヴェーユ殿の『辺境のプティフール』」


 会場が——沸いた。


 歓声。拍手。ざわめき。でもリゼットの耳には——遠く聞こえていた。水の中にいるみたいに。ぼんやりと。


 優勝した。


 辺境の素材だけで——王都の菓子師たちを、超えた。


 審査員が講評を述べていた。


「素材の質ではなく、素材への理解と愛情の深さ。どの一品にも、作り手がその素材と向き合い、対話した時間が感じられる。辺境にしかない味——いえ、辺境だからこそ生まれた味。本年の品評会において、最も心を動かされた一皿でした」


 リゼットは頭を下げた。深く。言葉が出なくて、ただ——深く。




 祝賀の喧騒の中を、一つの人影がリゼットに近づいた。


 金髪。翡翠色の目。豪華な宮廷服。


 ヴァレンティン・フォン・クラウゼン。


 王太子殿下は——いつもの慇懃無礼な笑みを、浮かべていなかった。


 リゼットの前に立った。沈黙が、数秒。


「……なぜ」


 声が——低かった。あの尊大な断定調ではない。もっと——素朴な、剥き出しの声。


「なぜ、あの時お前を手放したのか」


 リゼットは——殿下の目を見た。


 翡翠色の瞳が揺れている。自信に満ちていたはずの目が。底の浅さを自覚してしまった人間の目。


「私は——判断を、誤った」


 言葉が、一つ一つ絞り出されるように落ちた。


「お前の菓子の価値を——理解していなかった。高級な素材でなければ一流ではないと、そう思い込んでいた。それは……私の浅さだ」


 会場の喧騒が遠くなった。二人の間だけ、静かだった。


 リゼットは——長い息を、吐いた。


 怒りは——もう、ない。恨みも。あの日、「お前の菓子はもう不要だ」と言われた日の痛みは、消えてはいない。たぶん、一生消えない。


 でも。


「殿下」


 リゼットは、微笑んだ。


「殿下のおかげで、辺境の素材に出会えました」


 ヴァレンティンの目が——見開かれた。


「あの日追放されなければ、わたしは辺境の厨房を知らなかった。高原りんごも、霜花蜜も、黒胡桃も——出会えなかった。このプティフールは、生まれなかった」


 許してはいない。あの日の痛みを、なかったことにはしない。


 でも——恨んでもいない。


 前を、向いている。もう、とっくに。


「……そうか」


 ヴァレンティンが——目を伏せた。


 長い睫毛が影を落とす。唇が結ばれて、喉が一度動いた。言いたいことが、まだあるのかもしれない。引き留めたい言葉が。呼び戻したい過去が。


 でも——言わなかった。


 目を伏せたまま、小さく頷いて——踵を返した。


 宮廷服の裾が翻る。金髪が揺れる。その背中は——来た時より、少しだけ小さく見えた。


 自分の浅さを知った男の、背中だった。




 祝宴の会場は、華やかな光に満ちていた。


 シャンデリアの灯りが磨かれた床に反射して、宮廷服の宝石がきらきらと輝いている。笑い声。祝杯の音。美しい音楽。


 リゼットは——少し、居心地が悪かった。


 三年前まで、ここにいた。宮廷の端っこで、菓子を焼いていた。でも今は——もう、ここの人間ではない。


 人々がリゼットの周りに集まっていた。「辺境の菓子師」に興味を持った貴族や商人たちが、次々と声をかけてくる。


 その輪の外に——一人、立っている人がいた。


 灰銀色の髪。質素な革鎧。左頬の傷跡。大きな体を壁際に寄せて、居心地悪そうに腕を組んでいる。


 セドリック様だった。


 誰かが声をかけたらしい。「そちらの方は?」と。


 セドリック様が——短く、答えた。


「辺境の菓子師だ」


 それだけ。


 辺境伯でも、騎士でもなく。リゼットの肩書きでも、出身でもなく。


 辺境の菓子師。


 その声に——誇りが、滲んでいた。


 ぶっきらぼうで。短くて。でも——あの低い声の底に、確かな温もりがあった。


 リゼットはセドリック様と目が合った。


 人混みの向こう。シャンデリアの光が、青灰色の瞳にちらちらと映っている。


 言葉は——なかった。


 何も言わなかった。目が合って、ほんの一瞬、セドリック様の口角がかすかに動いた——それだけ。


 でも——通じていた。


 お前の菓子は、俺が一番知っている。


 そう言っている気がした。


 リゼットは——笑った。目が熱くなるのを堪えながら。今日はもう、何度泣いたか分からない。これ以上は——格好悪い。




 祝宴の後。宿に戻る馬車の中で。


「リゼット」


 セドリック様が、名前を呼んだ。


 あの焼きりんごの日から変わった呼び方。「お前」ではなく、「リゼット」。まだ少し硬くて、慣れていない感じが残っている——でも、呼ぶたびに少しずつ、自然になっていく。


「はい」


「宮廷菓子師への復帰——話が来たら、どうする」


 リゼットは窓の外を見た。


 王都の夜景が流れていく。煌びやかな灯り。石畳の街路。すれ違う馬車。華やかで、美しくて——もう、リゼットの場所ではない街。


「帰ります」


 迷いは——なかった。


「わたしの厨房は、辺境にありますから」


 セドリック様が——リゼットを見た。


 青灰色の目が、ほんの一瞬だけ——柔らかくなった。ほんの一瞬。見逃してしまいそうなほど短い。でも——リゼットには、見えた。


「……ああ」


 短い返事。いつもの「ああ」。でも——その声が、温かい。


 馬車が石畳の上を走る音。車輪の軋み。馬の蹄の音。窓から入る夜風が、リゼットの蜂蜜色の髪を揺らしている。


「セドリック様」


「何だ」


「……わたし、優勝しました」


「知ってる」


「すごくないですか」


「……まあ、悪くはない」


 リゼットは——吹き出した。


 お父様と同じ言い方だ。「悪くはない」。不器用な人たちは、みんな同じ言葉を選ぶ。


 セドリック様が怪訝そうに眉を寄せた。


「何がおかしい」


「いえ——ふふ、なんでもありません」


 笑いが収まらない。でも、嬉しい笑いだった。泣いた後の、温かい笑い。




 翌朝。帰路の馬車。


 王都の城門を抜けた。街道が——北へ伸びている。辺境へ向かう、長い長い道。


 馬車の中は二人きりだった。


 来た時よりも——距離が、近い。向かい合わせに座っているのは同じなのに、膝と膝の間が、少し狭くなっている。


 窓の外を、秋の野が流れていく。収穫の終わった畑。黄金色の草原。遠くに見える山並み。


 リゼットはぼんやりと景色を眺めていた。優勝の興奮が少しずつ引いて、穏やかな疲れが体に広がっている。心地よい疲れだった。


「リゼット」


「はい?」


 セドリック様が——口を開いた。


 でも、すぐには言葉が出てこなかった。青灰色の目が、リゼットを見て——逸れて——また戻った。


「一つ、頼みがある」


 リゼットの心臓が——跳ねた。


 セドリック様の声が、いつもと違った。ぶっきらぼうなのは同じだ。短いのも同じだ。でも——緊張している。あの剣だこのある手が、膝の上で——かすかに、握られている。


「はい。何でしょう」


 セドリック様が——口を開いた。


 言いかけた。唇が動いて、息を吸い込んで——


 閉じた。


 言葉を飲み込むように、唇を結んだ。視線が窓の外に逃げた。


「……いや」


 低い声。


「帰ってからでいい」


 リゼットは——息を止めていたことに、気づいた。


「帰ってから、ですか」


「ああ」


「……分かりました」


 何を——頼みたかったんだろう。


 セドリック様の横顔を見つめた。秋の陽が差し込んで、灰銀色の髪に金色の光が混じっている。左頬の傷跡。結ばれた唇。少しだけ赤くなった——耳。


 耳が赤い。


 リゼットの胸の奥が——きゅっと、鳴った。


 帰ってから。辺境に帰ったら。あの厨房で——あの石窯の前で——何を、頼むんだろう。


 想像した。ほんの少しだけ。


 頬が——熱くなった。


 慌てて窓の外に目を逸らした。秋の野原が流れていく。金色の草が風に揺れている。


 帰ろう。辺境に。


 わたしの厨房に。わたしの石窯に。わたしの——居場所に。


 この人と一緒に。


 馬車の車輪が、石畳から土の道に変わった。がたがたと揺れる。その振動で——リゼットの体が、ほんの少しだけ傾いた。セドリック様の方に。


 戻さなかった。


 セドリック様も——何も言わなかった。


 秋の風が、馬車のほろを揺らしている。辺境へ続く道は——長い。


 でも——悪くない。


 第3章「王都の毒と蜜」——完。

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月並みな言葉しか書けないが、面白い!!!
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