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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
王都の毒と蜜

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31/42

第31話: 辺境の風景

 手が、震えている。


 白いエプロンの紐を結ぼうとして——指先が滑った。三度目。朝の支度でこんなに手間取るのは初めてだった。


 品評会本選の、朝。




 控え室の扉の前で、セドリック様が壁に背をもたせて立っていた。


 腕を組んで、目を閉じて。革鎧の上からでも分かる、あの広い肩。辺境伯の紋章が朝の光に鈍く光っている。武人が菓子の品評会の会場にいるのは、明らかに場違いだった。


「セドリック様」


 目が開いた。青灰色の瞳が、リゼットを捉える。


「……準備はいいのか」


「はい。——いいえ、正直に言うと、手が震えて」


 エプロンの紐を見せた。結びきれていない、情けない蝶結び。


 セドリック様は何も言わなかった。


 ただ——右手を、差し出した。


 大きな手。剣だこのある、武骨な指。リゼットがその手を取ると——きゅっと、一度だけ握られた。強く。温かく。それだけ。


 手が離れた。


「行け」


 短い言葉。でも——あの声だった。丘の上で「行け」と言ってくれた、あの揺るぎのない声。


 震えが——止まった。


「……行ってきます」


 エプロンの紐を結んだ。今度は一度で結べた。




 本選会場は、王城の大広間だった。


 天井が高い。シャンデリアが七つ。磨かれた大理石の床に、菓子師たちの作業台が一列に並んでいる。作業台の向こうに審査員席が五つ。その後ろに観覧席が階段状に広がって——満席だった。


 貴族たちのざわめきが、天井の高さに反響して波のように押し寄せる。絹の衣擦きぬずれ。扇を広げる音。あちこちで交わされる品定めの視線。


 リゼットの作業台は——端だった。


 辺境からの出場者。王都では無名。いちばん端の台。


 でも——構わない。


 隣の作業台には、宮廷菓子師が三人並んでいた。彼らの素材を横目で見た。南方の上等な砂糖。温室栽培の薔薇の花弁。金箔。銀粉。異国から取り寄せた香料の小瓶が、宝石箱のように光を弾いている。


 華やかだった。


 それに比べて——リゼットの作業台。


 木箱を一つ、開けた。


 黒胡桃。殻のまま、小さな麻袋に入っている。秋の収穫祭の時、村の子どもたちと一緒に拾い集めたもの。


 霜花蜜。白い蜂蜜の入った陶器の壺。蓋を開けると、ほのかに花の香りがする。白霜の森の奥深く、冬だけ咲く花から集められた、辺境の宝物。


 高原りんご。三つ。小粒で、皮がくすんでいる。王都の果物屋なら見向きもしない、地味な果実。でもリゼットは知っている。この酸味が火を通せばどれほど甘くなるか。


 ベリー。夏の盛りに摘んで、砂糖漬けにして保存したもの。瓶の中で赤紫色が深く沈んでいる。


 そして——霜花蜜をもう一壺。カラメル用の。


 素朴。地味。華やかさの欠片もない。


 隣の宮廷菓子師が、リゼットの素材をちらりと見て——目を逸らした。興味を失ったように。


 以前なら——怯んでいた。


 予選の日、隣の台の金箔に気圧されて、手が縮こまった。「素材が貧弱」と言われて、唇を噛んだ。


 でも——今は。


 リゼットは作業台の前に立って、深く息を吸った。


 辺境の素材の匂いが——鼻を満たした。胡桃の乾いた木の香り。蜂蜜の甘い花の香り。りんごの青い酸味。ベリーの熟した果実の香り。


 全部——知っている匂いだ。辺境の厨房で、何百回と嗅いだ匂い。


 大丈夫。


 わたしの菓子は——ここにある。




 開始の鐘が鳴った。


 制限時間は二刻ふたとき


 まず——黒胡桃のフィナンシェ。


 殻を割る。かち、かち、と小槌こづちで叩く乾いた音が、大広間に響いた。周囲の菓子師たちは砂糖を計り、バターを溶かしている。リゼットだけが——殻を割っている。


 中から現れた胡桃の実は、深い褐色をしていた。辺境の黒胡桃は、王都の白胡桃より小さくて硬い。でも——香りが、濃い。


 鉄鍋に胡桃を入れて、火にかけた。


 弱火で、じっくりと。焙煎ばいせん


 ぱちっ。


 最初の一粒が爆ぜた音がして——香りが、変わった。


 生の胡桃の青臭さが消えて、深い焦げ茶色の香りが立ち上る。ナッツの脂が熱で目覚めて、甘い煙のような香ばしさを放ち始める。


 秋だ——と、思った。


 辺境の秋。収穫祭の朝。マリーさんの宿屋の前に、村人たちが集まっていた。木の実を袋いっぱいに抱えた子どもたち。「お姉ちゃん、タルト焼いて!」とリゼットの袖を引っ張った小さな手。石窯に火を入れて、木の実を砕いて、タルト生地に混ぜ込んで——。


 あの日の空気が、焙煎の香りと一緒に蘇る。


 胡桃を鍋から上げて、粗く砕いた。バターを別鍋で焦がす。薄い金色から琥珀色へ、琥珀色から茶色へ。ナッツの香りとバターの焦げる匂いが混ざり合って——厨房の空気を塗り替えていく。


 小さな型に生地を流し込む。焙煎した胡桃を散らす。窯に入れる。


 一つ目——秋の山。




 次に——霜花蜜のボンボン。


 白い蜂蜜を小鍋で温めた。


 蓋を取った瞬間——花の香りが、ふわりと広がった。上品で、冷たくて、どこかはかない甘さ。王都にはない香りだ。この蜂蜜は、冬にしか咲かない花から集められる。白霜の森の奥深くで、雪の下にそっと花を開く——あの小さな白い花から。


 冬の記憶が蘇った。


 白霜の森。一面の雪。息が白い。リゼットの隣をセドリック様が歩いていた。「足元に気をつけろ」と、あのぶっきらぼうな声で言いながら。雪の下に見つけた蜂蜜の巣箱。蓋を開けたら、真っ白な蜜がたまっていて——冬なのに、花の香りがした。


 温めた霜花蜜に砂糖を加えて、飴を煮る。


 温度計を見つめる。ここが肝心だ。高すぎれば飴が硬くなる。低すぎれば固まらない。


 ……今。


 火から下ろす。鍋を傾けると、透明な飴が糸を引いた。光を通すと、ほんのり乳白色に輝いている。霜花蜜の色だ。


 小さな型に飴を薄く流し、中央に温めた霜花蜜を一滴落とす。その上から飴でそっと蓋をする。蜜を——閉じ込める。


 冬の白い森を、飴の中に封じたような。


 二つ目——冬の森。




 高原りんごのコンポート。


 りんごを薄く切った。小さくて固い果実。皮ごと。


 鍋に並べて、霜花蜜を回しかける。弱火にかけた。


 最初は——酸っぱい匂いしかしない。生のりんごの、青くて硬い酸味。舌の奥をきゅっと締めるような。


 でもリゼットは知っている。待てば——変わる。


 五分。りんごの端が透き通り始めた。


 十分。酸味の中に、甘い匂いが混じり始める。


 十五分——。


 酸味が、甘みに変わる瞬間。


 それは、いつも突然やってくる。酸っぱかったりんごが、ある温度を超えた瞬間にふわりと甘くなる。果汁が蜜と溶け合って、とろりとした琥珀色のソースになる。


 あの味だ。


 セドリック様が「甘い」と泣いた、あの焼きりんごの。春の雪解けの日、最後の一個を窯に入れて——三年分の味覚を取り戻した、あの甘さの、根っこにあるもの。


 りんごの酸味が甘みに変わる、あの奇跡。


 鍋の中で、薄切りのりんごが琥珀色に輝いていた。匙ですくうと、とろりと糸を引く。


 三つ目——春の畑。




 ベリーのタルトレット。


 小さなタルト台を焼く。薄く、さくさくに。バターの香りが立ち上る。


 砂糖漬けのベリーを鍋に入れて、煮詰めた。赤紫色の果実がとろりと崩れて、鮮やかなジャムに変わっていく。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。


 夏を——思い出した。


 辺境の夏。短くて、眩しくて、果実の匂いがする季節。丘の上のベリー畑で、朝露に濡れた実を一粒ずつ摘んだ。指先が赤紫色に染まって、マリーさんに笑われた。「リゼ、手が大変なことになってるよ」


 あの赤紫色を——そのまま、タルトに閉じ込める。


 焼き上がったタルト台にベリーのジャムを流し込んだ。鮮やかな赤紫色が、小さな器の中で宝石のように光っている。


 四つ目——夏の野。




 最後——カラメル。


 ここが、最後のピース。


 五つの小菓子を一つにまとめる、中央のカラメル。辺境の蜂蜜で作るカラメルを——ずっと構想していた。試作を何度も繰り返した。でも、どうしても味が決まらなかった。


 甘すぎると蜂蜜の個性が消える。苦すぎると他の菓子とぶつかる。何かが——足りない。


 霜花蜜を鍋に入れた。火にかける。


 白い蜂蜜が——熱で色を変え始めた。白から淡い金色へ。金色から琥珀色へ。泡が立つ。甘い匂いが立ち上る。


 ここにバターを加える。焦がしバター。


 じゅっ、と音がして、蜜とバターが弾け合った。鍋の中で二つが溶け合って——深い飴色に変わっていく。バターの焦げた香ばしさと蜂蜜の花の甘さが、一つになる。


 でも——まだ足りない。


 何かが、足りない。


 匙ですくって、味を見た。舌の上で転がす。


 甘い。香ばしい。でも——まとまらない。五つの菓子を「一つの風景」にする味には、なっていない。


 時間が、ない。


 周りの菓子師たちは仕上げに入っている。金粉を振り、花弁を飾り、華やかな皿を組み上げている。


 リゼットの手が——止まった。


 鍋の中で、琥珀色のカラメルが静かに泡を立てている。


 目を——閉じた。


 匂いだけが、ある。焦がしバターと霜花蜜の、温かい匂い。


 この匂いを——知っている。


 辺境の厨房。石窯の前。セドリック様が隣の椅子に座って、ビスコッティをかじっている。窓の外は白い雪。窯の火が赤く揺れている。焦がしバターの匂いと、蜂蜜の甘い香りと——。


 あの日。焼きりんごを焼いた日。


 バター。霜花蜜。シナモン。——あの三つで、セドリック様は「甘い」と泣いた。


 でも——もう一歩、先へ行けないだろうか。


 目を開けた。


 塩。


 ほんの一滴の——塩。


 辺境の岩塩を水で溶いた塩水を、一滴だけ。指先から落として——カラメルに混ぜた。


 匙ですくう。


 舌に乗せた瞬間——リゼットの目が、見開かれた。


 これだ。


 蜂蜜の甘さが、バターの香ばしさが、塩のひと粒で——ぴたりと、焦点が合った。ぼやけていた味の輪郭が、くっきりと浮かび上がる。


 甘いだけじゃない。苦いだけじゃない。甘さの底に、ほんのかすかな塩味がある。それが——全体を引き締めて、味に奥行きを生んでいる。


 焼きりんごには入れなかった。あの時は、バターと蜜とシナモンだけで精一杯だった。でも——今なら分かる。あの甘さの、さらにその先。辺境の風味の——新しい答え。


 カラメルを小さな型に流し込んだ。琥珀色の液体が、型の中でゆっくりと固まっていく。


 五つ目——辺境の太陽。




 白い皿の上に——五つの小菓子を、並べた。


 中央にカラメル。その周りを囲むように——フィナンシェ、ボンボン、コンポート、タルトレット。


 秋、冬、春、夏。そして——中央に、辺境の太陽。


 辺境の四季を、一皿に。


 一歩下がって——見た。


 華やかではない。隣の作業台に並んだ宮廷菓子師の作品は、金箔と花弁で彩られて宝石箱のように輝いている。それに比べれば、リゼットの皿は——素朴で、静かで、地味ですらある。


 でも。


 五つの小さな菓子の色が——一つの風景を描いていた。


 フィナンシェの深い焦げ茶色は秋の山。ボンボンの乳白色は冬の雪。コンポートの透き通った琥珀色は春の陽だまり。タルトレットの鮮やかな赤紫色は夏の野原。そして中央のカラメルの深い飴色は——全てを照らす、辺境の光。


 辺境の風景だ。


 リゼットの——居場所の、風景。




 審査が、始まった。


 五人の審査員が、順番に各菓子師の作品を味わっていく。


 リゼットの番は——最後だった。端の作業台だから。


 待つ間、観覧席をちらりと見上げた。


 ギルベールがいた。


 二階の観覧席の端。擦り切れた伯爵服を着て、腕を組んで座っている。眉間に皺を寄せた、不機嫌そうな顔。いつもの顔だ。周りの貴族たちと一言も交わさず——ただ、作業台の方を見つめている。


 目が合った——気がした。でもギルベールはすぐに視線を逸らした。「品評会の菓子を食べに来ただけだ」。あの言葉が聞こえるようだった。


 ヴァレンティンの姿も見えた。審査員席の後ろ、貴賓席に。金髪を完璧に整えた横顔。翡翠色の目が、冷たく光っている——いや。


 あの目には——毒事件の後から、何かが変わっていた。冷たさの奥に、迷いのようなものが揺れている。


「メルヴェーユ嬢の作品を」


 審査員の声が響いた。


 リゼットは——皿を持って、審査員席の前に進んだ。


 白い皿。五つの小菓子。


 審査員たちが皿を見た。


 一瞬の——沈黙。


「……素朴だな」


 審査員の一人が呟いた。白髪の老紳士。宮廷菓子の重鎮と呼ばれる人物だ。


 リゼットの心臓が、きゅっと縮んだ。予選の時と同じ言葉——。


 でも。


 老紳士がフィナンシェを手に取った。一口。


 咀嚼そしゃくが——止まった。


 目が——細くなった。噛みしめるように。もう一度、ゆっくりと。


 何も言わない。


 次にボンボンを口に入れた。透明な飴が歯に当たって、かりっと砕けた。中から霜花蜜の一滴がじわりと滲んで——老紳士の口元が、微かに緩んだ。


 まだ、何も言わない。


 コンポートを匙ですくう。琥珀色の果汁がとろりと流れて、口に入る。目を閉じた。


 タルトレット。ベリーの赤紫色が唇に触れて、さくりとした生地が砕ける。


 そして——中央のカラメル。


 老紳士が匙でカラメルをすくい取り——口に含んだ。


 長い、長い沈黙。


「これは——」


 老紳士が、目を開けた。


「辺境の風景が、見える」


 声が——震えていた。


 リゼットの心臓が、大きく跳ねた。


「一つ一つは素朴な菓子だ。だが——五つが揃った時、景色になる。山があり、森があり、畑があり、野原がある。そしてその全てを照らす光がある」


 他の審査員たちも——黙っていた。


 一人が、もう一度フィナンシェに手を伸ばしていた。もう一人は目を閉じたまま、コンポートの余韻に浸っている。


 誰も——言葉を探しあぐねていた。


 良い菓子は——人を黙らせる。


 マリーさんが手紙でそう書いてくれた。「リゼの菓子を食べると、みんな黙るよ。黙って、もう一口食べるんだ。それが答えだよ」


 審査員たちが——もう一口、もう一口と、プティフールに手を伸ばしていた。




 観覧席にも、試食が配られた。


 品評会本選の慣例。出場作品の一部が銀の盆に載せられて、観覧席の貴族たちにも届けられる。


 リゼットは作業台の前に立ったまま、それを見ていた。


 銀の盆が、観覧席を巡っていく。リゼットのプティフールが——一つずつ、貴族たちの手に渡っていく。


 盆が——ギルベールの前に、止まった。


 擦り切れた伯爵服。眉間の皺。不機嫌そうに曲がった口元。


 白い皿の上のプティフール——五つの小菓子が、父の前に置かれた。


 ギルベールは——皿を見つめていた。


 琥珀色の目。リゼットと同じ色の目。その目が——皿の上の菓子を、じっと見つめている。


 フォークを手に取った。


 銀のフォークが——フィナンシェに、そっと触れた。


 リゼットは——息を止めた。


 ギルベールがフォークを入れる。焦げ茶色のフィナンシェが、二つに割れる——。

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